#41

夫婦とレアルの歴史
History of the couple and Real Madrid

読了時間:約10〜15分

 智子が死んだのは、その日の明け方だった。
 五月の最後の日曜日で、哲也はかつて智子とふたりで暮らしたマンションの寝室の、ひとりではいかにも広すぎるキングサイズのベッドの片側でまどろんでいた。
 六時を過ぎた頃、スマホに着信があった。
 はっきりとしない霞んだ視界の中に、智子の母親の名前を見たとき、直感的に、哲也は元妻の身に何かが起こり、そしてそれはもうすでに手遅れであると感じた。
「哲也さん、朝からごめんなさいね」
 震える声で、八十歳近い彼女は言った。智子がね、亡くなったの、と。
「これから行きます。遅くとも十時までには着くと思いますから」
 哲也はスマホを持ったままベッドから起きて、カーテンを開けた。
 その日が来たか。
 朝日を浴びながら、その言葉を努めて冷静に、確かめるように、身体の奥底に沈めるように、哲也はまず一度、思った。
 
 ◇
 
 東京駅のホームでサンドイッチとペットボトルのお茶を買って、哲也は新幹線に乗りこんだ。日曜の朝の下りとあって、七時台の車内は空いている。
 いつも出張のときと同じようにスーツの入ったガーメントケース  今日は黒の礼服  を荷物を網棚にのせ、窓際に腰を落ち着けてからペットボトルのキャップをひねる。
 サンドイッチの包装をはがし、ツナサンドを半分口に含んだところで、哲也はリクライニングを倒していないことに気づいた。
 ルーティンを大切にする哲也にとって、いつもの行動から何かが抜け落ちることは、自分の落ち着きが失われていることを意味する。
 シートを倒すと、ひとつ、長くて大きなため息が漏れた。まるで大事なペナルティキックを蹴る前の選手のようだ、と哲也は思った。
 智子の実家のある町までは、新幹線で二時間、それから在来線を乗り継いで十五分かかる。
 さてこの時間をどうやって過ごそうか。智子のことを考えるべきなのだろうが、彼女の顔を見るまでは、それはやめておこうと思った。ひとりで勝手に過去を振り返るのは、フェアではない。何の根拠も理屈もないが、そんな気がした。
 小さな震動とともに新幹線が動きだし、ホームを離れる。今朝、目が覚めたら何をしようと考えていたのだったか。何かをしようと思っていたはずなのだが  哲也は思い出して、思い至る。
 そうだ、チャンピオンズリーグの決勝を見るつもりだったんだ。
 
 ◇
 
 哲也はスマホでWOWOWのアプリを立ち上げ、うっかり結果を見てしまわないように慎重に操作して、追いかけ再生をはじめた。
 試合開始前の現地映像はすべて飛ばして、リヴァプールとレアルマドリー、両チームの予想フォーメーションから。
 これから九十分。延長までもつれこめば一二〇分。智子のことを考えずに新幹線で時間を過ごすのにちょうどいい。
 リヴァプールの3トップは、左にルイス・ディアス。対するレアルは右にバルベルデ。ここにバルベルデか、ちょっと意外だ。
 目をひいたのはそのくらいで、あとは両チームとも、前の晩に哲也が予想したのと変わらないスタメンだった。チアゴの怪我はどうやら大丈夫なようだ。もちろんサラーもいる。リヴァプールとレアルの組み合わせといえば、二年前を思い出す。あのときリヴァプールのエースを前半で負傷退場に追い込んだセルヒオ・ラモスは、もうこの場にはいない。
 二年前。それは哲也が智子と離婚をした春でもある。
 
