#31
読了時間:約10〜15分
タクシー運転手の仕事をはじめて五年が経つ。この業界、四十歳という年齢はかなり若い。なりたくてなったわけではなかった。追い出されるようにして前の会社を辞め、職探しに苦労して、あるときふと思ったのだ。
そうだ、タクシーってのも悪くないな。
リュック・ベッソン監督のフランス映画『TAXi』は、学生時代、好きな映画の一本だった。
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キックオフは28時となっていた。
28時という時間が、すぐにはわからない。
一日は24時までしかない、という事実を参考に、28から24を引き算する。
4時か。
明け方あるいは深夜の4時、と表記してくれれば一発でわかるのに、どうしてメディアは28時などという、存在しない時間で表現するのだろう。
「28時=4時」
それを即座に理解できないこんな頭だから、かんたんに失業してしまうのか。会社の人員整理で、真っ先に名前が挙げられてしまうのか。
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ただでさえ出歩く人の少ないこの時間帯、コロナ禍のせいでその数はさらに減った。まともな大人は真夜中に出歩かない。不良みたいな奴らはいつの時代も一定数いるものだが、ああいう奴らは金を持っていないから、そもそもタクシーなんて利用しない。
都内の歓楽街や主要駅の近辺を流せば、それなりに拾ってくれるお客さんもいるのだろうが、どうもそんな気分になれないのは、今夜はEUROが気になって仕方ないからだ。
サボり癖もまた、かんたんに失業してしまう原因のひとつかもしれない。営業に出かけるふりをして漫画喫茶で時間をつぶすことは、前の前にいた会社でおぼえた。
公園のそばの人気のない場所に車をとめ、シートを少し倒す。私物のタブレットでWOWOWのアプリを起動させると、タブレットのまぶしさが、つかのま、罪悪感を忘れさせてくれる。
すでに試合ははじまっていた。
見慣れないスタジアムは、スタディオヌル・ナツィオナル。決勝トーナメントのベスト16、フランスとスイスの隣国対決は、ルーマニアのブカレストで行われている。
フランスは予想外のスリーバックだった。
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タクシー会社にはたいてい、待機所と呼ばれるドライバーのための休憩室がある。無駄話をしたり、愚痴をこぼし合ったり、あるいは互いを遠ざけ合ったりして、そこには教室の片隅のような小さな社会が生まれる。
海外サッカーの話ができる奴が、そこには俺も含めて五人いる。いちばんの年下は俺だが、皆それほど年齢は離れていない。
五人で賭けをしている。EUROの優勝はどこか。ドイツ、ポルトガル、ベルギー、フランス。そして俺が選んだのはイングランドだ。
俺も本当はフランスを推したかったのだけれど、この賭けは、他の奴と同じチームに賭けてはいけないというルールがあって、年下の俺は残りものから選ぶしかない。イタリアかスペインかイングランドで迷ってイングランドにした。ケインもスターリングもいいが、グリーリッシュが楽しみだ。
ただ、心の底ではフランスの優勝を願っている。おそらく、フランスを推したあいつ以外の三人も、俺と同じようにフランスに肩入れしている。
*
前半のフランスの出来は悪かった。いつもとシステムが違うせいかリズムがつかめず、選手同士の距離感もポジショニングもよくない。
トントン、とトランクのあたりを叩かれたのは、スイスにあっさりと先制を許したフランスが、ビハインドのままハーフタイムを迎えたときだった。
サラリーマン風のスーツ姿の男をちらりと確認し、タブレットを消音にしてから、できればハーフタイムのうちに降ろせる距離で頼む、と願いつつ後ろのドアを開ける。
