#03

どうでもいい奇跡
Miracle

読了時間:約15〜20分

 卵とネギ、りんご、ヨーグルト、スポーツドリンク、いちばん小さい袋のお米もいちおう。足りないものはあとからコンビニで買い足そう。
 
 熱がやばい助けて、と達也から連絡があったのは、今日の午前中、私が営業まわりをひとつ終えて、契約書をまとめるために会社に戻ったときだった。
 
 前の晩から悪寒がひどく、今朝になって発熱したらしい。熱は三八度台の後半で、とても外に出られないので仕事は休むというLINEが入っていた。
 
 〈大丈夫?ご飯とかちゃんと食べれそう?〉
 〈大丈夫じゃない。なにも食べる気にならない。助けて〉
 
 仕方がないので私は午後の仕事を詰めてこなし、会社のホワイトボードに「打ち合わせ→直帰」と書いて、日が暮れる前に会社を出た。
 
 白い袋の中身を確認しながら駅前のスーパーを出たところで、ドラッグストアに立ち寄るべきかと逡巡する。
 
 〈薬とかあんの?〉
 
 三分待っても返信はない。いちおう解熱剤だけでも買っていってやるか、と店に入りかけ、いや無駄な買い物になったらお金がもったいないと思い直して、私は駅から徒歩五分の、恋人の部屋へと歩を進めた。
 
 アパートの前にたどり着いたときにようやくポケットのスマホが震えたので、もう遅えよ、と呟きながら手に取ると、それはLINEの返信ではなく、駒野さんからの着信だった。
 
「あ、もしもしっ」
「未来ちゃん、仕事中だった?ごめん」
「ううん、大丈夫です。今帰ってる途中なんで」
「桜井さんの契約、取れたんだって?よかったね。しかも十年でしょう、やったね」
「ありがとうございます。まじで全部駒野さんのおかげですよ」
「そんなことないよ。でさ、金曜なんだけど、やっぱ無理そうだから土曜に変更してもいいかな?」
「あ、はい、全然平気ですけど、お店どうします?」
「いくつか目星つけてみたんだけど、あとで送るから見といてくれる?早めに予約しようと思うんで」
「わかりました。わざわざ電話どうもです」
 
 通話を終えた瞬間の自分の顔が、無意識にほころんでいて少し恥ずかしい。住宅地の一角で、誰が見ているわけでもないのだが、私はコホンとひとつ咳をしてわざといかめしい顔をつくり、マフラーに鼻先まで埋めて達也の部屋につながる外階段をゆっくりと上った。
 
 ◇
 
 合い鍵を使って部屋に入ると、おそらく灯油ストーブが一日中ずっとつけっぱなしだったのだろう、薄暗い玄関の空気がむわっとしていて気持ち悪い。汗臭い淀んだ空気をかきわけるように奥の部屋まで進むと、盛り上がったベッドの布団から垂れ下がった指が力なく持ち上がった。
 
「大丈夫?」
「大丈夫じゃない。九度二分」
 
 横向きでくの字に折れ曲がっている達也は、眉だけを動かし、この体温の数字ですべてを察してくれ、という表情をつくった。髪はぼさぼさで脂っこく、顔全体が青白いのに頬のあたりは赤らんでいる。ベッドの下には何度も着替えたのだろうスウェットやパーカーが散乱し、その上に体温計と飲み終えたゼリー飲料のごみ、達也が毎月買っているサッカー雑誌が落ちていた。私は体温計を拾ってケースに収める。
 
「それさあ、インフルエンザなんじゃないの」
「わかんない。関節が痛い」
「薬は飲んだ?」
「んなもんない、げほほっ」
 
 咳き込むと唾が飛ぶ。私は解熱剤を買わなかったことより、自己防衛のためのマスクを買うのを忘れたことを悔やんだ。来週の駒野さんとの約束まで、風邪だのインフルだのををうつされるわけにはいかない。
 