 ◇
 
 哲也と智子のふたりは、十五歳のとき、クラスメイトとして知り合った。付き合っていたとか、仲が良かったというわけではない。普通の同級生だった。
 三二歳のときに、同窓会で再会した。そして三四歳のとき、結婚した。
 それから五十歳で正式に離婚に至るまで、哲也は智子に振り回されることが日常の夫婦生活のほとんどすべてだった。
「私は人と違うところがあるけど、でもそれが私だし、私の個性だから、受け入れてほしいの」
 結婚をするとき、彼女はそう言った。
 その意味を、そのときの哲也はよくわかっていなかった。身体的なものであれ精神的なものであれ、性格であれ、どんな問題  彼女の言葉でいうところの個性  を抱えているにしろ、結婚の誓いを交わし、一緒に暮らす以上はそれがどんなものでも受け入れようと哲也は思った。支え合うことこそ、夫婦で生きることなのだと。
 でもそれには限界があった。一緒に暮らしてはじめて、哲也は彼女が言葉で他人を傷つけることを厭わない人間であること、彼女自身が、自分の身体を傷つける習性を持っていることを知った。
 彼女は心療内科を、あるいは精神科を、受診すべき人だった。彼女自身がそれを拒み続けて、結局一度も受診したことはなかったけれども。
 
 ◇
 
 リヴァプール優勢で試合がはじまった。
 マネが、サラーが、次々にシュートチャンスを迎え、それをティボー・クルトワが阻止する。そんな前半だった。
 四冠が期待された今シーズン、プレミアリーグであと一歩シティに追いつけなかったリヴァプールは、その結末が国内カップ二冠だけではファンも選手もあまりに物足りない。二年前の復讐もしなければならないはずだった。
 哲也は学生時代にアリゴ・サッキのACミランで海外サッカーに興味を持ち、それ以来ミラニスタを貫いてきたが、社会人になった頃からだんだんとサッカーを見ることへの執着は薄れ、今はミランの試合にこだわりもなく、そのときそのときの面白いチームの試合だけを見ている。だから最近はもっぱらプレミアだ。
 哲也が智子と再会したのは、二十世紀の終わりの年、レアルがバレンシアとのスペイン対決を制して欧州王者に輝いた年だった。
 クラス会に珍しく顔を出して、そこで連絡先を交換した。哲也は高校時代、智子のことがほんの少しだけ気になっていた。だから、近くの席に座り、話しかけた。
「俺、哲也だけど、覚えてる?」
「覚えてるよ。あんま変わんないね」
「そうかな、智子さんも変わんないね」
 彼女は当時よりもきれいになっていた。ふたりとも独身だった。互いにもうそろそろいい加減、結婚を意識しなければいけない年齢ということもあった。
「アドレス教えてよ」
「いいよ」
 当時のレアルには、レドンドがいて、マクマナマンがいた。ラウルはもちろん、前線にはニコラ・アネルカもいた。
 真夜中のチャンピオンズリーグ決勝の中継を見ながら、哲也は智子にメールをして、デートの約束を交わした。何を食べたいか、どの店がいいか、そんな言葉を、短い文字で試合中、ずっとやりとりしていた。ゆっくり、着実にパスを交換し合うみたいに。
 
 ◇
 
 結婚したのは二年後だった。
 哲也は、おや、その年も確かレアルがチャンピオンズリーグで勝ったんじゃなかっただろうかと思った  スコアレスのまま試合がハーフタイムに入ったので、ブラウザを立ち上げ、検索した  、やはり、デル・ボスケの銀河系軍団が再び欧州を制したその年だ。
 二年前の優勝チーム  カシージャス、エルゲラ、サルガドやロベカルといった選手たち  を土台に、フィーゴやジダンを加えた華々しい時代のはじまりだった。レバークーゼンを下したあの決勝のジダンのスーパーボレーは、今でも語り継がれている。
 そうだ、思い出した。
 あの試合を、哲也は智子とふたりで、買ったばかりの新しいマンションのリビングで見た。引っ越してすぐだった。その決勝の中継に間に合わせたいがために、近所の家電量販店で大型テレビを買って、配達を急がせたのだ。
「こんなに大きなテレビ、贅沢すぎるよ」
「いいんだよ、映画とかサッカーとか、俺は大きなテレビで見るのが夢だったんだよ」
 三十万円近くしたそのテレビは、哲也にとって、幸せな結婚生活のはじまりの象徴に思えた。
 ジダンのボレーの瞬間、彼女も哲也と同じように腰を浮かした。
「うわ。私今、鳥肌たった。すごいね」
「すごいだろ」
「サッカーって面白いね」
「だろ」
 あの頃はよかった。生涯の伴侶であるはずの妻の「個性」が何か、哲也はまだ知らなかった。
 
