#01
読了時間:約10〜15分
天井まで届く大きなガラス窓の向こうは、春の雨で煙っている。
彩度を失った東京タワーが雲に突き刺さり、新宿の副都心は霞んで見えない。それでも、高層階から見下ろす東京の景色はやはり壮観なものだ。薄らとした茂みの奥には、建設中の新しい国立競技場があるはずだ。
ホテルには予定よりもずいぶん早く着いた。芳名帳に記帳を済ませ、肩に残った雨粒を払いながらあたりを見渡すと、俺のほかに招待客はまだ誰も来ていなかった。
受付の横の小さなテーブルに似顔絵入りのウェルカムボードが飾られ、手前には写真のアルバムが何冊か置かれている。新郎新婦それぞれの思い出、ということらしい。無印良品のポリプロピレンのアルバムという素っ気なさが、なんともあいつらしい。
時間つぶしに何気なくその一冊をぱらぱらとめくると、いきなり俺の顔が登場したので驚いた。青いマフラーを首に巻き、ビール片手に大口を開けたご機嫌な俺。三年前、スタンフォードブリッジのスタンドで撮った写真だ。俺の隣には同じく青いユニフォームを着た今日の主役が、眼鏡のずれた間抜けな顔で写っている。「親友と憧れのサッカー観戦」というキャプションが少しこそばゆい。
「そんな写真しかなかったんだよ」
振り向くと、上下白のタキシードに身を固めた淳吾がいつのまにか背後に立っていた。
「お前、こんなとこいていいのか」
「新郎は着替えが済んだらもうやることないんだよね」
「それにしても似合わないな、それ」
だよね、とはにかむように淳吾は照れる。
「せっかくだからチェルシーっぽくブルーの上下とかも考えたんだけど、速攻で却下された」
「だろうな。でもまあ、白ならセカンドユニってことで」
「はは、披露宴なんて男にとっちゃアウェイみたいなもんだしね」
軽く笑うと、淳吾は遠くを見る目で、窓の外の灰色の景色に視線を移した。
「なんか、不思議だよね」
「何が」
「まさかうちら、一緒にプレミア観に行ったり、結婚式に呼び合ったりすると思わなかったよね」
「なんだよ今さら」
淳吾は、いや、なんとなくね、と前置きをしてから、「向こうが中野方面なんだけど、打ち合わせのときここで景色見てたらさ、ヒナちゃんのことふと思い出してさ」とつぶやいた。
「ああ、日那子ね。こんなときにそんなの思い出すなよ」
「ふと、だよ。ふと」
「でも、どうしてんだろうな」
「どうしてんだろうね」
◇
日那子は学生時代に知り合った女だ。
もう十年も前の話になる。彼女が居酒屋で女友達と飲んでいるところに、こちらも男友達といた俺の方から酒の勢いで声をかけ、一緒に飲んで遊んだ。そしてそれぞれお持ち帰りするかたちになってホテルで寝た。一夜限りのつもりだったが、次の朝連絡先を交換すると、彼女はそれから頻繁に連絡を寄越し、ときどき俺の部屋に遊びに来るようになった。
黒髪のショートヘアが似合う丸顔の日那子は、笑うと眉間にたくさんしわが寄る子で、愛嬌があった。写真の専門学校に通っていた。校舎が俺のひとり暮らしの部屋に近いらしく、彼女は授業が終わると自転車でふらりとやってきた。いつも肩からフィルムカメラを斜めがけに提げていたけれど、彼女がシャッターを押すところはそういえば一度も見たことがない。
三回寝た後で、「うちら付き合おうよ」と言われたので、いいよ、と俺は答えた。好みの顔だったし、俺にはそのとき付き合っている女もいなかったから、ちょうどよかった。
日那子に俺の他に男がいると知ったのは、付き合いはじめて一ヶ月くらいが経った頃だった。
「のぶくんのこと、バレた」
真剣な顔でそう言われたとき、俺は何のことかよくわからなかった。
誰に? 俺の何が? 問いただすと、日那子は素直に、もうひとりの恋人の存在を打ち明けた。その男に俺の存在がばれてしまい、なじられ、泣かれ、そして殴られかけたと。
正直、面倒くさいなと思った。相手は有名大学のラグビー部の男で、俺と知り合う半年前から付き合っていたという。いつどんな因縁をつけられるかわからない。他に男がいるなんて知らなかったのだから別に俺が悪いわけではないのだが、向こうからしてみれば俺は憎き間男に違いない。
