#02
読了時間:約10〜15分
ふたりきりで新幹線に乗るのは、もちろんこれがはじめてのことだ。
ほぼ満員の自由席には、仕事帰りのおじさんたちに混じってサムライブルーのユニフォームを着込んだサポーターの姿がちらほら見える。試合のキックオフに間に合う新幹線はこの便がぎりぎりだから、代表戦のチケットを持っている僕らのような人間はさらにその数倍はいるはずだ。
東京駅の地下で買った弁当をさっさと食べ終えると、香織はリュックから取り出した問題集を狭いテーブルに広げた。「英語長文ハイレベルⅢ」。僕は少し落胆する。せっかくの遠出なのだから、もっと恋人らしく他愛のない話をしたり笑い合ったりして過ごしたいのに。
「ねえカオちゃん」
そう言って何気なくプリーツスカートの上から香織の太ももに触れてみるが、シャーペンを挟んだ手でさっと払いのけられた。
「今日授業休んだ分、やっとかなきゃだから」
「だよね、ごめん」
サボる、ではなく、休む、という言葉をあえて使うところに、彼女の育ちのよさというか健全さというか、気高さのようなものが表れていて、僕はそれ以上ちょっかいを出せなくなる。
しかたなく僕はポケットからイヤホンを取り出して耳に押しこんだ。香織に作ってもらった九〇年代のロックバンドのプレイリスト。いきなり流れてきた甘い恋の歌詞がなんだかもどかしい。
◇
香織と付き合いはじめたのは、夏がはじまる前だった。衣替えしたばかりの夏服の白さがまぶしい六月の放課後。駅のホームで待ち伏せ、偶然を装って改札で声をかけてスタバに誘い、だめもとで告白した。一瞬戸惑う顔をした彼女は、豆乳ラテをひとくち口に含んでからそれをゆっくりと飲み込み、いいよ、と言ってくれた。
恋人になってから知ったことだが、吹奏楽部でホルンを吹く香織は、お金持ちのお堅い家のお嬢様だった。僕と付き合っていることはもちろん親に内緒だったし、放課後、予備校のある夜以外は門限も厳しかった。高校三年生の僕らには大学受験が控えていた。
「これからはあまり会えなくなるかも。それでもいい?」
僕が香織からそう告げられたのは、夏休みの最後の日だった。
大学なんて入れればぶっちゃけどこでもいいや、と思っている僕みたいな意識の低い人間と違って、彼女が目指すのは誰でも知っている超難関の国公立大だ。でもまだ模試の判定はC段階。だから高校の授業が終われば予備校で、予備校の授業が終わればそこの自習室で、自習室が閉まれば自宅に帰ってから、彼女は夜遅くまで勉強しないといけない。本当は恋人と過ごす時間の余裕なんてないのだ。
「わかってる」
僕はそう答えるしかなかった。そう答えなければ、じゃあ別れよう、と言われるに決まっているから。
◇
今日、五限の授業をサボって東京駅のトイレで制服を着替え、荷物をコインロッカーに押し込んで新幹線に飛び乗り、まさに今、僕らが新潟に向かっていることを香織の両親は知らない。今夜、彼女はいつものように予備校の自習室で退出時間ぎりぎりまでノートを広げ、そして帰りにスタバで勉強に集中しすぎて帰りが遅くなった、そういうことになる予定だ。僕と付き合いはじめてから、彼女が親につく二度目の嘘。
一度目の嘘は、はじめてふたりで渋谷のラブホテルに入った夜だった。そのときも、遅くに帰宅する言い訳をふたりで考えた。
その夜はふたりにとって初体験の夜になるはずだった。ところが情けないことに、緊張のせいか興奮のせいか、何度トライしてもコトは思ったようにうまく運ばなかった。
「今日はやめよう、また今度にしようよ」
そう言って恥ずかしそうに下着をつけ、脱いだばかりの服にそそくさと袖を通した彼女は、肩を落とす僕を慰めるようにテレビをつけた。
「あ、今日ワールドカップだ」
「ほんとだ、すっかり忘れてた」
それはワールドカップのコロンビア戦だった。僕らはベッドに並んでサッカーを観た。日本代表が下馬評を覆してコロンビア代表に勝った試合だった。テレビのアナウンサーも解説者もとても興奮していて、僕らもタイムアップの笛が吹かれるまでハラハラしながら試合を見守った。
それまではサッカーになんてたいして興味なかったのに、その試合で僕らはすっかり日本代表に夢中になった。次の試合もその次の試合も(試合時間が遅過ぎて、さすがに一緒には観られなかったけど)お互いの家でそれぞれテレビ観戦しながら、LINEで試合中ずっと盛り上がった。香織のお気に入りは乾と柴崎で、僕のそれは大迫だ。
決勝トーナメントのベルギー戦が終わった早朝、ロスタイムでの逆転負けのあまりの悔しさに、僕らはいつもの登校の二時間も前に駅で落ち合い、早朝のカフェでお互いを慰め合った。彼女は少しまぶたを腫らしていた。いつのまにかサッカーは、日本代表は、僕らにとって特別なものになっていた。
