#24

トヨタカップのひめごと
Toyota Cup 1993 in secret

読了時間:約10〜15分

 いとこのミカちゃんの話をしよう。
 彼女は僕の母の姉のひとり娘で、僕とはひとまわり歳が離れている。
 今は三人の子どもの子育てに追われる、そこらへんにいる普通のおばちゃんだけれど、僕が小さかったとき、彼女はとてもきれいなお姉さんだった。すらりと背が高くて、黒い髪が長くて、そして近づくといつも外国のお菓子のような、いい匂いがして。
 当時のミカちゃんのことを思い出すとき、きまって頭の中に浮かぶのは、冬のはじまりの午後の西日。そして建て替えられる前の懐かしい国立競技場でミランとサンパウロが戦った  あの白と黒と赤が入り混じった  トヨタカップの光景だ。
 そのとき僕は小学二年生で、ミカちゃんは二十歳の短大生だった。
 
 ◆
 
 あれは、よく晴れた十二月の半ばの日曜日だった。
 僕の両親は共働きでラーメン屋をやっていたので、定休日以外は毎日遅くまで忙しく、週末になると、僕は近所にあるミカちゃんの家に預けられることが多かった。
 その日も僕は朝からミカちゃんの家の世話になり、居間のこたつでジャンプを読んだり、撮りためたアニメのビデオを持ち込んで見たりしながら、のんびりだらだらと過ごしていた。
 ミカちゃんが思い立ったように僕を誘ったのは、お昼ご飯を食べ終わったときだった。
「今日、天気いいね」
「そうだね」
「なんかひまだし、ナオキ、外に遊びに行こっか。サッカーでもする?」
「え?」
 それまで、ミカちゃんとふたりでサッカーをしたことなんてなかったから、それは意外な提案だった。
「サッカー?」
「したくない?」
「いや、いいけど」
「よし、じゃあ行こう」
 玄関に出て、並んで靴を履いていると、ミカちゃんは家の中のどこかにいるお母さん(僕のおばさん)に向かって、
「お母さーん、ナオキと公園でサッカーしてくるからー」
 と大きな声を上げた。
「夕方までには帰るからー」
 その声は、やけに大袈裟に、芝居がかって僕の耳に聞こえた。なんか今日のミカちゃんは変だな、と思ったのを覚えている。
 
 サッカーしよう、と言い出したくせに、ミカちゃんの家にはサッカーボールがなかった。
 それでいったん、歩いてすぐの僕の家までボールを取りに行って、それからまた歩いて十分ほどの、ちょっと広めのグラウンドのある公園にふたりで向かった。
「ねえ、ナオキはチャンピオンシップ、どっちが勝つと思う?」
 何日か前、Jリーグのニコスシリーズでヴェルディ川崎が優勝を決めたばかりだった。年が明けると、そのヴェルディと、サントリーシリーズで優勝した鹿島アントラーズとの頂上決戦が待っている。
「うーん、ヴェルディ」
「だよね」
「最近のヴェルディすごい強いよ」
「でもアントラーズも強いよね。ジーコとかアルシンドとか、ヴェルディ戦になるとすごい気合い入れてくるじゃん」
「うん、なんかさ、審判がヴェルディの贔屓してるって言ってるんでしょ」
「そうそう。外国ではあるらしいよ。実際に審判が買収されたり」
「ばいしゅうって何?」
「買収っていうのは……まあいいよ、子どもは知らなくて」
 ミカちゃんとは、一緒にJリーグのテレビ中継を見て盛り上がることが多かった。女なのにサッカーに詳しいなんて、とは思わなかった。そのくらい当時はサッカーが、というよりJリーグが、ブームだった。
「ナオキは、海外のサッカーって興味ある?」
「海外って外国?」
「そう。ジーコとかリティとかさ、世界はすごい選手がいっぱいいるでしょ」
「リネカーも本当はすごいんだよね」
「そう、ブラジルとかイタリアとかドイツとか。そういうさ、Jリーグよりレベルがうんと高い試合。見たいと思う?」
 本当のことを言えば、僕はそんなものにはたいして興味がなかった。サッカーを好きになったのはJリーグがはじまってみんなが盛り上がっているからだし、その興味だって、僕の場合は、カズダンスが見たいとか、アルシンドの髪型が面白いとか、だいぶミーハー寄りだった。
 だけど来年はアメリカでW杯があるから(日本代表はついこの前、それに出場するチャンスを逃してしまったけれど)、外国のいろんな選手を知っていた方が面白いかもしれない。
 それに、ミカちゃんがやけに何かを勧めたがっているのがわかったから  もしかしたら試合に連れて行ってくれるかもしれないし、グッズを買ってくれるかもしれない  、僕は素直に頷いた。
「見たい」
「じゃあさ、これからテレビで見よう」
「え、これから?」
「うん、トヨタカップって知ってる?」
 僕の返事を待たずに、ミカちゃんは急に足を止めると、別の方向に歩き出した。家に引き返すのかと思いきや、ふたりの家の方角のどちらとも違う、バス停のある大通りへ向かう方へと歩き出したのだった。
 
