#43

インザーギが走る理由。
Why does he run ?

読了時間:約10〜15分

 ミクちゃんは夫のことが大好きだ。
 夫のトモヒロさんは、ミクちゃんが新卒で入社した建設会社の六つ年上の先輩社員で、当時のミクちゃんの上司であり、教育係でもあった。
 会社に通いはじめて一年、二年と経ち、だんだん仕事に慣れていくうちに、同時に自然とトモヒロさんのことを好きになっていったミクちゃんは、入社五年目、彼が転職を決意して会社を辞めるとき、自分から気持ちを伝えて、彼と付き合うことに成功した。そして三年後、ふたりは結婚した。
 
 トモヒロさんは、見た目がすこぶるよいわけでも、頭がきれるわけでも、めちゃめちゃ優しいというわけでもない。骨太で短足で無駄にひげが濃いし、ときどき九九の計算を間違えるし、些細なこと(例えばミクちゃんの洗濯の干し方が悪いとか、冷蔵庫にストックしておいた自分のコンビニスーツをついうっかりミクちゃんが食べてしまったとか)ですぐに機嫌が悪くなる。
 でも、なんというか、トモヒロさんの、その人のその人らしいバランス、みたいなものを、ミクちゃんはとても気に入っている。
 トモヒロさんのそばにいると安心するし、これからもずっと一緒にいたいと思う。ミクちゃんは彼のことが大好きだ。
 
 ◇
 
 トモヒロさんが飲み会から帰ってきた。
 それは大学時代の同期が集まる数年に一度の貴重な飲み会で、大学の友達を一生の宝物だと信じて疑わないトモヒロさんは、一ヶ月以上前からその日を楽しみにしていた。
 ミクちゃんの予想通り、彼は満足そうな赤い顔でリビングのドアを開けると、あー、飲んだ飲んだ、と膨らんだ自分のお腹を撫で、大きなげっぷをした。〆に食べてきたのだろう、豚骨ラーメンの匂いがする。
「みんなに、太った、って言われたでしょ」
「言われた。めっちゃ言われた。でも俺、そんなに太ったかな」
「げ、気づかないとかありあえない。とんでもなく太ったよ。嘘だと思うなら結婚式の写真見直してみなよ」
 大学の仲間に会うのは六年ぶりだそうだ。トモヒロさんはその六年のあいだに、少なく見積もっても十五キロは増量している。上司と部下の関係だった頃は頼もしく見えていた彼のごつごつした身体は、すっかり輪郭が柔らかく曖昧になって、今やゆるキャラ化しつつある。
 体重の大幅な増加が健康にいいということはないだろう。でも、筋トレするとか、ジムに通うとか、何かした方がいいんじゃないかな、と高校時代から体重がまったく変わらないミクちゃんが何度進言しても、「いやコロナ禍で飲み会減ったから健康的になったわけだし」と言ってトモヒロさんは何もしない。
 確かにコロナ禍で飲み会は減ったけれど、その分、部屋で飲むお酒の量は増えていて、トモヒロさんの好物の宅配ピザと運動不足がそれに輪をかけ、はっきり言ってトモヒロさんは成人病に一直線だ。でも本人はいたって平気な顔をしている。基本的にミクちゃんの夫は自己評価が無駄に高く、自分に甘い人間なのだ。
「いや、俺、そんな太ったかな」
「太ったってば」
「でもほら、スポーツ選手はよく現役を退くと太ったりするじゃん。ロナウドみたいに。あ、ロナウドってフェノーメノの方ね」
「私はロナウドって人がどこの誰か知らないし、そもそもトモくん、スポーツ選手じゃないよね」
「あ、でも一応ほら、サッカーサークルなんで。今日の飲み会、サッカーサークルの面子なんで」
「それかなり不正確だよね。正確には、テレビでサッカーを見るサークル、でしょ」
 トモヒロさんが所属していたのは、「海外サッカーサークル」という自主団体で、それはサッカーサークルとはいえ運動部ではない。完全な文化系のサークルだ。深夜、スナック菓子を囓りながらテレビの前でごろごろし、サッカーの試合を見て語り合う、という実に不健康な集まりなのだ。
「まったくもう。いいからちょっと酔い覚ましにお風呂入ってきなよ。それで鏡の前で自分の身体見てみな」
「あ、風呂沸いてる?」
「沸かしといたよ」
 ほろ酔いのトモヒロさんは、汗で肌に張りついたシャツを脱ぎながらリビングを出かけ、ミクちゃん方を振り向いて、言った。
「俺さ、走れるかな?」
「は?」
「いや、みんなで走ることになったんだよね。マラソン大会」
「は?」
 
