#13

エフ
Last Flügels

読了時間:約10〜15分

 ホテルのすぐ近くに、四方をビル囲まれた小さな神社があった。
 昨日の夕方、羽田空港に着いて都心のホテルにチェックインした後、夕飯を済ませにおもてへ出て、真冬の風に身を縮めながら暮れゆく東京の街を歩いているときに偶然見つけた。
 
 大晦日だというのに境内はしんとしていた。私は賽銭箱の前に立ち、かじかんだ指先で財布から一万円札を抜き取った。人の動く時期とあって飛行機代も宿泊代もハイシーズン価格の上、さらに一万円か、と、さすがにためらいが生じたけれど、これで明日勝てるなら、と思い、目をつむって指を離した。
 
 勝ってください、勝たせてください。
 
 柏手を打ち、深々と頭を下げた。そして中年太りのあごが食い込んだ分厚いフリースの左の胸に、そっと手を当てた。中に着ているのは、プーマの白いゲームシャツだ。そこには水色のFの文字のエンブレムがプリントされている。
 
 勝ってください、勝たせてください。神様、どうか有終の美を飾らせてください。私のお願いを聞いてください。これが本当に最後の試合なんだから。
 
 顔を上げた私はもう一度、拝殿に向かって深く頭を下げた。
 
 *
 
 元旦の空はよく晴れていた。
 
 事前に調べたとおりに、黄色い電車に乗って信濃町という駅で降りた。道順はわからなかったけれど、人の波に流されるように歩いて行くと、迷うことなくたどり着いた。国立競技場。空に向けてせり出す灰色のスタンドが、やけに神々しく感じられた。
 
 ゴール裏の上の方に席を見つけて、私は着ていたフリースを脱いだ。昨日、願掛けのときにも着ていたプーマの白いゲームシャツ。そのエンブレムに、そっと手を置いた。今日のために買ったシャツ。着るのはこれが最初で最後になるだろう。
 
 スタンドは試合が始まる前から熱気がこもっていた。周囲には、私と同じシャツを着たサポーターがたくさんいる。何年も前のモデルを着ている人もいる。前園とか、エドゥーのマーキング。誰もが、追い詰められた人のような、あるいは敬虔な信者が神様に祈りを捧げる最中のような、そんな表情をしていた。切羽詰まった熱気だった。
 
 試合が始まるまでの少しのあいだ、私は家のこと、夫のことが気になった。
 私が熊本の自宅を出たのは、昨日の朝のことだ。
 
 《ごめんなさい、少し家を出ます。
 一月二日に帰ります。》
 
 食卓に書き置きを残してきたが、大晦日に主婦が突然理由も告げずに家を空ける、その非常識に、夫はいま何を思っているだろう。怒っているだろうか。まさか東京にいるなどとは想像もつかないだろう。家出をしたことなどこれまで一度もなかったから、もしかしたら近所の交番に捜索願を出されたかもしれない。
 
 私の夫は、私がこの何年か、夫よりもフリューゲルスに愛着を感じていることを知らない。そのフリューゲルスの最後を、私はどうしてもこの目で見届けたかった。
 
 *
 
 私の夫は七歳年上の平凡な会社員である。
 物静かで、普段、自分からはほとんど話をしない人だ。出会った頃、控えめでやさしい人だと思って好きになったが、どうやら他人に心を開かないタイプの人間なのだと気づいたのは、結婚してからのことだった。夫は子どもをつくることにも積極的ではなかった。
 
 私は小さいときから結婚に夢を見ていた。明るく楽しく、にぎやかな家庭。でも現実は、薄暗い、ひっそりとした、ただの男と女の同居でしかない。いや、私たち夫婦はもう男と女ですらない。結婚後、時間が経つにつれて、私は夫と結婚したことを後悔するようになっていった。
 
 *
 
 私に好きな人ができたのは、二九歳のとき。夫と結婚してから五年目のことだった。
 木村さん。ボランティア活動で知り合った県の職員さんだった。
 
 あるとき、私は木村さんから、地元の競技場で行われるサッカーの試合に誘われた。サッカーに興味はなかったけれど、木村さんとふたりで過ごせる時間がうれしくてついていった。
 
 当時はまだJリーグの開幕直後で、九州には年に数回しか試合が来ないとあって、スタンドは満員だった。貴重なチケットらしかった。
 狭い町だから顔見知りに出くわすのが心配だったけれど、木村さんは、
「誰かに見られてもさ、別に、偶然隣が仕事の知り合いだったって言えばいいじゃん。実際、俺ら仕事仲間みたいなもんだし」
 と平気な顔をしていた。木村さんは独身で、私の他にも仲のよい女の人がいるみたいだった。
 
