#48

My Football Forever
They are still playing there

読了時間:約5〜10分

 それがどんな病気であったかは、ここでは伏せておきたい。
 発症から五年、手術を二度経験し、自分の肉体を、皮膚の内側に隠された「自分なのに自分ではないもの」を、常に疑い続けながら過ごす日々だった。
 事前の血液検査の結果はどれも正常値の範囲内で、「きっともう大丈夫だろう」と思ってはいたが、実際に昨日、担当医の穏やかな表情を前にして、僕はようやく心の底から安堵のため息をつくことができた。
「奥野さん、頑張りましたね」
 そのとき胸にこみ上げるものをぐっとこらえることができたのは、自分にまだ、人生の時間がちゃんと半分近く残っていると確信できたからに他ならない。
 もちろんこれですべてが健康だったときの状態に戻ったというわけではない。四十歳の肉体が三十代に逆戻りしたわけでもない。病の因子のようなものはいまだ身体の内側のどこかに潜んでいるかもしれないし、肉体の老いはこれから本格的にやってくる。今回とはまた別のところに別の病気が見つかるかもしれず、それは今回よりもっと深刻なものかもしれない。
 それでも。ひとまず僕は胸をなで下ろした。僕は病に打ち克ったのだ。
 
 ◇
 
 五年間、一滴も口にしなかったお酒を、夕飯のあとでお猪口に一杯分だけ、祝杯のつもりで飲んだ。
 でも、うまいとは思わなかった。記憶の中の酒の味とは違う味がした。それはまるで、学生時代に仲のよかった友達と再会したのに、なんだか会話がぎこちない、そんな舌触りだった。僕はそのことに少し驚き、さびしいような、逆に自分の身体が頼もしいような、複雑な気持ちになった。
 病気をして、いろいろなことが変わった。それまで浴びるように飲んでいた酒を完全にやめた。仕事の量もセーブした。ストレスになりそうな人間関係はすべて遠ざけた。
 サッカーを見るのをやめたことも、そのうちのひとつだ。
 どうして自分が病気になったのか。いくつか考えられる要因のひとつとして、僕はサッカーを疑った。サッカーを見ることそのものが健康に害を与えるということは物理的にありえないにしろ、週末の深夜の三時台のサッカー中継が、身体にいいということはないだろう。
 二十歳のころ  まだジダンやロナウドがいたころに  レアル・マドリーのサッカーに出会った僕は、それからずっと、その白い巨人の姿を追いかけ続けてきた。リーガの試合もチャンピオンズリーグも、できる限りリアルタイムの放送で見てきた。
 それを、思いきってやめた。ハイライト映像も、スコア速報も気にしないことにした。レアル・マドリーを断つことが、僕にとっては神様に命乞いをすることだった。
 
 ◇
 
 二度の手術の後、生活習慣の改善のために深夜のサッカーを断つと、それからいろんなことが少しずつ好転しはじめた。
 まず妻との仲が以前よりもよくなった。夫婦で同じ時間に寝て同じ時間に起きる習慣がついて、結婚してから減る一方だった会話が、またちょっとずつ増えはじめた。
 妻が病気の僕に気を使ってくれただけかもしれないけれど、一緒にいて、会話を必要とする時間を共有できたことは、夫婦のコミュニケーションに確実にいい影響を与えたと思う。サッカー中継の二時間のかわりに、寝る前にときどきふたりで映画を見た。
 生活そのものも大いに改善した。月曜の朝の睡眠不足を週の半ばまで引きずる、ということがなくなったので、週の前半のコンディションが病気をする前よりもむしろよくなり、一日の暮らしに余裕が生まれた。朝、普通に早起きができるようになり、病気を理由に減らしていた仕事は午前中にすべて片付くようになった。
 ドクターストップで酒が飲めない、とはっきり言ってしまえば、仕事絡みの無意味な飲み会に誘われることも、それに参加する義務もなくなった。そのかわり、会いたいと思いながらずっと会えずにいた昔の友人たちを食事に誘い、語らった。社会人になってから、こちらも減る一方だった友人の数が、少しずつ増えていった。
 病気をしてから親しくなった友人たちの中には、治療のときに出会った人もいた。彼ら、彼女らとお互いに胸の内を見せ合いながら話をすることで、僕はこれまで自分がいかに他人に対して厳しかったかを知った。病と向き合ったことで、少しは、優しい人間になれたのではないかと思う。
 
 ◇
 
 担当医にかけられた言葉を土産に、病院から家に真っ直ぐ帰り、妻に報告をし、一緒に家の近くの鮨屋で夕飯を食べた。美味しいものを美味しく食べられることが、こんなに幸福なことだとは思わなかった。
 妻は僕よりもうんと上機嫌だった。病気が治ったことの価値と、彼女の笑顔の価値は、僕の中で対等に釣り合っていた。そのことが、僕を幸せな気持ちにさせた。
「ありがとう、君がいてくれたおかげで僕はがんばれたと思う」
 素直な感謝の言葉が、自然と口から出てきた。
 帰宅して風呂に入り、テレビは見ずに軽くストレッチをして、ベッドに入った。妻が映画を見たいと言い出して、はじめてのデートで見た懐かしい映画を見ているうちに、いつのまにか僕は眠りに落ちていた。
 