 ◇
 
 あの年の冬は、ミカちゃんにとって独身最後の冬だった。春が来たら、彼女は短大を卒業し、結婚をして家を出ることになっていた。
 ミカちゃんの婚約者に、僕はそれまで一回だけ会ったことがあった。ミカちゃんの家に遊びに行っているとき、たまたまデートの帰りにその人が家までミカちゃんを送ってきて、玄関でおばさんと頭をぺこぺこ下げ合いながら話をしているのを覗き見したのだ。おばさんに手招きされて、僕も玄関に出てぺこりと頭を下げた。
「君がナオキくんか。いつも聞いてるよ。よろしくな」
 その人はミカちゃんより十歳も年上で、僕から見れば、男の人、というより、おじさん、に近かった。手の甲から指にかけて、茶色い綿ごみみたいな毛がびっしりと生えていて、その人のしゃべる言葉はみんな煙草の匂いがした。
 僕はその人の太くごつい手で頭をなでられて、怖い、と思ったのを覚えている。
 これからミカちゃんがこの人と暮らす、ということがどうしても想像できなかった。
 
 ◇
 
 バス停から路線バスに乗り、三つ目の停留所で降りて、入り組んだ狭い路地をしばらく歩いたところでミカちゃんは立ち止まった。目の前には二階建ての小さな古いアパートがあった。
「ここ」
「ここ?」
 ミカちゃんは僕の手を引いて、金属が軋む不穏な音のする階段を上った。
 
 部屋には、男の人がひとりいた。
 いた、というか、そこはその人が暮らしている部屋だった。
 大人の年齢はよくわからない。それでも、あの婚約者よりはずいぶんと若い。おそらくミカちゃんと同じくらいの年齢の人だった。「大人」と「お兄さん」の中間くらいの。彼はさらさらした髪を真ん中で分けていて、「TRUE LOVE」を歌う藤井フミヤにちょっとだけ似ていた。
 部屋は畳の一間と玄関の脇の狭い台所だけ。正面にカーテンのない窓があって、部屋の隅のテレビでサッカーが流れていた。
「やってる?」ミカちゃんが親しい調子で訊ね、「今、はじまったばかりだよ」と男の人が答えた。
 