「俺、マッチョなラガーにボコられんのとかやなんだけど」
「大丈夫、のぶくんには指一本触れさせないから」
「てか、そういうの先に言っといてよ」
「だってしょうがないじゃん」
そんなやりとりがあったというのに、日那子はそれからも平気な顔で、しょっちゅう俺の部屋にやってきた。ラガーの男が俺の部屋に押しかけてくるようなことはなかった。
面白いもので、他に男がいるとわかると、なぜだか俺は急に燃えて、それまでよりもうんと乱暴に彼女を抱き、そして彼女を歓ばせるようになった。
◇
どんないきさつだったかは覚えていないが、ラガーとは別れる、だから彼の部屋から荷物を運び出すのを手伝って欲しい、と日那子に頼まれ、相手の男のアパートまでわざわざ俺がレンタカーを運転して行ったことがあった。その部屋が中野にあった。
その日も雨が降っていた。早稲田通りから奥まった路地の先、コーポタイプの古くみすぼらしいアパートの前に車を駐めた。車の中で待っているつもりだったが、「この時間帯はいないはずだから一緒に来てよ」と強引に腕を引かれ、俺まで男の部屋に入ることになった。
俺が傘を差して、日那子が合い鍵を回す。ガチャ、と手応えのある音がして、彼女がドアを開けた。誰もいないはずなのに、傘を閉じて中に入ると、玄関には男が立っていた。
「ヒナちゃん…」
「あ、淳吾、いたんだ」
おい、いたんだじゃねーよ、話が違うだろ。俺はこれからはじまる修羅場を想像して身構えた。しかし目の前の男は俺の想像していたラガーマンのイメージとは遠くかけ離れた、貧相なやせ形の背の低い眼鏡男だった。俺はなんだか拍子抜けして、あ、ども、なんて頭を下げた。男の方も、恋敵が突然乗り込んでくるのは想定外だったらしく、戸惑った顔で、あ、どぞ、なんて言いながらスリッパを差し出してきた。
「いや、俺、外で待ってるんで。じゃ」
そう言って引き返しかけたが、二股をかけた男たちに挟まれるという異様な状況にやけに興奮した日那子から、「ううん、ここはのぶくんもいて欲しい」と袖を掴まれ、結局、俺までその部屋に上がりこむ羽目になった。
「私、淳吾とは別れたいんだ、ごめんね」
「俺はいやだよ、考え直そうよ」
「ううん、考えるまでもないんだ」
「じゃあこれまでの俺たちっていったい何だったんだよ」
「これまでのは大切な思い出だよ」
「もう過去形かよ、俺は現在進行形だよっ」
そんなふたりのやりとりを、俺は部屋の隅に立ったまま聞かされた。
男のひとり暮らしにしては小綺麗な、素っ気ない部屋だった。狭いワンルームだが整理整頓され、たばこの匂いもインスタント食品の匂いもしなかった。奥には無印良品のベッドがあり、シーツと布団カバーは俺の使っているのと同じシリーズだった。
別れ話が平行線となり、業を煮やした日那子は勝手にクローゼットを開けて、こちらも無印良品のポリプロピレンの収納ケースから自分のものらしき下着や服、化粧品、さらに冷蔵庫から写真の専門学生らしく未使用のコダックのフィルムを取り出し、持ち込んだ紙袋に詰めはじめた。
「待ってよヒナちゃん、ちゃんと話そうよ」
「だから私は話すことなんかないって」
「じゃあそちらの、えっと」
「あ、俺、齋藤です、齋藤信基です」
「齋藤さんと話すから」
「はあ? 淳吾とのぶくん関係ないじゃん」
「あるよ。大ありだよっ」
ふたりが揉めているあいだ、やはり俺はどうしていいかわからず、所在なく部屋の中を見渡していた。ふと、日那子が開けたクローゼットに目がとまった。安っぽいネルのシャツやカーキのブルゾンが吊り下げられた隙間に、やけに見覚えのある青いシャツがぶら下がっていた。勝手に触ったら悪いかな、と思いつつ、俺はこっそり手を伸ばして軽く引っ張ってみた。
やはり。それはチェルシーのレプリカユニフォームだった。それもアブラモビッチがオーナーになる前の。背中をめくってみると、背番号は25、ZOLAのマーキング。
おお、ジャンフランコ・ゾラだ。俺は日那子とはまったく別の理由で興奮した。
ごめん、話の途中悪いんだけどさ、きみ、サッカー、好きなの?