 ◇
 
「えーっと、何があったんでしょうか」
 トモヒロさんの海外サッカーサークルの仲間のひとりで、先日の飲み会の幹事でもある柴崎さんに、ミクちゃんはこっそり電話をかけて聞いてみた。
 柴崎さんはミクちゃんとトモヒロさんの結婚式でスピーチをしてくれた人だ。旦那の友人、という立ち位置だが、結婚当初はよく部屋に遊びに来てくれたので、ミクちゃんにとって彼は今では、年上の友達のひとり、みたいなものである。
「いや、同期のひとりがさ、地元のマラソン大会の主催者やってんのよ。そう、実行委員のひとりで。でもコロナのせいで参加者の集まりが悪いらしくて。それで、みんなで走ってくれって頼まれちゃって」
「え、サークルみんなで走るの? 柴崎さんも?」
「うん。みんな、いやだよ、誰が走るかよ、みたいな感じだったんだけど、ひとりが健康のために走ろうかなって言い出して、そしたら水野ちゃんが、私、走る! って手を挙げてさ。そしたら」
「ははーん、それでうちのトモくんもやる気出しちゃったってわけか」
「ご推察の通り」
 水野ちゃんというのは、彼らのサークルに所属していた唯一の女の子だ。そして、トモヒロさんが大学時代にずっと片想いしていた、意中の人でもある。
 結婚披露宴に参加してくれたときにはじめて会ったけれど、明るくてハキハキしていてめっちゃ顔も可愛くて、着るもののセンスもよくて、うだつの上がらない感じのトモヒロさんではさすがに無理だっただろうな、と思うタイプの女性だ。今は結婚して、羽生さんという名前に変わっている。
「で、水野さんが走るって言ったら、男たちもみんな走る気になったってわけね」
「そう、特にトモヒロがね」
「一応私、彼の奥さんなんでもう少し気を使って話してもらえます?」
「はは。でもただ走るだけじゃ面白くないから、俺たちらしく、サッカーシャツを着て走ろうってことになって。それぞれ、自分のお気に入りの選手のゲームシャツを買う、って話に決まったのよ。そしたらなんか、みんな楽しくなってきちゃって、めっちゃ盛り上がって」
「ああ、それでか。トモくん、メルカリとかでユニフォーム探してる」
「そう、完全にそれ。俺、もう買っちゃったよ。ヤフオクで。けっこう高かった。あいつに言っておいて、ユナイテッドのスコールズは俺がもらった、って。あとちゃんと練習しとけって。ハーフマラソンだけど、走ってみるとわかるけど、めちゃキツいぞって」
「わかった、言っとく」
 電話を切ってから、夫のモチベーションにまずムカつき、でもミクちゃんは、しかしまあいいことだな、と思い直した。たとえ、「昔好きだった女にいいところを見せたくて」が動機だとしても、それで自分の夫が少しでも健康になってくれれば。これを機に健康意識が変わってくれれば。
 
 ◇
 
 マラソン大会に正式にエントリーを済ませたトモヒロさんは、でも、なかなかそのためのトレーニングを始めない。
「練習しなくていいの? いきなり走って心筋梗塞で倒れたとか、勘弁してよ」
「大丈夫でしょ、ハーフマラソンくらい」
「どっから出てくるのその自信。大丈夫だと思うなら走ってみなよ」
「その前にさ、ユニフォーム決めないと。スコールズ、柴ちゃんに取られたかあ。アンリもシアラーも取られちゃったからなあ。俺、何にしようかなあ」
 LINEのグループでは誰が誰のユニフォームを買ったかの投稿が盛んらしい。
 ある日、スマホの画面を見ながら、
「デルピエロか……けっこうメジャーどころに行ったなあ。ああ、そうだ、じゃあ俺、インザーギにしよう」
 トモヒロさんがブツブツ呟いていたのでこっそりミクちゃんが背後からトーク画面を覗き込むと、そこには水野ちゃんが鮮やかなブルーのユニフォームを広げてにっこり頬笑んでいる写真があった。
「でもアズーリかあ、デルピエロだったら、俺はアズーリよりビアンコネロのシャツ選ぶけどね……うわっ、いきなり人のスマホ覗くなよ!」
「何見てんの?」
「いや、何でもないよ」
 そう言って慌ててスマホの画面を暗転させたトモヒロさんを、ミクちゃんはちょっとぶん殴ってやりたい。
 