「しょうがないな。後で買ってきてあげる」
「悪い」
「まあ達也は水分しっかり摂って寝ててよ」
 
 とりあえずスポーツドリンクを袋から出してキャップを軽くひねり、枕的に置いておく。
 
「卵粥くらいなら食べられるでしょ」
「たぶん」
「たぶんじゃないよ、食べないとだめだよ」
 
 脱ぎ散らかされた衣類をまとめて洗濯機に放り込み、私は台所に立って米をといだ。
 
 ◇
 
 ごはんのスイッチを入れてから部屋を出て、私は駅とは反対の方向にある、近所のドラッグストアに向かっている。信号待ちのあいだにスマホを見ると、駒野さんからメッセージが入っていた。イタリアンレストランの店名とぐるなびのURLが立て続けに三つ。最後に〈どこがいい?〉と短いひとこと。
 
 駒野さんは同じ課に所属していて、年齢は三コ上。私の上司でもある。
 
 まだこの仕事をはじめたばかりの私に、駒野さんはとても親切だ。営業のコツを教えてくれたり、団体の営業に一緒に連れて行ってくれたり。今日契約を取れた桜井さんだって、もとは駒野さんのお客さんの知り合いで、脈がありそうだからとわざわざ私に紹介してくれたのだ。
 
「若い男だからさ、俺が行くより、未来ちゃんの方が確率は高いと思っただけだよ」
 
 そんなふうにサラッと言ってスッと顧客情報を添付ファイルで横流ししてくれる駒野さんは、実にスマートで頼り甲斐がある。
 
 もちろん、私だって二八年も生きているのだから、それがただの親切だとは思わない。駒野さんが私のことを気に入ってくれているのは明白だ。部下としてではなく、女として。あとは私がどうそれに応えるか、それとも応えないか。
 
 つい先日、「仕事のことで相談があるんですけど…」と口実をつくってふたりきりでの食事の約束をとりつけた私は、もちろん全力で駒野さんの期待に応えるつもりでいる。
 
 駒野さんは、一週間ずっと同じパーカーを着て仕事に行くような達也とは違い、毎日、高そうなスーツをぴしっと着こなしている。仕事ができるから将来有望で、当然年収もいい。三流私大をなんとか卒業した私と違って、有名国公立大卒の学歴もある。顔はどちらかといえば達也の方が好みだけれど、では駒野さんが不細工かといえばとんでもない、むしろ整いすぎていて私の方が気後れするくらいだ。
 
 私がもしも大学生だったら、と、ときどき思う。私は達也と一緒にいる安心感に満足しているだろう。気が合うし、話しやすいし、顔もいいし。でも私はもう社会人で、次の誕生日が来れば二九歳で、つまり来年には三十歳で、そろそろ結婚を考えたい。
 
 達也とは付き合って一年半になる。友達の彼氏の紹介で知り合った。私は保険の営業を、彼はウェブデザイナーをやっていて、仕事にはまったく接点がないが、お互い二八歳で同い年、駅も各停で二駅と近く、なんとなくうまが合ったので付き合うことにした。
 
 達也とはいつ終わろうかな。巨大なドラッグストアのフロアの一角に大量に陳列されたマスクの中から、最もウイルスに強そうなパッケージを選び、メイク落としと風邪薬、除菌スプレーと一緒にかごに入れてレジに並びながら、私は考えた。
 
 別れ話みたいなものはいちおう用意してある。ただそれを伝えるタイミングがない。土曜日に駒野さんと食事をしたら、その夜のうちに関係が進展する可能性ももちろんあるわけで、となると、できるだけ早めに達也とさよならしたほうがいい。二股はさすがに気が咎める。だけどさすがに三九度の熱のある人には切り出せない。
 