そう切り出そうと思って振り向くと、しかしラガーの淳吾くんは顔を真っ赤にして号泣していてそれどころではなかった。
「ヒナちゃん! 俺、ヒナちゃんが好きなんだよっ!」
「泣くなよ、男のくせに!」
「ヒナちゃんっ」
「あーもう、まじうざい。そんなんだから女に愛想尽かされんだ、クソが! 死ねよ!」
日那子は、それまで見たことのない鬼のようなキツい形相で叫ぶと、クローゼットの横で突っ立っていた俺を押しのけ、「私もう帰る!」と言って、たった今荷物を詰めこんだ紙袋をなぜか壁に投げつけ、おもてに飛び出していった。
当然、俺は彼女を追いかけるしかない。慌てて靴を履いて、お邪魔しました、すいません、と言い残し部屋を出た。ドアを閉めたとき、背後でラガーの嗚咽が聞こえていた。
車に乗り込むや鬼の形相から一転、上目遣いで「これでもう、私はのぶくんだけのものだからねっ」とにっこり微笑んだ日那子を、俺は心底恐ろしいと思った。
◇
そんないきさつで日那子は俺だけの女になった。
ところが、そうなってから俺が思ったのは、別に俺は日那子のことが好きでもなんでもない、ということだった。例えばすごく欲しい高価な服があって、それが欲しくて欲しくたまらなくて何度もネットで調べて、店まで見に行って試着して、で、実際に買って部屋に帰った途端、なんだかそれが本当に欲しかったのかわからなくなって、結局着ない、みたいなことがある。完全にそれと同じだった。
それでも、俺は日那子としばらく付き合っていた。好きな女じゃなくても、別れる必要なんて別になかった。
当時まだ二十歳を過ぎたばかりだった俺は性欲の塊みたいな男だったし、専門学校を卒業した彼女は一般企業に就職してその給料で飯をおごってくれたり、服を買ってくれたりしたから、仕送りのない貧乏学生にとっては実に都合がよかった。
ある夜のことだ。日那子と部屋でだらだら過ごしていると、彼女の携帯電話が鳴った。当時はまだガラケーだった。着信メロディの椎名林檎がずっと同じサビのフレーズを繰り返していた。
「出ないの?」
「淳吾だから。最近よくかけてくるんだ。まじうざい」
「用事があるんじゃないの?」
「出たくないから、のぶくん出てよ」
「は、なぜ俺」
「いいから出て、俺の女に何の用だってスゴんでよ」
永遠かと思うくらい鳴り続ける椎名林檎を一刻も早くストップさせたくて、俺は仕方なく日那子から携帯を受け取り通話ボタンを押した。
あ、どうも。俺あの、齋藤です、こないだの、日那子と一緒にいた。あ、覚えてる? こんばんわ。ごめん、なんか日那子、電話出たくないんだって。俺でよければかわりに用件聞いて伝えとくけど。ああ、うん。
中野の彼の部屋に残っている日那子の荷物をどうすればよいか、という話だった。引越をするので、処分するなり送るなりしたいと。彼女にそれを伝えると、勝手に捨てれば、という返答だったので、俺はその通りに伝えた。
その晩、日那子が風呂に入っているときに、もう一度、彼女の携帯に電話がかかってきた。やはり淳吾からだった。俺は音をミュートにし、それを持ってそっと部屋を出た。
「もしもし、また俺でごめんね」
「あ、いえ、何度もすいません」
「そんなに日那子とのこと好きなら、俺、手、引くよ」
俺はなんだか淳吾のことが不憫に思えて、そう言った。淳吾は、ほんとですか、と声を震わせた。
「うん、俺そろそろあいつと別れようと思ってたから」
「ありがとうございます」
「いやいや、別に。てか、サッカー好きなん?」
「え?」
「サッカー。いや、部屋でチェルシーのユニ見たから」
俺は、ゾラが好きな奴に悪い奴がいるわけはないと思った。
今になって振り返ってみれば、あの日、ゾラのユニフォームを見た時点で、俺は日那子よりも、初対面の淳吾の方に親しいものを感じていたような気がする。
それからしばらくして、俺は日那子と別れた。
泣かれたし、噛みつかれたし、引っ掻かれたし、着信履歴を全部埋め尽くされたし、別れ話の最中は散々だった。俺お前のこと好きじゃないんだわ、と正直に言うと、日那子は淳吾のときと同じように鬼の形相になって睨みつけ、「私、淳吾とより戻しちゃうよ、いいの?」と俺を脅迫した。別にいいよ、と返すと、彼女は、死ねや!と捨て台詞を残して俺の部屋から出て行った。