「日本代表を観にいこうよ」
そう言って彼女を親善試合に誘ったのは、だから自然ななりゆきだった。
最初は埼玉スタジアムでのウルグアイ戦のチケットを取るはずだった。でもあいにくその日は彼女の家に親戚が訪ねてくる予定が入ってしまい、その前の試合、つまり新潟でのパナマ戦しかチャンスがなかった。彼女は新幹線に乗っての遠出にあまり乗り気ではなかったけれど、「高校最後の思い出、一緒に作ろうよ」と言って説得したら、終電までに帰れることを条件にOKしてくれたのだった。
◇
スタジアムに着いたのはキックオフの直前だった。
シャトルバスが渋滞にはまって、時間がかかってしまった。僕が焦ってスマホの時計ばかり見ていると、香織は僕の手を握って、「ちょっとぐらい遅れてもいいじゃん、大丈夫だよ」と言った。バスの中では問題集を広げることもなかった。
僕らは手をつないで、見知らぬ町の夜をぼんやりと見ていた。このままふたりきり、このままどこか遠くに行けたら。僕は彼女の手のひらのぬくもりを感じながら、そんなことを思ったりもした。
「あれ、なんか知らない選手ばっかりなんだけど」
スタジアムの電光掲示板に並んだスタメンは、半分以上がはじめて知る名前だった。てっきり乾や長友や長谷部を生で見られると思っていたのに。少し拍子抜けだった。
それでも香織は「芝生って綺麗だね」とか「森保監督がいるよ」とか「ベンチに座ってるあれ、柴崎だよね?」とかよくしゃべって、楽しそうに試合を見ていた。
僕はといえば、なんだか落ち着かず、試合に集中できなかった。
この試合が終わったら、もうこれまでみたいに香織と一緒にいられないんだろうな。そんなことを考えはじめたら、そのことばかりが頭の中をぐるぐる回って、さびしさばかりが募った。
◇
ついこのあいだ終わったばかり夏休みを思い出す。
僕は香織のことばかりを考えて過ごした。彼女に合わせて同じ予備校の夏季講習に申込み、帰り時間が一緒になるように授業を取った。そして予備校が終わってから彼女の門限までの夕方の二時間を、僕らは毎日一緒に過ごした。気に入りのカフェでだらだらとしゃべったり、ボーリングしたり、カラオケに行ったり。二日か三日に一度のペースで、こそこそとホテルに入ったり。
とても暑い夏だった。日が暮れる頃に僕は彼女を駅の改札で見送り、それからひとりでアルバイトに励んだ。ホテル代はばかにならなかったし、日本代表を観に行くためのチケット代と新幹線代も稼がなければいけなかったから。
女の子と付き合うことに慣れた友達からは、女は面倒くさい、と聞いていたけれど、僕はちっともそんなことを思わなかった。とにかくいつだって香織に会いたかった。会えば満足して、でも、駅で見送ってひとりきりになるとまた無性に会いたくなる。その繰り返しだった。
なんだか香織に会いたいという欲望に支配され続けただけの夏休みだったけれど、彼女に合わせて真面目に予備校の授業を受けていたのがよかったのか、二学期がはじまってすぐの模試では、彼女の成績だけじゃなく、僕の成績も一緒にぐんと上がっていった。
◇
前半が終わる前に、ようやく最初の点が入った。
南野のゴール。まわりにいる観客に合わせて、やったー、と香織が両手をあげたので、僕も拳を握った。ハイタッチをした香織の手は冷え切っていて、使い捨てカイロを買い忘れたことを僕は悔やんだ。
「カオちゃんおでんとか食べない?」
「いいね。でもさっき夕飯のお弁当食べたばかりだけど」
「買ってくるよ」
ふたりではふはふ口を動かしながらおでんを食べていると、後半がはじまった。身体が温まったからか、なんだか気持ちが落ち着いて、サッカーを観ることにも余裕が出てきた。
テレビとは違って、スタンドからはピッチの全体が見渡せるのが面白かった。僕はワントップの大迫をずっと目で追った。相手の選手を背にしてボールを受けたり、それをキープして前を向いたり。解説者やネットの記事が、強い、と表現するのがどういうことか、素人目にもなんとなく分かった気がした。
「ねえ、パナマってどこにあるんだっけ」
ふと、そういえばと思って訊ねると、香織もうーんと首をかしげた。
「え、知らないの? 香織なら知ってると思ったのに」
「私、地理選択じゃないし」
「南米? アフリカ?」
「なんかあっちの方だよね」
「あっちってどっち?」
「たぶんアメリカの北と南のまんなかぐらいじゃない?」
「あ、そうだ、中南米」
「そう、中南米。くびれみたいなとこだよ確か」
「カリブ海のね」