 ◇
 
 ふたりとも子どもを望んでいた。
 できたらふたり。余裕があれば、三人。
 でも、できなかった。
 結婚して五年、ついに子どもを諦めたとき、哲也はさびしいと思うどころか、ほっとした。これでもう、不妊治療に連れ回されることはない。おかしな民間療法にお金を注ぎ込む必要もないし、変な団体の会報が毎月届けられることもない。ある日突然掃除機が破壊されていたり、ベランダから育ていていた観葉植物の鉢を落とされることもない。もう、妻が壊れていくところを見なくて済む、と。
 智子にはそういう傾向があった。ひとつのことを見ると、それ以外のものが何も目に入らなくなる。悩めば悩むほど、思い込みが強くなる。何かを信じずにはいられない。自分の人生が思い通りに運ばない、という現実を否定する何かを。それが彼女のいう、個性、だった。
 子どもをあきらめ、これからふたりで仲よく暮らしていくと決めれば、それは解決するだろう。その哲也の考えは、結婚を決めたときと同じく、甘かった。
 子どもができなかったことは、智子にとっては深い傷だった。同僚とのトラブルが原因で職場をリストラされたのも、彼女の不安定さ、心の脆さをさらに危険なものにした。
 
 ◇
 
 夫婦の溝は、年を重ねるごとに深まっていった。智子はパートや契約社員で働きに出ても、すぐにころころと職場を変えた。その度に、自分は悪くない、という言い訳を繰り返す。
 哲也はそんな妻に嫌気がさした。同じベッドで寝ていても、もう妻の身体を求めることはなくなった。欧州のサッカーをいちばん多く見ていたのは、その頃だったかもしれない。サッカー観戦を口実に、週末はリビングのソファで寝るようになった。何度か外で浮気をしたこともあった。
「私のこと、もう好きじゃないんでしょ」
 智子は何かにつけて、卑屈に、嫌みたらしく、そういう台詞を哲也に投げつけた。
「そんなことないよ」
 哲也は言いながら、でもその曖昧な答えが精一杯の正直さだということも自覚していた。もう好きではなかった。むしろ、嫌いだった。
「私のこと、頭がおかしいから病院に行けって思ってるでしょ」
「思ってないって」
 結婚生活がそれでも続いていたのは、さまざまなしがらみがあったからだ。マンションのローン、仕事、世間体、それに決定的な別れの理由がなかった。妻が精神的に不安定で、おかしな趣味をもちはじめる、奇異な行動に出る、それだけでは人を納得させることはできない気がした。彼女の両親に相談したことも何度かあったが、それが解決につながることはなかった。
 
 ◇
 
 ウィキペディアでレアルマドリーのこの二十年を振り返りながら、哲也はある発見をした。
 レアルがチャンピオンズリーグで優勝をする年は、夫婦のあいだで何か大きな出来事がある。
 智子と再会した年も、結婚した年も、レアルはビッグイヤーを掲げた年だ。
 BBCを擁して得点を量産した十四年のシーズン、智子は哲也が出張で家を空けているときに大量の睡眠薬を飲んだ。
 翌々年、ジダンがシーズン途中から就任して一気にトーナメントを駆け上がったそのシーズンは、彼女が突然失踪して一ヶ月家に帰ってこなかった。
 どちらも警察の世話になり、多方面に迷惑をかけ、哲也の方が精神的に追い込まれそうだった。
 そしてガレス・ベイルのバイシクルでチャンピオンズリーグ三連覇という偉業を成し遂げた年、ついにふたりの離婚が成立した。
 