 ミクちゃんは後からググってみた。
 インザーギ。デルピエロ。
 なるほど、同じイタリアの代表選手なのか。ふたりで同じチームでコンビを組んでいたこともあるのか。
 なるほど、つまり夫はまだあの女のことが好きなのか。もう人妻なのに。四十を過ぎているのに。そんなに近づきたいのか。もしも、あわよくば、みたいなことを狙っているのだとしたら、気持ち悪すぎる。
 今さら夫が別の女に興味を示したところで嫉妬をすることはないけれど、若い子ならともかく、夫が自分より六つも年上の女に心を動かしている、というのは、さすがのミクちゃんでも不快だった。
「うーん、ミランのが二万か。やっぱ俺もアズーリにしとくかなあ」
「ねえ、トモくんが買おうとしているユニフォームってさあ、そのお金、もちろん自分のお小遣いから出すんだよね?」
「え、服って生活費から出してもらえるんじゃないの?」
「じゃあもっと安いの買いな。ほら、こっちなら三千円だよ」
「ダメだよ、こんなの。オフィシャルのじゃなきゃダメに決まってんじゃん。だいたいこれ、シモーネの方だし。ピッポじゃないと俺、走る気しないよ」
 ちなみに、検索して出てきたインザーギの顔はめっちゃ男前で、夫には似ても似つかない。まるで別の種類の動物みたいだ。
「トモくんさあ、私、インザーギって人の顔見たけど、正直、トモくんがその人のユニフォーム着たら、その人も浮かばれないと思うんだよね」
「浮かばれないとか、ピッポまだ生きてるし。監督やってるし。ちなみに何も知らないようだから教えてあげるけど、インザーギはね、相手ディフェンスと勝負してるんじゃないんだよ。ラインズマンと勝負してるんだよ。そこがカッコいいんだよ」
「ごめん、何言ってるか意味わかんない」
「とにかく俺はインザーギが好きなの」
「いいよじゃあ、その二万のユニフォーム買いなよ。生活費から出してあげるから」
「まじで!」
「そのかわり、ちゃんと練習して、いきなり本番走って倒れたとかしないでよ」
 その日の夜から、ミクちゃんの夫は本格的なストレッチを始めた。
 
 ◇
 
 水野ちゃんが突然、マラソン大会の参加を取りやめたのは、トモヒロさんが近所の川の土手沿いを走り始めた翌日のことだった。
 たった二キロ走っただけで重度の筋肉痛になり、リビングのソファでごろごろしていた彼のスマホのLINEグループに、
 《ごめん!私やっぱ走れなくなっちゃった。旦那の海外出張が突然決まったの!オーストラリアから応援しているから、みんな、当日頑張ってね!》
 とメッセージが投稿されたとき、ミクちゃんは彼の横に座って、彼のふくらはぎをマッサージしてあげていたところだった。
 口に出さずとも、夫のモチベーションが一気に急降下し、ほぼゼロになったのは明らかだった。
「水野さん、参加できないって?」
「あ、そうみたいだね」
「でもトモくんは大丈夫だよね」
「ん、まあね、うん」
 でもいきなりその夜から、ミクちゃんの夫は変な言い訳を口にしはじめた。
「やっぱり、急に運動すると危険だよなあ」
 ミクちゃんは、自分の夫が情けなくてしょうがない。
「まだ本番まで時間あるし、毎日少しずつ距離伸ばしてトレーニングすれば大丈夫だと思うよ」
「うーん、仕事に差し障ると問題あるし。ほら、走るのって時間かかるもんね。その分仕事のスキルアップとかに費やした方が賢明な気もするよね」
「いや、テレワークで通勤時間減ったんだから、全然大丈夫でしょ。それに今だって夕方以降は何もしてないわけだし」
「でもどうかと思うんだよね。そもそもこのご時世、マラソン大会ってやっぱ密なわけだし、いろいろリスク高いわけじゃん」
「トモくん、走りたくないの?」
「つーかさあ、インザーギってのは、パスを出してくれる選手がいてこそ走れるものなんだよ」
「だから何言ってるかわかんないよ」
 ミクちゃんはだんだん、イライラしてきた。そして悲しくなってきた。気づくと、涙をこらえていた。
「え、ちょ、ミク、どうした。なんで俺のマラソンで泣く? まだ走ってないぞ」
「走りなよ。やりなよ。水野さんが走らないことがわかってモチベ下がったのわかるけど、じゃあ、私のために走ってよ」
「何言ってんだよ」
「一キロでも二キロでもいいから。途中で走るのやめて歩いてもいいから。キツくなったらそこで棄権してもいいから、走ってよ。私ね、これでもトモくんのこと心配してるんだよ。もう四十過ぎてるのに、若いときみたいにまだガツガツ食べたり飲んだりしててさ。そのうち病気になるよ。そしたらどうしようってずっと考えているんだよ。私、これでもご飯作るときは少しは身体にいいメニュー頑張ってるんだよ。気づいてないでしょ」
 言い出したら、際限なく言葉があふれてきた。
「トモくんがさあ、昔好きだった人にいいとこ見せたくて走りたいって思っても、悔しいけど、それでトモくんが健康になってくれるならいいかって思ったんだよ。応援しようと思ったんだよ。私ね、トモくんのことほんとに心配してるの。少しでも長く、一緒にいたいの。私、子どもができない身体だから、悪いなって、トモくんに申し訳ないなってずっと思ってて、でもだから、子どもあきらめても仲良くいたいんだよ。ずっとふたりで幸せでいたいんだよ」
 最後は完全に泣き声になっていた。
 