 そんなことを繰り返しぶつぶつ胸の内で呟くように考えながら達也の部屋に戻ると、炊きたてごはんのいい匂いが待っていた。
 
「ただいま」
「三八度九分」
「あ、ちょっと下がったじゃん」
 
 ササッと簡単に卵粥をつくり、達也に食べさせる。食欲がないと言いつつも、はふはふしながらそれを勢いよくたいらげた達也は、
 
「いやぁ、すげえ美味いっす」
 
 と口から湯気を出してまたベッドにごろんと横になった。
 
「こんなもんで褒められても嬉しくないけどね」
「いや、まじ美味かったっすよ。これで治る気がする」
 
 力のないとろんとした目で私を見つめ、達也が軽くほほえむ。私は少し胸が痛む。今夜は別れ話は無理だな、とあきらめさせるに十分なピュアさの笑顔だ。
 
「あ、悪いんだけど未来ちゃん、泊まっていくなら夜中起こして」
 
 クローゼットの中の布団セットを指さしながら、達也は言う。
 
「俺、今、アラームセットする気力もないから」
「夜中?何時?」
「えーっと、五時」
「早っ。夜中ってか明け方じゃん。何すんのそんな時間に起きて」
「サッカー、見るんだよ」
 
 あ、またそれか。ここに泊まっていくとはまだ決めていないんだけどな、と思いつつ私は、わかったよ、と承諾する。
 
 夜中にサッカー。達也と付き合いはじめてからいちばん戸惑ったのは、その不健康な習慣だ。達也の好きなバルセロナの試合はたいてい日本時間の真夜中にあって、一緒に見ようと誘われて一度だけ一緒に見たものの、午前三時四五分という常人にとっては理解に苦しむキックオフ時間から五分ともたず、私は結局途中で眠りに落ちた。
 
「しょうがないな。私のスマホのアラームかけとくよ」
「ありがと」
「ちゃんと寝たほうが治ると思うけどね」
「大事な試合だから」
「夜中にサッカーとか見てるから寝不足になって風邪ひくんだよ」
 
 私が小言をつぶやくと、達也は壁をむいて布団の中に隠れた。
 
 ◇
 
 気がつくと、私はフローリングの床の上で眠っていた。
 
 部屋の蛍光灯はついたままで、今が何時かわからない。せっかくメイク落としを買ったのに、ドラッグストアの袋に入ったまま封も切っていない。スマホを見ると五時を過ぎていた。やば、と声に出してベッドの達也を揺らす。暑くて布団を蹴ったのか、身体に何もかけずに丸くなっている達也の身体は風呂上がりのように熱かった。
 
「時間、時間、起きて起きて、ほら、サッカー見るんでしょ」
 
 跳ね起きた達也は、ふらふらしながらテレビをつけ、うわ、ギリじゃんアブねえ、と掠れた声でつぶやいた。画面にはちょうどスタメンのCG映像みたいなのが映し出されていて、今まさにキックオフ直前、という段階だった。
 
「あー、しんど。朝、病院行くわ、俺」
「こんな身体でも試合見なきゃいけないの?」
「いやもう、敗退はほぼ決まってんだけどさ、カンプノウだから、いちおうセカンドレグも見たいわけよ」
 
 何言ってんのかわからず、ふーん、と応えると、達也は咳き込みながら、この試合がいかに重要かを語りはじめた。
 
 なんでも、これはヨーロッパでいちばん大きい大会で、この試合はその決勝トーナメントの一回戦。パリとバルセロナ(ちなみにバルセロナのことはバルサというらしい)がそれぞれのホームで試合をすることになっている(ホーム&アウェー方式というらしい)。先月、パリのホームで行われた第一戦ではパリが4対0で大勝して、今夜は第二戦(セカンドレグ)、バルセロナのホーム(その会場はカンプノウというらしい)が舞台だそうだ。でも第一戦で大敗したバルセロナが今夜それを逆転し次のステージへ駒を進めるのはほぼ不可能なミッションで、おそらくこのままトーナメントから敗退するだろう。だけどバルセロナをこよなく愛する自分(バルセロニスタというらしい。それはすでに知っている)としては、散り際を見届けたい。ということだった。散り際を見届けたい、とは、なんとも武士っぽい古風な表現だ。
 