 ミカちゃんが勝手にブーツを脱いで上がったので、僕もそれにならった。
 適当に座ってて、と男の人に言われて、適当というのがどの場所かわからずとりあえず部屋の畳にちょこんと正座をすると、ミカちゃんは唐突に言った。
「じゃあナオキ、悪いんだけど、ここでちょっとトヨタカップ見ててくれない?」
   ?
「私たち、ちょっと買い物があってさ、急いで行ってこなくちゃだから」
   ?
 僕が事態を把握する前に、ミカちゃんは脱いだばかりのブーツに足をつっこみ、男の人はコートを羽織って財布をつかみ、一緒に玄関から出て行こうとする。
「え、ちょっ……」
「大丈夫、試合が終わるまでには帰ってくるから」
「ああそうだ、これ、君にあげる」
 男の人はそう言うと、ドアノブにかかっていた膨らんだビニール袋をつかんで、それを僕の手に握らせた。
「カード集めてるっていうからさ、さっきコンビニで買ってきた。三つあるけど、全部食べていいから」
 袋を覗くと、中に入っていたのはJリーグチップスだった。僕ではなく、なぜかミカちゃんが「ありがとう」と礼を言った。
「……」
「ごめんね、ここにいて。お願い」
 ブーツを履いたミカちゃんは、片目をつむって拝むように手を合わせ、僕に懇願した。
「試合が終わる前に私たち、絶対帰ってくるから。約束するから」
「冷蔵庫にアクエリアスが入ってるから、よかったら飲んで。炭酸飲める? デカビタもあるから、それも飲んでいいよ。寒かったらストーブつけて」
 そのとき、背後で歓声が上がった。
 ゴーーール!とアナウンサーの声。振り向くとテレビの画面の中で白いユニフォームの選手たちが喜び合っている。どうやらゴールが決まったらしい。
 玄関に向き直ったとき、バタン、ドアが閉まる音がして、僕はそこに取り残された。
 
 ◇
 
 両親が店に出ているあいだ、家でひとりで過ごしたり、週末にミカちゃんの家までひとりで往復したり、そういう「ひとり」には慣れていたけれど、さすがに見知らぬ人の部屋でひとりきりでサッカーを見るのは、怖かった。
 でも今ここを逃げ出したらもっと怖いことが起こるような気がして、僕はおとなしくテレビの前に座り直すことにした。
 テレビの音量がやけに大きいのが、恐怖を和らげるせめてもの救いだった。
 
 サンパウロ対ACミラン。
 ACミランというチームの名前だけは聞いたことがあった。当たり前だが、選手はみんな外国人だった。アナウンサーによると、それはヨーロッパ王者と南米王者が世界一のチームを決める、とても大きな試合なのだそうだ。
 これがトヨタカップか。
 ミカちゃんはこれを僕に見せたくて僕をここに連れてきて、僕がこれをおとなしく見ていれば、ちゃんとミカちゃんはまたこの部屋に戻ってきてくれる。
 そこまで理解したとき、子どもながらに、僕は自分が「口実」として使われていることにようやく気づいた。手に握っているこのJリーグチップスで、まさに「買収」されているに違いないと。これは、おばさんにもおじさんにも、もちろん両親にも言ってはいけないやつだ、と。
 僕はどちらかというと子どものときのことをよく覚えているタイプで、印象に残る場面は割と鮮明に映像として記憶している。
 思い返せば、ミカちゃんのその日の格好は、小学生の男の子と公園でサッカーをするための服装ではなかった。革のブーツに、白いダッフルコート。ふわふわしたセーター、そして短いスカート。とてもボールを蹴るような格好じゃない。
 僕はビニール袋からJリーグチップスをひとつ取り出し、袋の外側についているカードの袋を破って中身を確かめた。ガンバの磯貝だった。いいカードが当たって素直に嬉しかった。ようやく、ここはミカちゃんの言うことを聞くしかない、と思えた。
 
