#17
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警察からの電話は、いつも見る夜の報道番組のトップニュースが、ちょうど流れ出したときにかかってきた。
低い、年配の男の声だった。
受話口から聞こえてきた「ホドウ」という単語を ― 歩道 ― 舗道 ― 補導 ― 正確に変換するのに、私の頭は少しもたついた。
「娘さんは署の方で保護していますので、これから迎えに来ていただけますか」
その時間、中学三年生の娘は学習塾の授業を終え、帰りの電車に揺られているはずだった。私は取るものも取りあえず、スマホを耳に当てたまま、車のキーと財布だけをつかんでマンションの部屋を出た。
警察の話によると、娘の杏奈は今夜九時過ぎ、駅前の居酒屋のカウンターに座っていたという。
「明らかに未成年と思われる女の子が、若い男と一緒にいるのだが、大丈夫か」
親切な店員からの通報で警官がやってきたとき、ふたりはすでに店を出た後で、杏奈は近くの公園のブランコにひとりで揺られているところを補導された。
店にいた男は二十歳の大学生で、ネットで知り合い、娘の話では「ふたりでお祝いをしていた」らしい。
飲んでいたのはジンジャーエール。酒は一滴も口にしていないそうです。居酒屋の店員も酒は出していないと言っていました。まあ、一緒にいた男の身元はよくわかりませんが、今のところ事件性はないものと思われますからご安心ください。
警官はそのように淡々としゃべって、ではお待ちしています、と電話を切った。
私がまず心配したのは、学校にも警察から連絡が入るのか、ということだった。そしてそれがのちのち問題となって、来年の春の高校入試に影を落とすのではないか、と。
あんた、なんでそんな場所にいたの。
大学生の男っていったい誰なの。
どういう関係なの。
お祝いって何のお祝いなの。
塾はどうしたの。サボったの?
いらいらしながら乱暴に車を運転し、ようやく警察署の建物のあかりが見えてきたあたりになって、私は、あ、と気づいた。
もうすぐ、杏奈の誕生日だ。
一週間後の五月十五日。このところ仕事に忙殺され、娘の誕生日のことを考えるのをすっかり忘れていた ― そしてその日は、私の四十二回目の誕生日でもある。私たち母子は、偶然、同じ日に生まれたのだ ― 。
あの子ももう十五か ― 。
胸の内でそうつぶやいたとき、かつて十五歳だった自分が、警察署の一室で退屈そうにしているであろう娘の、不機嫌な顔に重なった。
◆
一九九三年五月十五日。
その夜、私は家出をして、男の部屋に逃げ込んでいた。
中学三年のその春、私は長い髪にパーマをかけ、化粧をし、ゲームセンターにたむろして年上の男たちとつるんで遊ぶようになり、周囲からはちょっとした不良のように見られていた。おそらく典型的な、「それまではおとなしくていい子だったのに、なぜか急に悪くなっちゃった子」。
どうしてそうなってしまったのかは自分でもよくわからない。ただ、高校受験の年になり、いくら真面目に勉強しても自分の学力では希望する進学校に入れないことがはっきりして、自分自身に失望したことだけは確かだ。きっと、しつけの厳しい家に生まれた反動というのもあったのだろう。
その日の夕方、私は母と喧嘩をした。
両親の希望する高校を受験する気がないことを告げ、激しい口論になったのだ。
母は血相を変えて、私の生活態度や派手な髪型、だぼだぼの服装をなじり、何のためにこれまであんたを育ててきたんだ、これから必死に勉強しろ、と激しく怒鳴った。
私も、別に好きでこの家に生まれてきたんじゃねーよ、私は親のために生きてんじゃねーよくらいのことを言い返して、もういい、もうこんな家、今すぐ出て行く! と啖呵を切って家を飛び出した。
転がり込んだ部屋に住んでいた男は、十八歳の専門学生で、付き合っていたわけではないが、「男友達」と「親戚のお兄ちゃん」を足して二で割ったような関係の、よく一緒に遊ぶ仲だった。
◇
男は狭い部屋に置かれたシングルベッドの端に腰かけて、コンビニで買ってきた菓子パンをカルピスウォーターで流し込みながら、NHKの七時のニュースを見ていた。私も同じ映像を見ながら、ゲーム機のコントローラーが散乱したカーペットの上でオーザックをつまんでいた。
「ねえ、今日、私の誕生日なんだけど」
「ん、おめでと」
「ちょっと、だからニュースなんか見てないでさ、ケーキとか買ってきてよ」
「ばか、ダメだよ。これからJリーグだよ」
「Jリーグ?」
その夜、男はやけに興奮していた。
「ついに開幕だよ、開幕。ほら、始まった」
ニュースが終わると、画面はサッカー場の映像に切り替わった。
カクテル光線が交錯し、派手に唸るギターに合わせて巨大なマスコットが登場する ― あの有名なシーンは、はたして本当に男の部屋のテレビで見たものだったか、今となっては定かではない。でも、「これ、TUBEのギターの人が作った曲なんだよ」と男が得意げに言ったことだけは、はっきりと覚えている。