「で、バルセロナは何点取ればいいの?」
「九〇分で試合を終えるなら、五点差以上で勝たないといけない」
 
 意気込んでベッドの縁に腰掛け、テレビと正対した達也だったが、キックオフから二分でよほどつらいのか横になり、バルセロナが一点を先制したところでおっ!と起き上がったのも束の間、その五分後には再びベッドに横になり、完全にまぶたを閉じていた。
 
 私はそっとその熱い身体に布団をかけてやる。私もその横で寝ようかと思ったが、なんとなく目が冴えてしまったので、ぼんやりと達也の寝顔を観察した。
 
 うっすらと血管の浮いたまぶた。半開きの口。キスのとき少し硬さを感じる細い唇。私は達也の耳のかたちが好きだ。きれいにカットされた下向きの二等辺三角形みたいなもみあげも、にきびのないなめらかな肌質も。もうすぐに触れることができなくなるかもしれない。そう思いながら指先でそっと頬に触れると、達也はうう、と眉間に皺を寄せ、反対の壁側を向いた。
 
 私はそれからなんとなく、退屈をもてあましてテレビを眺めた。カンプノウと呼ばれるそのスタジアムは、画面を通しても規模の大きさが伝わってくる。ものすごい数の人が観客席に押し込まれている。スタンドはチームカラーのえんじと青で染まっている。芝生のグラウンドは緑が鮮やかで、そしてなんだか全体的な熱量がすごい。私はこれまでテレビの地上波でやる日本代表の試合以外、サッカーというものをまともに見たことがなかった。このバルセロナとパリのゲームは、私が今まで見たことのあるサッカーとはなんだか質が違う感じがした。
 
 前半が終わる前に、オウンゴールというかたちでバルセロナが二点目をとった。トータルのスコアでパリに追いつくにはまだ二点が、逆転するには三点が必要だということは、テレビの実況と解説の会話で私にも理解できた。
 
 ハーフタイムはバスルームにこもり、音を立てないようにメイクを落とし、歯磨きをして、ついでにさっとシャワーを浴びた。バスタオルを勝手に借りて濡れた身体を拭きながら、私はまた、もう達也の前で裸になることはないんだろうな、なんてことを思った。
 
 私はそれから試合の後半がはじまるまで、駒野さんの選んだイタリアンレストランをネットで見比べた。どこも美味しそうで、お洒落で、そして値段が高そうだった。正直どこでもいい、と思った。美味しいものを食べてお互いに機嫌良く店を出られれば。私は、自分の部屋の最寄り駅、駒野さんの住むエリアに近い鉄道の路線、それからいちおうホテル街のあるところ、といった要素を考慮して、新宿のお店を選び、
 
 〈みんな美味しそうで迷っちゃいますけど、私はここ行ってみたいです〉
 
 とメッセージを返した。こんな朝早くに、と送信してから気づいたが、送ってしまったものは仕方がない。約束の土曜まであと数日。私と達也の関係はそのときどうなっているのだろう。達也とこのままの関係を続けたまま、駒野さんとはじめるのも、まあ、ありかな、とちょっと思う。なんだかずるくて嫌な感じだけど、仕方ないかな。
 
 そんなことを考えているうちに、テレビでは試合の後半がはじまっていた。
 
 後半開始五分で、PKでバルセロナが三点目を取った。3対0。これ、もしかして追いつくんじゃないの、と感じていたら、白いユニフォームを着た野獣のような選手のシュートがバルセロナのゴールに突き刺さり、パリが一点を返した。3対1。会場の雰囲気が一気にトーンダウンする。実況アナウンサーによると、アウェーゴールというよくわからないルールがあって、バルセロナが形勢を逆転するためにはあと三点が必要だという。
 