◇
日那子と別れて二週間ほどして、淳吾から律儀に電話がかかってきた。
「お礼を言いたくて」と淳吾は言った。
俺の番号は日那子の携帯から抜き取ったらしい。
礼とか言われてもな、と思った俺は、じゃあ飲みに行かね? と、淳吾をスポーツバーに誘った。そして、そこでプレミアリーグの試合を見ながら、俺たちはサッカーと日那子の話をした。
「なんであんな奴が好きなの? すぐキレんじゃん」
「ほんとはいい子なんです」
「そうかもしんないけどさ」
「俺、彼女できたの日那子がはじめてで、日那子しか知らないんです」
「そっか」
そのときはじめて知ったが、淳吾と俺では俺の方が年下だった。俺が三年で、淳吾が四年。しかも淳吾は一浪だから、実際の年齢は俺よりふたつも上だった。
「敬語やめろよ。てか、やめてくださいよ」
「わかりました。いや、わかった」
変な会話に笑った。
淳吾は中学生のときにゾラが好きでプレミアリーグを観るようになり、それ以来ずっとチェルシーを応援していると言った。今はランパードとジョー・コールが特に好きだが、チーム関係なく選手だけならエジルがお気に入りだと。まだブレーメンにいた頃のエジルだ。なんとなく好みが俺と一緒で、じゃあベルカンプとかベルバトフとかも好きだろ? と聞くと、淳吾は目を輝かせた。
「俺、そういう足下が巧いタイプ好きなんです」
「リケルメも好きだろ」
「大好き」
「俺も好き」
同じ女を取り合った男同士、というわけでもないのだが、サッカー選手の好みがよく似ていた。俺たちは妙にうまが合った。
結局、淳吾は日那子とよりを戻すことはできなかったらしい。
でも俺と淳吾はそれからも、彼女と関係なく、ときどきふたりで飲むようになった。お互いの部屋でチェルシーの試合を観たこともあった。淳吾が一足先に社会に出て、俺が一年遅れて就職してからも、ときどき居酒屋で仕事の愚痴をこぼし合ったり、ふたりでクラブワールドカップを観に行ったりした。
三年前、俺が会社の同期の女の子と結婚することが決まったとき、もうこれからは自由に遊べないからと奮発して、たまっていた有休をすべて使い、イギリスまでプレミアリーグを観に行くことにした。
「スタンフォードブリッジに行かないか」
そう声をかけたら、淳吾は俺のために会社の休みを合わせてくれた。大きな声では言えないが、それは俺にとって新婚旅行よりも数倍楽しい旅だった。
◇
「新郎新婦の入場です。皆さま、盛大な拍手でお迎えください」
披露宴会場の重々しい扉が左右に開き、スポットライトに照らされて新郎新婦が登場する。淳吾の隣で控えめな笑顔を見せる女は、日那子よりも地味でおとなしい顔立ちだが、淳吾によく似合っていると思う。
俺が結婚したときは、淳吾を披露宴に招待した。淳吾はどこからどうやって手に入れたのか、リケルメのサイン入りのボカのユニフォームを結婚祝いにとプレゼントしてくれた。
目の前の花嫁も、俺の妻になった女も、日那子という昔の女の存在を知らない。俺たちは学生時代に偶然スポーツバーで出会って意気投合した、ただのサッカー好きの友達、ということになっている。
十年前、雨の中野で、クローゼットに吊り下げられたゾラのユニフォームを見つけなければ、俺は今ここにいない。披露宴が終わったら、俺はネットオークションで競り落としたゾラのサイン入りユニフォームを淳吾にプレゼントするつもりだ。
あの日、愛する女の前で泣いていた男は、今、堂々と胸を張り、にっこりと微笑んで、金屏風に向かってゆっくり歩いている。気づけば、新郎新婦入場のBGMはチャンピオンズリーグアンセムじゃないか。
理解のある奥さんでよかったな、と、俺は光の中の親友に目配せをした。
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Written by Masashi Fujita
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