 好きな人と一緒ならなんでも楽しく感じる、そんな魔法にかかっていたのかもしれない。はじめて見るサッカーの試合はとても面白かった。
 
 木村さんと私は、その後も何回か、フリューゲルスの試合を見に行った。
 その度に、私は自分の手帳に「F」と小さく書き記した。
 
 *
 
 木村さんとのことは、最後まで夫にばれなかった。
 結局二年付き合って、木村さんが彼の職場の女の人と結婚することになって別れた。最後の方は、私が彼の婚約者にやきもちを焼いて、少しだけ修羅場になった。
 
 木村さんと別れて、もう連絡も来なくなると、私の気持ちはだんだんと木村さんから離れていった。でもかといって、夫に対して恋愛感情が戻ることはなかった。
 それは成仏できない魂のように胸の中をふわふわと彷徨い、いつしか、私はフリューゲルスをこっそり応援することに生きがいを感じるようになった。
 
 *
 
 第七八回天皇杯決勝。清水エスパルス対横浜フリューゲルス。キックオフの雰囲気は、私がそれまで体験したことのないものだった。
 
 フリューゲルス側のサポーターたちは、最後の応援を楽しみ尽くしてやる、という意気込みで声を張り上げていた。盛り上がっているのに、なんだか殺気立っていてものものしい。熊本の水前寺競技場のスタンドしか知らない私は、国立のゴール裏の迫力に、まるではじめて戦地に赴いた若い兵士のように身を縮こまらせた。
 
 フリューゲルスは、準決勝のアントラーズ戦で退場した薩川が出場停止だったものの、それ以外はベストメンバーだった。
 トップ下に永井、サイドに波戸と三浦淳。中央にはサンパイオと、キャプテンマークを巻いた山口。これだけ充実した戦力がありながら、どうしてチームが消えてなくならないといけないのだろう。私はいまだに納得できない。
 
 *
 
 淡々とパートタイムの仕事と主婦業をこなしながら、ときどき木村さんのことを思い出しながら、何の変哲もない日々を過ごしていた私は、ある日、ひとりで夕飯の支度をしているときにテレビから流れてきたニュースに耳を疑った。
 
 横浜フリューゲルス消滅。横浜マリノスと合併。
 
 にわかには信じがたい。まず嘘だろうと思った。手を止めて、ニュースを凝視した。パソコンを起動してインターネットでニュースのサイトも確かめた。クラブの出資会社が運営から撤退するという。それは本当のことだった。
 
 でも、もし本当にそうだとしても、結果的にはなんとか別のスポンサーがついてクラブの消滅は回避されるだろうと考えた。いくら景気が悪いといっても、Jリーグのチームが消えてなくなるなんてことはない。きっとどこかの企業が応援してくれるはずだと。
 
 全国に広がったクラブ存続を嘆願する署名活動は、熊本でも行われた。
 私は当然、署名に参加した。自分の名前を用紙に書きながら、ふと自分の名前の近くに木村さんの名前もあったりしないかと視線を動かした。木村さんは、そういえば山口素弘に少し似ていた。
 
 *
 
 一対一のタイスコアでハーフタイムを迎えた。久保山の同点ゴールが決まった直後だったので、トイレの列に並びながら私は少し興奮していた。よし、この勢いで後半は勝ち越せる。もしPK戦に突入しても、こっちには楢崎正剛がいる。
 
 ところが、トイレを済ませて冷たい水で手を洗い、ふと鏡に映る自分の姿を見た瞬間、私は急に怖じ気づいてしまった。
 
 私はこんなところでいったい何をしているんだろう。
 
 元旦の昼過ぎ。本来なら、いま、私は夫の実家で台所の手伝いか何かをしているはずだ。お昼ごはんの片付けをしながら、義理の母親と世間話でもして、それが終わったら正月番組を見ている夫のそばでお茶でも飲んでいるはずなのだ。
 
 なのに私は東京にいる。国立にいる。サッカー? フリューゲルス?
 
 私がしているのは家出だ。夫は怒っているに違いない。明日帰ったら、離婚を切り出されるかもしれない。夫は両親とそのことについて話し合っているかもしれない。私の実家にも連絡がついているだろうか。とにかく、私は大変なことをしてしまった。
 
 でも、これからつらいことが待ち受けているとするならば、せめて、私は今日、フリューゲルスが優勝する瞬間を見届けたい。
 
 お願い、勝って。
 
 祈るような気持ちでトイレを出ようと振り向くと、
 
「イタっ!」
 
 私は自分のことにばかり気を取られて、うっかり後ろに並んでいた若い女の子のつま先を思いきり踏んでしまった。踏みつけた瞬間、エスパルスのオレンジのシャツが目に入った。敵のサポーターだ。
 
「ごめんなさい、大丈夫?」
 
 これは何か難癖をつけられるかもしれない。そう覚悟して私は女の子の顔を覗きこんだ。彼女は私と目が合うなり、胸の近くでグッと拳を握った。殴られる。私はそう感じて身構えた。でもそうではなかった。
 