 それからはスコアが動かないまま時間だけが過ぎていった。急いで攻め込むバルセロナと、それを守り抜こうとするパリ。バルセロナが選手を交代させる。パリのベンチ前では、髪がテカテカと黒光りしたダンディな監督が声を上げてチームを鼓舞している。
 
 このまま終わりだろうな、どうせ負けるんだから、わざわざ達也を起こさなくてもいいかな、寝せておこう、と思った、そのときだった。
 
「ネイマール!」
 
 アナウンサーが叫ぶ。生意気そうな顔立ちをした褐色の肌の選手がゴールを決めた。バルセロナの得点だ。
 
 そしてドラマはここから急展開を見せる。ゴール前に押し込んだバルセロナの選手がパリの選手に倒されて、PKを獲得。再びネイマールがしっかりボールをゴールに蹴り込み、これで二試合の合計が五対五になった。実況のアナウンサーによると、それでも、このままだとアウェーゴールというやつでパリが勝ち進むという。
 
 試合はロスタイムに入った。もう時間がない。バルセロナが攻め込む。ゴールキーパーまでがパリの陣地に攻め上がってくる。バルセロナの監督は腕組みをして戦況を見つめている。パリの監督は興奮してずっと叫んでいる。
 
 後半のロスタイム五分。ネイマールがふわっとしたパスをパリのゴール前に蹴り込んだ。そこに、背番号二〇番をつけたバルセロナの選手が身体を投げ出す。あっ、と思った次の瞬間、スパイクの足先に触れたボールは、パリのゴールキーパーの頭上をふわりと越え、ゴールネットを揺らした。
 
「おおおおっ」
 
 無意識に身体が前のめりになり、喉の奥から声が出た。
 
 走り出すバルセロナの選手たち。抱き合って、倒れ合って、重なり合って、もうなんだかよくわからない。スタジアム全体が異様に興奮している。バルセロナの監督が年甲斐もなく飛び跳ねている。パリの監督は頭を垂れ、眉間を指でつまんだ。
 
「達也、なんかすごいよ、すごいよ!」
 
 んん、ともぞもぞしながら目を開けてゆっくり起き上がった達也は、画面をじっと見つめて、なに、どういうこと?と掠れた声を出す。
 
「やばいよ、バルセロナがやったんだよ」
「へ?」
 
 試合は終わった。バルセロナが奇跡を起こしたのだ。
 
 ◇
 
 朝、会社に電話をして午前の仕事を休み、達也を近くの総合病院まで連れて行った。
 
 ネットで調べた受付開始の時間に間に合わせて行くと、もうすでに十人くらいの患者が受付が開くのを待っていた。達也の熱は三九度八分まで上がっていた。
 
 待合室で私は少し興奮していた。バルセロナとパリの試合があまりにも鮮烈で。サッカー、こんな面白いものだと思わなかったよ。すごいね、こんなに盛り上がるもんなんだね。今、隣に座っている達也にそんな言葉をかけたら、きっと喜んでくれるだろう。でも私は言わない。
 
 達也は朦朧とする頭でスマホを操作し、奇跡の大逆転劇を伝えるネット記事を読みあさっている。愛するバルサが勝ったというのに、達也のテンションはかなり低い。体調が最悪なことよりも、奇跡の逆転劇を見逃したことが最悪なのだ。
 