 
 ◇
 
 ミカちゃんの結婚が決まったらしい、という話を最初に聞いたのは、その年の夏、Jリーグのニコスシリーズが開幕した頃だった。
 ミカちゃんの家の情報は、母を通じて何でもすぐに我が家に入ってくる。
「早いわねえまだ二十歳なのに」と母が口惜しそうに言い、「まあでもいい人が見つかったならよかったじゃないか」と父が応じたのを覚えている。
「あの家は厳しいから、変な虫がつく前に決めたかったんだろ」
「でも早いわよお」
 商店街の外れでラーメン屋をやっている僕の家と違って、ミカちゃんの家は、お父さん(僕のおじさん)が銀行勤めで、かなり厳格な家庭なのだ。僕が遊びに行ったときは例外的に許されているけれど、本当は漫画もアニメも、ゲーム機もカップラーメンも禁止。映画だって恋愛ものは見ちゃいけないことになっていた。
 あるとき、高校生のミカちゃんがドラマを見ていたら、いきなりおじさんがテレビを消して怒り出したことがあった。
「こんなもの誰が見ていいって言った!」
 僕だったら、見ていたテレビを突然消されたら断固抗議するけれど、ミカちゃんはそういうときに怒ったりしない。
「ごめんなさい」
 素直に頭を下げて、我慢して、瞬時にあきらめる。物心がついたときから、子どもは大人の言うことをきくものとずっと躾けられて育ってきたのがミカちゃんなのだった。
 両親の会話を横で聞きながら、きっとミカちゃんはおじさんから「この人と結婚しなさい」と言われて、「はい」と頭を下げてそれを受け入れたのだ。僕はそう思った。
「ナオキ、さびしくなるね」
 母が僕に気づいて声をかけた。
「まあでも、あんたもそのうち学校の友達と遊ぶようになれば、あの家の世話にならなくてもいいわね」
 大人はみんな、勝手に子どもの心の中まで決めつける。
 横から父が、思いついたように口をはさんだ。
「でもさあ、ミカちゃん、好きな人いたんじゃなかったか」
「ああ、高校の同級生の子でしょう」
「いや詳しいことは知らないけど」
「別れたんですって」
「別れさせたのか」
「知らないわよ」
 
 今となれば、なぜ僕があの日あのときあの場所で、ひとりぽつねんとトヨタカップを見なければならなかったのか、ほとんど正確に想像がつく。
 十二月半ばの日曜日のその日は、親の目を盗んでミカちゃんがその人と過ごすことのできる最後のクリスマスだったのだろう。
 
 ◇
 
 テレビの前でJリーグチップスをつまみながら、前半終了の笛を聞いた。
 1対0でサンパウロがリード。
 コマーシャルが流れ出すと、途端に「知らない人の知らない部屋にひとりでいる」という状況が真に迫ってきて落ち着かなくなる。
 喉が渇いたので、立ち上がって冷蔵庫からアクエリアスの缶を取り出し、開けて飲んだ。
 改めて部屋を見渡すと、壁にマラドーナのポスターが貼られ、サッカー選手が表紙になっている雑誌が隅に積まれていた。
 勝手に見たらいけないのかな、と思いつつ、僕はそれを手にとってめくった。サッカーマガジンとサッカーダイジェスト。本屋で見つけて気になっていたやつだった。いつかお小遣いで買おう。そんなことを考えながら、僕はようやく、ミカちゃんがやけにJリーグに詳しい理由を理解した。
 ふと本棚を見ると、ちょうど目の高さにあった写真立てに、ミカちゃんとさっきの男の人が並んでいる写真が飾られていた。
 背景はサッカー場だった。ミカちゃんから、「Jリーグを見に行った」なんて話は聞いていない。でも、明らかにそこはJリーグの試合会場だった。観客席の色の感じから、たぶん、フリューゲルスの試合だ。きっと、ミカちゃんはおじさんにもおばさんにも、僕にも内緒で、あの男の人と試合を見に行ったんだ。
 写真の中のふたりは寄り添って、とても楽しそうな表情をしている。当時の僕にはまだ「幸せ」という言葉の意味がわからなかったけれど、それはまさに「幸せ」な写真だった。
 もしもこの男の人がミカちゃんの結婚相手だったら  気づくと僕はそんなことを考えていた。いつか僕もこの人にJリーグの試合に連れて行ってもらえるかもしれない。定休日は月曜と決まっている我が家では、誰も僕をサッカーに連れて行ってはくれない。
 写真をじっと見つめながら、僕はミカちゃんがうらやましくて、でもそれ以上に、ミカちゃんがひどく可哀想に思えた。
 