夜気といっしょに、酒の匂いが車内に流れ込んできた。男は倒れ込むようにしてどさりと乗り込むと、そのままシートに突っ伏してしまった。
「ちょっと。お客さん、大丈夫ですか?」
この時間を流していれば仕方のないことだが、酔っ払いは面倒くさいから乗せたくない。
「どちら、行かれますか」
「三鷹」
「はい」
「いや、三鷹やめて池袋。いや、やっぱ三鷹。うーん」
「どうされます」
「事務所がね、池袋なのよ。でも俺の家、三鷹なのね。ちなみに愛人の家は横須賀なんだけど、それはさすがに遠いよね」
「どっちにします」
「どうしよっかなあ。今何時?」
「五時前ですね」
そのとき、男がむくっと起き上がった。
「ていうか、それ」
男が助手席のタブレットを指さす。
「EURO? EURO見てた?」
「見てましたけど」
「フランスだろ。俺それ、見たかったんだよ」
「はあ」
「え、どっち勝ってる?」
「スイスです」
「まじで。ねえ、ちょっと前半のハイライト見れる?」
「ちょっとお客さん」
「見して見して。てか、あんた運転してたら見られないんだから、一緒に見ようよ」
そして俺とその男は、なぜかタクシーの車内で一緒にそれを見た。
*
後半、スイスにPKを与えてしまったフランスは、絶体絶命のピンチをロリスの右手一本でしのぐと、そこから一気呵成に反撃に出た。
「うおー、なんだこれ!」
ベンゼマの変態トラップから同点ゴールが決まったとき、俺と客の男は思わず声を上げた。
「ベルカンプみたいですね」
「俺もそれ、思った」
するとすぐにグリーズマン、エンバペのワンツーからベンゼマが再び押し込んで逆転。さらにはポグバのゴラッソでスイスを突き放した。
PKを取られる前とは別のチームに生まれ変わったかのように、フランスは息を吹き返した。
*
「あんた、フランス応援してるの? さっき、会社でイングランドに一万賭けてるって言ってたじゃん。決勝で当たるなら、フランスよりスイスの方がいいんじゃない?」
「まあ、そうなんですけど」
「イングランドが優勝したら五人分、五万まるごともらえるってことだろ」
「会社に、俺より半年遅れてタクシーはじめた人がいるんですよ。年は七つ上なんだけど、その人がフランス推しで」
「へえ」
「その人の奥さん、今、入院してて。なんか胸のこのへんの太い血管が破裂して」
「それやばくない?」
「ちょっと遅かったら死ぬとこだったらしいんですよ。後遺症残るかもしれないらしくて、退院してもリハビリ大変なんだって。奥さん、年下で、俺と同い年なんすよ。まだ結婚して三年しか経ってなくて。なんか、かわいそうで」
「ああ、それでフランスに優勝してもらって、カンパにしようってことね」
「です」
「あ、スイスが一点返した」
「またヘディングかあ。前半もラングレーのところでやられて、またかって感じですよ」
「流れ、変わるかね」
「いやー、大丈夫でしょう」
「てかさ、そんな回りくどいことしないで、みんなで金集めて渡せばいいじゃん」
「そういうの、受け取らない人なんですよ」
「へえ。フランス負けたらどうすんの?」
「どうしようかなあ」
「俺も誰かに恵んで欲しいよ、金」
「みんなそうでしょう」
「今日さ、っていってももう昨日だけど。イベントで金が入るから、少なくとも二十万は持って帰れるって言ったんだよね、嫁に。とりあえず当面の生活費がないってキレてるからさ、二十万あればしばらく大丈夫だろ、って。でもさあ、売上、十万にしかならないし、手数料だなんだの引かれて、残ったの、五万よ」
「お客さん、イベント関連? やっぱコロナ大変?」
「大変なんてもんじゃないよ。コロナに殺されるよ、まじで。なんかもう自棄になっちゃってさ、酒飲んで一万使っちゃった」
「うわ、いちばんダメなパターン」
「で、これからこのタクシー乗って三鷹に帰ったらいくら残るよ」
「三鷹だとえーと……」
「いいよ、本気で計算しなくて。サービスしてよ」
「そういうの無理なんす、ごめんなさい」
「あー、嫁、またブチキレんだろうなー」