「私は大丈夫です。いい試合にしましょうね」
「え」
「一生忘れない、最高の決勝戦にしましょうね」
 
 彼女はもう一度拳を握った。黒い瞳は、やさしくて、力強かった。私は、唇をきゅっと結んで、ありがとう、と頷いた。
 
 *
 
 後半二八分、同点のまま膠着していた試合がついに動いた。
 エスパルスのゴール前、ペナルティエリアの中央でフリーになってパスを受けた吉田が、右足でゴールの右隅に勝ち越しとなるゴールを叩き込んだのだ。
 
 私は立ち上がった。まわりの客席もみんな立ち上がった。青と水色の小旗が狂ったように乱れ動いている、誰かの投げた紙吹雪が目の前を舞っている。私は、「やったー」でも「うわー」でもない、文字にできない叫びを上げた。
 
 *
 
 試合終了のホイッスルが鳴ったとき、フリューゲルスが優勝した喜びと、フリューゲルスが消滅する悲しさが同時に襲ってきた。
 
 最高のものと最悪のもの。私は自分の気持ちに引き裂かれそうだった。
 
 私はその場に立っていることができず、シートにうずくまって泣いた。信じられない。こんなに悲しい優勝があるなんて。涙がとめどなくあふれた。見ず知らずの人の手が、何度も私の背中を撫でてくれた。
 
 私はどうしてこの試合のチケットを買ったんだろう。夫に黙ってひとりで東京まで決勝を見に行こうなんて決意したんだろう。
 涙を拭いて顔を上げたとき、私はずっと自分に問いかけていたことに、答えを見つけられた気がした。
 
 きっと、終わらせたかったんだ。みんなここで断ち切りたかったんだ。
 結婚生活がうまくいかないこと、子どもをつくれないこと、木村さんと別れたこと、そういうこれまでの自分の人生の不満を全部、都合よくフリューゲルスに重ね合わせて、今日で終わりにしたかったんだ。
 
 そして、本当に終わったんだろうか。
 見上げた国立競技場の空は、フリューゲルスの色だった。
 
 *
 
 ホテルに戻ってから、私は部屋の電話機で家に電話をかけた。外線のかけ方がわからず何度か失敗をして、ようやくつながると、何回かのコールの後で夫が出た。
 
「もしもし」
「私です」
「…」
「ごめんなさい、今、東京にいるの」
 
 夫は、うん、とひとこと、いつもの乾いた声で言った。怒っているのかどうかは判然としなかった。
 
「私、明日、帰るから」
「うん」
「本当に、ごめんなさい」
「優勝、おめでとう」
 
 夫の口から出た予想外のひとことに、私の心臓は止まりそうになった。
 
「…」
「よかったね」
「…え」
「決勝、見に行ってたんだろ」
「…知ってたの。どうして」
「わかるよ。もう何年も、君、新聞もテレビも雑誌も、フリューゲルスのことばかり見てたじゃない」
「…ごめんなさい」
「でも、残念だね、本当に」
 
 残念。
 
 夫のその言葉で、私はわかった。フリューゲルスはなくなっても、私の人生は終わらない。これからもこれまでと変わることなく続いていく。
 
「明日、空港まで車、出すよ」
 
 夫はそう言って電話を切った。
 
 受話器を戻してから、私はフライトの時間を確認するために、予約したチケットの控えを財布から抜き出した。印字された「ANA」の文字がにじんで見える。鼻をすすりながらホテルの窓から見上げた世紀末の東京の空は、やっぱり、フリューゲルスの色だった。

FOOTBALL SHORT NOVELS COLLECTION :
FOOTBALL AND LOVE SONG
Written by Masashi Fujita

memo

Jリーグのチームが消えてなくなる…? 本当に? テレビや新聞や雑誌で活字として目にする「消滅」という単語がなんとも異様に感じられました。そのとき僕はまだ18歳で、経営がどうとか企業がどうとか、そういうことはちんぷんかんぷんでしたが、この物語の主婦のようにニュースを見ながら「いやいや、まさか本当になくなることはないだろう」と思っていました。でも本当になくなっちゃった。プロリーグが開幕してまだ10年も経っていないうちに、「お金がないからサッカークラブがなくなります」なんて。フリューゲルスといえば前身の全日空の「空」をイメージした爽やかなカラーリング。エドゥー、モネール、アマリージャ、ジーニョにサンパイオと、印象的な外国人選手が多かったですよね。レゲエのGK森敦彦、反町康治、三浦淳宏、山口素弘、前田治、そして前園真聖に楢崎正剛。素晴らしいタレントが揃ったチームでした。テーマソングはTHE ALFEE!今でも覚えています。