 私は口を開いた。やっぱりサッカーを褒め讃える言葉を発しようと。ところが、実際に出てきたのは違う言葉だった。
 
「こんなときにあれだけど、私たち、別れよう」
 
 今しかないと思った。待合室の隅の空気清浄機の黄緑色のランプをじっと見つめながら、
 
「ここんとこずっと考えてたんだけど。ごめん、私、好きな人できちゃったんだ。だから達也とは今日でおしまいにしたい」
 
 他の患者に聞こえぬよう、小さな声で別れを告げた。
 
「へ?」
「ごめん」
「んと、ごめ、ちょっと身体つらすぎて今返事できない」
「ううん、返事が必要とかじゃないから」
 
 そのとき、看護師が名前を呼んだ。
 
「久藤さーん、久藤達也さんどうぞ」
 
 達也は無言で立ち上がり、充血した目で数秒間、私のことをまっすぐ見下ろし、ひとつ深いため息を吐いてからよろよろと診察室に入っていく。
 
「じゃあね」
 
 私はその背中に小さく手を振った。
 
 私と達也の記憶はそこで終わる。彼が本当にインフルエンザだったのか、それともただの風邪だったのか、いつ治ったのか、私は知らない。その朝を境に、電話もメールもLINEも途絶えた。
 
 ◇
 
 その週の土曜日、私は約束通り駒野さんと新宿のイタリアンレストランで食事をした。そして帰りに誘われるまま駒野さんの部屋に泊まった。
 
 それから二年が経ち、私と駒野さんは結婚することになる。私と付き合いはじめてからの駒野さんは、社内トップの営業成績を上げて管理職に昇進し、私は高給取りの妻となり仕事を辞めた。結婚式はささやかな身内だけのパーティーだったが、お金をかけて趣向を凝らした。新婚旅行はイタリア・フランス周遊十日間。それもクリスマスから年明けまで滞在し、イルミネーションを楽しんだりニューイヤーのコンサートを鑑賞したりパーティに参加したりと、実に贅沢なものだった。
 
 三十歳になった私は自分の人生に満足していた。駒野さんと出会って本当によかった、幸せだ、と感じていた。達也のことなどもう滅多に思い出すこともなくなった。
 
 新婚旅行の最終日、ユーロ紙幣を使い切りたいからと言って、駒野さんはシャルル・ド・ゴール空港の売店で土産をたくさん買い込み、余った小銭でフランスの雑誌を買ってきた。
 
 飛行機の中で退屈した私は、その一冊を彼から借りて、ぺらぺらとめくった。そしてある瞬間に、ふと指を止めた。そのページには、かつての恋人の部屋で見た、ブラジル国籍の褐色のサッカー選手の姿があった。
 
「あ」
「ん、どうしたの」
 
 隣で窓の外を眺めていた駒野さんが、私の心のちょっとした揺らぎに気づいて振り向く。膝の上で開かれているページを覗き込んで、それ、ネイマールだね、と言う。
 
「うん、そう。ネイマール」
「好きなの?」
「ううん、別に。サッカーとかよくわかんないから。でも、何か、変だなと思って」
「何が?」
「わかんない。だけど、なんか変な感じ」
 
 それについての私たち夫婦の会話はそれで終わった。
 
 その、変な感じ、の正体が、ネイマールがバルセロナではなくパリのユニフォームを着ていることによるものだと気づくのは、帰国して、さらにしばらく経った後のことだ。ある日旅番組をテレビで見ていて、サグラダ・ファミリアが映ったときに、あ、と思った。私にとってはもう、どうでもいいことだけれど。

FOOTBALL SHORT NOVELS COLLECTION :
FOOTBALL AND LOVE SONG
Written by Masashi Fujita

memo

見ようかどうしようか迷って、結局見なかったことを後悔するゲームというのが毎年いくつかあって、そのシーズンのベスト(というかワースト)が、CLラウンド16、バルセロナが大逆転をキメたホームのパリ戦でした。トータルスコア、バルセロナ6-5パリ。セルジ・ロベルトの劇的なロスタイム弾。ネイマールがひときわ輝いていた試合。試合後のルイス・エンリケとエメリの表情が本当に対照的でした。って、全部、結果を知ってからの録画放送ですけど…。あー、リアルタイムで見たかった!(著者)