「俺、結婚したことないからわからないんですけど、奥さんキレるとか、そういうのやっぱ最悪なんすか?」
「最悪だよ。当たり前じゃん」
「謝ればいいんじゃないんすか、素直に」
「あのね、謝って嫁の機嫌直るなら、俺、こんなとこでEURO見てないから」
「大変ですね」
「結婚してないの?」
「はい」
「しないの?」
「いやー、この年で誰がタクシーの運転手と結婚したいと思ってくれるか、って感じですよ」
「あーあ、俺、仕事辞めようかな」
「次のアテ、あるんですか?」
「ないね。そっちは何? なんでタクシーやってんの?」
「高校のとき、『TAXi』って映画見て」
「うそ、俺も高校んとき見た。え、何年生まれ?」
「1981年」
「タメじゃん」
「あ、何か近い感じしてたけど、やっぱり」
「でも珍しいね、映画見てタクシーの運転手目指す奴って」
「いや、別に目指したわけじゃないよ。じゃないすよ」
「いいよ、タメ口で」
「俺、大学出て普通に会社員やってたし。失業して、次が見つからなくて、どうしようかなってときに、昔見た映画思い出して。あの映画カッコよかったな、車運転するの好きだし、タクシーとかもよくない?って思って」
「リュック・ベッソンね。あの映画ってワールドカップの年じゃない?」
「フランスのね」
「そう。中山が最後に決めたとき。てか、はじめてのワールドカップだったよね。『TAXi』もフランス映画だし。フランス、縁があるね」
「こういうの縁があるっていうのかな」
そのときだった。スイスが土壇場で同点に追いついた。
*
PKまでもつれこんだその試合を、俺はその客と一緒に最後まで見た。
エンバペのキックがスイスのGKゾマーの右手に阻まれたとき、あーあ、とふたり同時にため息を吐いた。
「スイスかー。ここでフランス負けるかー」
「いやでも、スイス頑張ってたよ」
「やっぱさ、いちばん上手い奴が外すんだよな、PKって」
「そうそう。サッカーあるあるだよね」
すでにおもては明るい。街は普段の朝と同じように動き出していた。
「で、どうすんの? 三鷹? 池袋?」
「うーん」
「家に帰った方がいい。てか、もうとっくに電車動いてるから電車で帰りなよ。駅までサービスするから」
「そうすっか。でも帰りたくねえなあ」
俺はエンジンをかけ、ウインカーを出して、駅に向かう道に車を走らせた。
「フランス代表も、国に帰りたくないんじゃないの」
「いやあ、外人は早く家に帰ってファミリーに会いたいって人が多いんじゃない? わかんないけど」
「ベッカムがフランス大会でやっちゃったとき、すぐ帰らなかったよね、確か」
「ああ、シメオネに報復の蹴り入れてレッドもらったときね」
「じゃあまあ、帰るわ。駅、着いちゃったし」
駅前のロータリーで車をとめ、後ろのドアを開ける。
「悪いね」
「いいよ。元気で」
「ああ」
男が出て行ったのを確かめて、ドアを閉める。
と、車を降りたばかりの男が助手席の窓をコンコンと叩いた。
「ん、忘れ物?」
窓を開けると、これ、と言って、男は薄い茶封筒を助手席のシートに落とした。
「何? これ」
「渡すの忘れるところだった。カネ」
「は?」
「タクシー代だよ」
「いや、こんなんで金とれないよ」
「お前じゃないよ。フランスに賭けてた人にあげてよ」
「いいよ、そんなの」
「だからお前にやるんじゃないって。その人にやるんだから。俺、わかるんだよ。いろいろ細かいところで金かかるんだよ、病気すると。俺の親父がそうだったから。ちゃんと渡してよ」
「あ、じゃあ連絡先」
すると、男はにやりと笑った。
「通りすがりのエンバペから、つっといて」
「……ありがとう。いや、メルシー」
「はは。じゃあね」
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Written by Masashi Fujita
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