 ◇
 
 後半、ヴィニシウス・ジュニオールが先制点を決めてからも、果敢に敵陣に攻め込むのはリヴァプールの方だった。
 それでも、レアルはよく守っていた。クルトワは好セーブを連発した。カルバハルはルイス・ディアスに決定的な仕事をさせなかった。
 何より哲也の目をひいたのは、プレスを受けてもボールをつなぎ続けるレアルの中盤だった。モドリッチとクロース、カゼミーロ。三連覇のときからいまだに変わらないこの三枚の存在感は抜群だった。
 ベンゼマもしっかりと左右に流れてボールをおさめる。技術の正確なバルベルデを起用したアンチェロッティの策も成功していた。
 リヴァプールにいくら攻め込まれても、マドリーはマドリーであり続けた。
 何の因果だろう。哲也は考える。
 智子と自分のあいだに何かがあるとき、きまってレアルが優勝する。できすぎた偶然といえばそれまでだが、でも、それがきっと、歴史、というものなのだろう、と思う。
 決勝の前、レアルの歴史と伝統をたくさんのメディアが語った。パリもシティも粉砕したこの勝負強さこそが、レアルなのだと。それが歴史であり、伝統なのだと。
 きっと自分たちと同じように、レアルの勝者としての歴史を自らの人生と重ねる合わせる人は、世の中に  特にマドリードという巨大な街の中に  たくさん存在するに違いない。
 哲也は気づいた。そうか、サッカークラブの歴史というのは、それを見つめる何万、何十万、何百万という人たちの歴史でもあるのだ。
 どれだけレアルが守勢に回っても、哲也は結果をわかっていた。
 智子が死んだのだ。間違いなく、レアルが優勝する。
 
 ◇
 
 新幹線を降りると、東京とは違う空気が肌を刺激した。温度も、匂いも、風の色も違う。懐かしく、でもよそよそしい。
 そこは智子と哲也がかつて十代を過ごした町だ。哲也の実家はもうそこにはない。この町に最後に足を運んだのは、智子の個性について彼女の両親に相談するためにやってきて以来だから、もう十年近く前だ。
 智子とは何度も問題を起こしたが、何かがあると毎回、彼女の両親が東京までやってきた。
 智子が睡眠薬を飲んで搬送されたときも、失踪して警察に通報せざるをえなかったときも。
「哲也さんごめんなさいね、本当にあの子は……」
 その度に、ふたりは何度も何度も哲也に白くなった頭を下げた。このふたりのために、哲也はなんとか智子のそばにいてやりたいと毎回思った。でもそれも、やはり限界があった。
 哲也と別れた智子は、実家に帰った。
 五十を過ぎて実家に戻り、八十近い両親と暮らす。それがどういうことか、どんな生活なのか、哲也はもう考えないことにした。
 かつての夫とはいえ、もうそこまで責任はもてない。そんな自分を薄情だと思うこともあった。でも、仕方のないことだろう。
 
 ◇
 
 在来線に乗り換えるよりは駅前からタクシーに乗った方が早そうだったので、哲也は改札を出た。タクシーに乗り込み、彼女の実家の町の名を告げる。
 タクシーの車内のこの独特の匂いは、都会も田舎も同じだな、なんてことを考えながら、スマホでさっき見終わったばかりの試合の続きを眺める。
 マルセロが泣いている。ファン・ダイクが絶望している。ベンゼマは本当に嬉しそうだ。
 そこに、たくさんのレジェンドたちの顔がオーバーラップする。ジダン、マケレレ、カシージャス、ラウル、モリエンテス、イエロ、クリスティアーノ・ロナウド、ヴァラン、セルヒオ・ラモス  
 もしかしたら、サッカーが自分を支えてくれていたのかもしれない。
 哲也はふとそんなことを思った。
 悲しいときも、つらいときも、哲也はよくサッカーを見た。今朝みたいに、こんなふうにとんでもないことがあっても、サッカーがあれば心の中に空白を作ることができた。
 サッカーはずっと、さりげなく知らん顔で自分のそばに寄り添ってくれていたのかもしれない。きっと、智子よりも近くに。そして智子はそういう存在を人生の最後まで見つけられなかったのだろう。
 かわいそうに。
 哲也は長い息を吐いて、しばらくまぶたを閉じることにした。ようやく、彼女を想うことができそうだった。
 
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 ※次回掲載分(二〇二二年七月掲載分)は作者都合によりお休みいたします。次回は八月の更新です。

FOOTBALL SHORT NOVELS COLLECTION :
FOOTBALL AND LOVE SONG
Written by Masashi Fujita

memo

レアル・マドリードのチャンピオンズリーグの優勝を見て、記憶の中のレアルのかつての戴冠シーンを思い浮かべました。レドンドがいた年、デルボスケの年、アンチェロッティの年、ジダンの年……チャンピオンズカップ時代も含めて、優勝は14回。すごい、としか言いようのない優勝回数です。そこから、レアルが優勝する年はいつも何かがある、そういう夫婦の物語を作ってみようと思いました。悲しい話ですが、こういう夫婦も、どこかにいるような気がします。