 ◇
 
 後半がはじまると、試合のスコアは大きく動いた。まずはACミランの同点ゴール。
 ゴールを決めたマッサーロという選手が、数年後にJリーグでプレーするなんて、そのとき僕は想像もできなかった。
 サンパウロも南米王者として黙っていなかった。レオナルドのアシストから、トニーニョ・セレーゾのゴールが決まる。
 そのスローモーションの映像を見ながらJリーグチップスの二袋目を開けると、出てきたカードはエスパルスの長谷川健太だった。
 スター選手のカードが連続して出たことと、試合が白熱してきたことで、そのときにはもう、僕はひとりきりで知らない人の部屋にいる怖さを忘れていた。
 
 このままサンパウロが逃げ切るかと思われたが、ACミランもまた黙っていない。ヨーロッパ最優秀選手に輝いたことがあるというパパンのヘディングで再び同点に追いつく。
 決勝点は呆気ないかたちで生まれる。ACミランのゴール前へトニーニョ・セレーゾが出した縦パスが、走り込んだフォワードの選手のかかとに当たって、そのままゴール。
 試合の終盤、僕はテレビにかじりつくように身を乗り出し、夢中で試合の行方を見つめていた。
 マッサーロ、トニーニョ・セレーゾ、レオナルド、パパン、ミューレル、デサイー、バレージ  この一試合で、僕はたくさんの選手の名前を知った。そのほとんどが、歴史に残る名選手だと知らずに。
 3対2でサンパウロがACミランを下し、世界一になった瞬間を見届けて、僕は、この試合のことが掲載されるサッカー雑誌を絶対に買おうと決めた。
 喜びを爆発させる南米王者を眺めながら、最後のJリーグチップスを開けると、入っていたカードはなんとラモス瑠偉だった。なんで今日はこんなにいいカードばかり出るんだ。どこのコンビニで買ったか、あとで絶対に教えてもらおうと思った。
 と、そのとき。ガチャ、と音がして、玄関のドアが開いた。
 
 ◇
 
「ナオキ、ありがとう!」
 ミカちゃんと男の人が、ふたりとも白い息を吐きながら部屋に入ってきた。
 男の人は、ミカちゃんがブーツを脱ぐのに手間取っているあいだに、さっさと部屋に上がって、僕のそばに座り、お、サンパウロ勝ったじゃん、と嬉しそうに僕の背中を叩いた。
「ごめんな。ひとりで大丈夫だった?」
「はい」
「留守番、ありがとな」
「いえ……」
 買物に出かけると言ったくせに、ミカちゃんの手にはコンビニの袋以外に荷物はなかった。
 ミカちゃんは部屋に上がると、手にしたそれを僕に押しつけ、
「ナオキ、もうひとつお願いがあるんだけど、今日、ここでテレビ見てたこと、お父さんとお母さんには内緒にしてくれる? 公園で一緒にサッカーして、帰り際にボールがなくなって探してたら遅くなっちゃった、ってことにしてくれる?」
 と言った。袋の中身はまたしてもJリーグチップスだった。
「これ、私からのお礼だから」
 その横で男の人が、「口止め料だろ」とさびしそうに笑った。
 
 ◇
 
 テレビの中継が終わってから、僕とミカちゃんは部屋を出た。
 ついさっき帰ってきたとき、ミカちゃんの頬がりんごみたいに赤く染まっていたから、よほど外は寒いのかと思ったけれど、おもてに出てみるとそれほどではなかった。
「トヨタカップ、面白かったよ」
 僕はミカちゃんを安心させたくて、そう口にした。
「そう、よかった」
「あの人もサッカー好きなんだね」
「うん」
 階段を下りると、ミカちゃんは立ち止まり、アパートを振り返った。そして、
「ごめん、ちょっと待ってて、忘れ物しちゃったから。ここにいて」
 と言うなり、僕を残して階段を駆け上がっていった。
 
 十五分くらい、僕は階段の下で待たされた。
 忘れ物を取りに行っただけなのに、ミカちゃんはなかなか戻ってこなかった。
 見上げた空は真っ青に晴れ渡っていて、さっきまで見ていた国立競技場の空と一緒だった。
 僕はひまだったので、自分がサッカー選手になってピッチの上で活躍する場面を想像した。
 白地に赤と黒の線が入ったサンパウロのユニフォームを着ている。ゴール前に走り込み、最強ディフェンダーと呼ばれるミランの選手たちの隙を突いて、レオナルドからのパスをシュートする。ゴールを決めてガッツポーズをする。アナウンサーが僕の名前を連呼する。
 部活動がはじまる年になったら、サッカー部に入って、サッカーをしてみたい、と僕は思った。
 