 ◇
 
 でもトモヒロさんはそれからも、マラソンのトレーニングをすることはなく、普通に会社に出勤する日は普通に出勤し、テレワークの日は家でごろごろして日々を過ごした。変わったことといえば、ふたりともマラソン大会のことは一切口にしなくなったことくらいだ。
 そして迎えたマラソン大会の当日。
 朝、ミクちゃんが目を覚ますと、いつも休みの日は遅くまで寝ているトモヒロさんが隣のベッドにいなかった。
 ミクちゃんが寝室を出ると、廊下のつきあたりの玄関に、明らかに似合わない赤と黒のシャツを着た男が立っていた。
「あ、おはよう。ごめん、起こしちゃった?」
 背中には数字の9  INZAGHI。
「走るんだ」
「走るよ」
「もう行くの?」
「だってスタート時間めっちゃ早いんだもん」
「ゴールって競技場だよね? 私、応援、行っていい?」
「俺が倒れたら、俺の骨を拾ってくれ」
「何言ってんの。やだよ。ちゃんと家に帰ってきてよ。死んだら走る意味ないじゃん」
「俺、ミクのために走るから」
「死んでも私のせいにしないで。やっぱり私のためじゃなくていいよ。自分のために走りなよ。それか、友情のために走りなよ」
「うん。なんだかよくわかんないけど、とりあえず俺、走ってきます」
「頑張って」
 トモヒロさんは玄関に腰かけて、新品のランニングシューズを履いている。いきなり新しいシューズで走るなんて、マラソンを舐めている。絶対に靴擦れを起こして大変なことになる。ゴールでミクちゃんが目にするのは、きっと、へろへろの、汗だくで今にも倒れそうな中年男の情けない姿だろう。いや、ゴールで見られるかどうかも怪しいものだ。次に顔を合わせる場所が救急外来とかじゃないことを祈るばかりだ。
 でも、そんな夫のことを、そのときミクちゃんはきっとまた、どうしようもなく愛おしいと感じてしまうのだろう。
 ミクちゃんは夫のことが大好きだ。
 こんな男だから、ずっと好きでいられるのだと、一緒にいられるのだと、ミクちゃんは改めて思いながら、赤と黒のインザーギを玄関で見送った。
 
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FOOTBALL SHORT NOVELS COLLECTION :
FOOTBALL AND LOVE SONG
Written by Masashi Fujita

memo

ピッポが好きです。ロックスター並みにカッコよくてスマートなのに、プレーがめちゃくちゃ泥臭くて、ずる賢くて、ちっともテクニシャンじゃないのに点を取る。あのプレースタイルは他ではめったに見られません。インザーギに憧れて、インザーギのユニフォームを着ているんだけど、まったくインザーギっぽくない日本人のぽっちゃり中年男性の微笑ましいキュートな姿を思い描きながら書きました。ピッポに憧れる男は、おしなべて愛すべき男だと思います。