 ◇
 
 目が覚めたのは、夜明け前だった。
 朝の四時。検査の結果に、まだ気持ちが昂ぶっているのだろうか、あるいは久しぶりに飲んだお酒のせいだろうか、睡眠時間は短いのに、意識ははっきりと覚醒していた。せめて六時を過ぎるまでは寝直そうと思ったものの、目をとじても眠気がすでにどこかに行ってしまっている。
 隣で眠る妻を起こさないように布団の上をまさぐってスマホを探し、いつも朝チェックしているニュースサイトを開く。
 とりあえず今日の天気を、と指を動かしたそのとき、「CL速報」の文字が目に入った。それに続く「レアル」のカタカナ三文字に、ふと指が止まる。それをタップしたのは、前の晩に祝杯と言って久しぶりの酒を口に含みたくなったのと同じ気持ちだ。
 レアル・マドリーのホームに、マンチェスター・シティを迎えての、チャンピオンズリーグ準決勝ファーストレグ。
 最後にレアルの試合を見てからもう五年経っている。すっかり知らない選手ばかりに入れ替わっているだろうな、と思いながらスタメンのラインナップを見ると、ベンゼマがいた。中盤にはルカ・モドリッチとトニ・クロースの名前もある。
 え、モドリッチとクロース、まだいたんだ。
 むしょうに試合を見たくなった。でも、サブスクはもうすべて解約しているし、最近は地上波でもやっていないはずだ。見たくても見る術はないかもしれない。あきらめてスマホの画面をオフにしたとき、気づいた  あ、もしかしてWOWOW。
 映画好きの妻が、独身の頃からずっと加入しているWOWOW。寝室の壁のテレビを点けてチャンネルを切り替えると、やはり、WOWOWでチャンピオンズリーグの生中継を放送していた。
 
 ◇
 
 夜と朝のあいだの、まだ薄暗いこの時間に、このテレビの画面の光。鮮やかなグリーンの芝のこのまぶしさ。スタジアムの数万人の観客の歓声がひとつの塊になった、この雑音。実況解説の声。ピッチの上の行き来するボールと、選手たち。
 それはサッカーだった。ああ、サッカーだ、と僕は呆けたように思った。
 中盤の真ん中に、モドリッチがいる。クロースがいる。僕が最後に見たマドリーは、史上初のチャンピオンズリーグ三連覇を達成した、あのマドリーだった。そこにはモドリッチがいて、クロースがいた。あのときはまだ、僕は自分がこの若さで病気をするなんて思ってもみなかった。ずっとずっと、健康な身体がいつまでも続くものだと信じていた。
 ゴールドのような、ブロンズのような、髪を揺らしながら、モドリッチは今もモドリッチのプレーをしている。クロースが落ち着いて正確なパスを散らすときのシルエットも記憶の中のそれと変わらない。サッカーの試合をテレビで見ているだけなのに、なぜだろう、胸にこみあげてくるものがある。
 僕はただ、ずっとサッカーが好きで、サッカーを見ていただけだった。レアルが勝てば喜び、負ければ悔しがり、美しいゴールが決まれば胸を震わせた。そのときはそんなこと思いもしなかったけれど、サッカーは確かに、僕の人生の一部だった。
 僕はまた、サッカーを見る生活に戻るのだろうか。いや、もう夜中に目を覚まして生中継にかじりつくようなことはないだろう。でも、サッカーはこれからも、ちょっとずつでもいいから見ていたい。また、サッカーとともに生きたい。
「起きたんだ」
 隣で妻の声がした。
「あ、ごめん、起こした?」
「ううん、ちょっと前から目、覚めてた。急にテレビ点けたから何かと思ったら、サッカーなんて久しぶりだね」
「うん。なんか、ふと」
「また見られるようになったんだね」
「うん」
「よかった」
「うん」
「ほんと、よかった」
 妻の手がのびて、僕の腕をさする。そのとき、白いシャツの、僕の知らない選手が鮮やかなゴールを決めた。おしっ、と声が出る。思わず拳をにぎる。
 僕が笑顔で振り向くと、妻の瞳はベルナベウの照明できらきらと光っている。
 
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FOOTBALL SHORT NOVELS COLLECTION :
FOOTBALL AND LOVE SONG
Written by Masashi Fujita

memo

「サッカーのある暮らしを小説にしよう、きっとどこかに共感してくれる人たちがいるはずだ。」そう思って、書きはじめたこのシリーズ、今回でいったん毎月の新作の更新は終わりにしたいと思います。最後なので、ただそこにサッカーがあること、それだけの喜びをテーマに書いてみました。これまで読んでくれた皆さん、更新を楽しみにしてくれていた皆さん、本当にありがとうございました。いつかこの連載群を本にできたらと夢の続きを願いながら(結局これまで声はかからずだったけれど……悔)、いったん、ここで『フットボールとラブソング』の連載は終了です。もしかしたらまた無性に書きたくなって不定期で更新するかもしれませんが、ひとまず、ここまで。