 ようやく戻ってきたミカちゃんは、赤い目をしていた。まるで泣き腫らしたみたいだった。実際に、泣いてきたのだろう。冬の西日が、きらきらと、その瞳を輝かせていた。
 僕は何も言わずに、歩き出したミカちゃんと手をつないで、その横を歩いた。ミカちゃんはもうそのアパートを振り返ることはなかった。
 トヨタカップの日のほんのわずかな時間は、最後のクリスマスどころか、ミカちゃんと彼にとっては、正真正銘の最後の時間だったに違いない。
 
 ◆
 
 その日の記憶があまりに強すぎて、ミカちゃんの結婚式のことは、あまりよく覚えていない。後ろの隅っこの席で食べ慣れない高級料理を食べていた、金屏風の前でミカちゃんがまるで別人みたいな格好をしていた、そんな場面だけが印象に残っている。
 
 ミカちゃんは結婚と同時に実家を出て、それから二年後に最初の子どもを産んだ。
 彼女とは盆や正月、親戚で集まるときにいつも顔を合わせるし、たまに彼女の家に呼ばれて子どもの遊び相手をすることもある。でももうサッカーの話はしない。
 年が明けてからのヴェルディとアントラーズのチャンピオンシップ  あのジーコの唾吐き事件  が、僕らがサッカーについて話をした最後になった。
 
 ちなみに、ミカちゃんが口止め料として帰りにコンビニで買ってきてくれたJリーグチップスは五袋もあって、そのカードがまた豪華だった。エスパルスの澤登、サンフレッチェの風間八宏、フリューゲルスのアンジェロに、ガンバ永島、そして極めつけは、ジーコ。
 奇跡のようなコンビニだった。
 
 僕はといえば、あのトヨタカップをきっかけに、海外サッカーに詳しくなった。
 翌年のアメリカW杯でいよいよ虜になり、小学四年のときにサッカー部に入部した。
 サッカーは大学までプレーした。そしてサッカーが好きなまま大人になり、実は今はあるJリーグチームの関連会社に就職し、広報宣伝の手伝いのような仕事をしている。
 
 今もときどき、名前も知らないあの男の人のことを思い出す。あの人とサッカーの話をしてみたい。そんなことをふと思ったりする。
 僕にとってのサッカーの原点は、あの冬の日の西日に照らされて、いつもきらきらと光り輝いている。
 
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FOOTBALL SHORT NOVELS COLLECTION :
FOOTBALL AND LOVE SONG
Written by Masashi Fujita

memo

クラブワールドカップの前身にあたるトヨタカップ。「お金持ちのスター選手揃いの欧州王者に、チーム一丸となって南米王者が挑む」という構図がパターンとなったこの大会が、毎年冬のはじまりの楽しみのひとつでした。プラティニの幻のゴールは残念ながら世代的に見られなかったけれど、一発勝負に賭ける南米チームの熱さ、彼らのしたたかさと我慢強さ、デルピエロやベッカム、ジダンといったまさに当時のスーパースターが国立や横国のピッチに立っているその画の華々しさ、いろんなシーンが記憶に残っています。クルゼイロがこの試合だけのためにベベットを獲得して、でも不発だった、という出来事も印象的でした。中でも強烈なのは、Jリーグ元年のトヨタカップ。サンパウロとミランの激突。この話の主人公と同じように、僕もまたこの試合で「海外サッカー」というものに初めて触れました。燃えたぎるような赤、冬の空に抜けるような白、そしてずしりと重い黒。トヨタカップといえば、いつも思い出すのはこの色たちです。(そういえば冠スポンサーのトヨタ自身、イメージカラーは赤だから、サンパウロ×ミランが妙にマッチするのはそのせいかもしれない。)