僕がスマホで調べて、まさに思った通りの場所だったのでふたりでにんまりした。なんだかその瞬間、ふたりの偏差値が重なったような気がして、僕は少しだけ得意になった。
後半に追加点を挙げた日本代表は、リードを二点に広げた。この調子なら今日の試合は負けないだろう、という試合展開になった。パナマ代表はワールドカップの出場チームだけれど、それほど強くはなかった。そしてスタンドは想像していたよりも盛り上がっていなかった。親善試合って、こんなものか。
試合が残り十分を切ったところで、新幹線の時間が気になってきた。最終の便を逃して東京に帰れなかったという結末だけは、どうしても避けなければいけない。そんなことになったら、僕らはきっと別れなければいけなくなる。
同じことを考えていたのか、香織もちらりとスマホを見た。まだ会ったことのない香織の両親の不機嫌そうな顔が頭の中に浮かんだ。名残惜しかったけれど、それは切り上げるタイミングだった。
「そろそろ行こっか」
「うん」
僕らは席を立った。スタジアムのゲートをくぐり、ちょうど外階段を下りたところで背後が賑やかになった。どうやらゴールが決まったらしい。
「どっちかな」
「歓声だから、日本だよ」
たたたと小走りでタクシー乗り場を目指す。走りながら振り向くと、香織は両腕を外側に揺らしながら、いかにも運動習慣のない女の子、という走り方で後ろからついてくる。とてもベタだけど、その姿が素直にかわいいと僕は思った。
ふたりとも大学生になれば、別々の学校に通うことになる。当然、これまでのように毎日顔を合わせることはできない。彼女の目の前には、僕よりもうんと知的で行動的な男たちがたくさん現れるのだろう。サークルやゼミやバイトや、そういう新しい環境が彼女の刺激になるのだろう。
僕には、それでも彼女と一緒にいられる自信がなかった。誰かと比べられて自分が勝ち続けるなんて不可能なことのように思う。彼女が難関の志望校に合格して大喜びする顔を見たいと思う自分と、ふたりとも受験に失敗して浪人すればまだしばらく一緒にいられると考える自分がいる。どちらも僕であることは間違いないし、どちらも僕の正直な気持ちだ。
帰りの道路は試合が終わる前とあって、ずいぶんと空いていた。
「どっちが勝ちましたか」
人のよさそうな年配の運転手が訊ねてきた。
「まだ途中ですけど、たぶん日本だと思います」
「お客さん、県外から?」
「あ、はい」
「じゃあ、観に来てよかったね」
僕より先に、はい、と香織が答えた。その言葉の強さが、僕には頼もしかった。
◇
新潟駅に着いたものの、新幹線の発車までは時間が少し余ったので、僕らは改札のそばにある土産物屋をひやかして歩いた。お酒、お菓子、海産物、キーホルダー、オシャレ雑貨。財布を覗くと、スタジアムではおでんしか買わなかったので、まだ現金にいくらか余裕があった。
「カオちゃん、お土産買っていこうか」
「え、誰に?」
「誰にって言われてもあれだけど」
「私たち秘密でここ来てるんじゃん」
「そうだけど、だから自分たちに。なんつーか、未来のうちらに。ってのはどう?」
香織はきょとんとした顔で僕を見つめる。未来。そんなものを話したのは、これがはじめてだ。僕らの未来にはまだ、大学受験しかないから。
「今日、一緒に来れてよかった」
僕は素直にそう言った。
すると香織は、うん、買おう、と頷いてくれた。そして売り場をぐるりと歩き、やっぱ新潟っていったらこれかな、とお酒を選んだ。
「いやいやカオちゃん、うちら未成年ですけど」
「だからハタチになったら飲もうよ」
「え」
「私たちがハタチになるまで付き合っていられたらさ、懐かしいね、高校んとき一緒に新潟まで行ってサッカー観たよね、って思い出しながらこれ飲もうよ」
十八歳の僕らは、ハタチまであと二年。それはとてもとても長い時間に感じられる。
「一緒にいられるかな」
「いるよ。そう思える人じゃなかったら、私はいまここにいないもん」
帰りの新幹線に乗り込んで座席に落ち着くと、香織はまたテーブルに問題集を広げて勉強をはじめた。
僕は彼女の邪魔をしないように、イヤホンを耳に押し込み、行きの新幹線で聴いていたのと同じプレイリストを聴く。恋をしているときって、恋の歌が染みるもんだな。この先、ふたりにどんな未来が待っていたとしても、僕はパナマという国の正確な位置を、生涯、忘れることはないだろう。
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Written by Masashi Fujita
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