「なんて人?」
「春畑道哉」
「ふーん。前田しか知らない。ねえ、だから、今日、私の誕生日なんだけど」
「試合、終わったらな」
「あ、この人知ってる。この人も」
画面には、緑のユニフォームを着た有名人が映っていた。
「カズとラモスだろ」
「そう、カズとラモス」
「あ、この人も」
「武田。あれ、カズの髪型、おかしくね?」
「そうかな、私はカッコいいと思うけど」
チアホーンの、ふぁーんと広がる音の塊の中で、試合がはじまった。なんだかスタジアムが泣いているみたいだった。
テレビのスピーカーを通しても歓声がすごくて、実況の人の声もうわずっていた。客席では無数の小旗が、海面の乱反射のように眩しく揺れていた。
「どっち応援してんの?」
「ヴェルディ」
「どっち?」
「カズとラモスがいる方」
「緑の方?」
「そう」
「じゃあ私は青い方を応援しようかな」
「マリノスな」
そんな話をしていたら、大きな体格の褐色の肌の外国人選手がゴールを決めた。
「おおっ」
「え、どっち?」
「見りゃわかんだろ、ヴェルディだよ」
緑のユニフォームの選手たちが、大人の男同士で無邪気に抱き合い、芝生の上に重なり合って喜んでいる。その光景が、十五歳になったばかりの私の目にはなんだか奇異で、そしてやけに新鮮に映った。
◇
男とは、ゲームセンターで知り合った。名前はもう忘れた。たまたま、対戦ゲームで何度か手を合わせ、
「それ、どこに売ってた?」
と、当時流行っていたバッシュを褒められたのが、最初の出会いだった。
「きみ、どこの高校?」
そう訊かれて、親に行けと言われた高校の、ふたつくらい下のランクの高校を答えた。中学生ではなく、高校一年ということにした。そうじゃないと相手にしてもらえない気がした。子ども扱いはされたくなかった。
「俺のイッコ下の後輩、いるよ。三年の藤吉って知らない? サッカー部なんだけど」
「知らない」
「そっか。ねえ、ひま? だったら俺んちでゲームしよ」
誘われて、私は男の部屋にのこのこついていった。
男の部屋に入るということがどういうことか、十四歳の私はよくわかっていなかった。
部屋は洗濯物とカップ麺と漫画のにおいが混じって、やけに湿っぽくて、ちょっと臭かった。
なんとなく、変な雰囲気になることもあるらしい、とは知っていたけれど、私はあくまで、近所のコンビニで漫画雑誌とお菓子を買って友達の家で遊ぶ、みたいな、小学生の頃の男友達の家と同じような感覚でいた。
何度目かのとき、ゲームの途中で一回だけ、突然、男に押し倒されそうになったことがあった。
「え、なに?」
「いいじゃん」
「だめ」
私は必死に抵抗した。すっかり不良っぽくなってしまった私でも、ここでこれを失っちゃいけない、という気がした。それをしたら、どこまでも自分が安っぽくなって、本当の不良になってしまうような感じがした。
私にその気がないとわかると、男はそれから、そういうことをしなくなった。私たちは、部屋で一緒にお菓子 ― チップスターやパイの実やオーザック ― をつまみながらスーパーファミコンの対戦ゲームをプレイする、ただそれだけの友達だった。今でもときどき、オーザックを口にすると、あの狭い部屋の湿ったにおいを思い出す。
男がどういうつもりで私とつるんでいたのかはわからない。今になって思えば、十四歳の私はひどく孤独で、その男はきっとそれ以上に孤独だったのだ。
◇
試合は二対一でマリノスが逆転勝ちをした。けっこう渋い感じの外国のおじさんが点をとった。背は低いけれど、映画俳優みたいな彫りの深い、ダンディな顔立ちの人だった。
「この人、カッコいい」
私がそう言うと、男はベッドの下に散らばっていたサッカー雑誌の隙間から、一枚のポスターを抜き取って、私にくれた。広げると、そのおじさんだった。
「名前、何ていうの?」
「ラモン・ディアス。アルゼンチンの代表でワールドカップにも出てる。すごい選手」
「へえ、ありがと」
中継が終わると男はテレビを消し、私たちはふたり同時に大きな伸びをした。
「ふあー。Jリーグ、意外と面白かったよ」
「だろ。また見に来いよ」
「うん」
「えっと、何だっけ。ああ、そうだ、誕生日だ。おめでと。どうする? コンビニで何か買ってくる?」
「うーん」
私はそのとき、ふと家に帰りたくなっている自分に気づいた。ちっとも反省なんてしていないのに、なぜか、反省した後みたいな気持ちになっていた。
「そうだ、ごめん、お母さんが焼いてくれたケーキがあるんだ。だから私、帰る」
「あ、そう」
去年まで母が欠かさずに焼いてくれていた誕生日ケーキを思い受かべて、私はそんな嘘をついた。
◇
家に帰ると、もう夕食は片づけられた後だった。風呂上がりの母が台所にやってきて、
「あんた、どこ行ってたのよ」
私の姿を見るなり険しい顔で言った。
「どこでもいいじゃん、関係ないでしょ」
「関係ないことないでしょう。あんた、夕飯は?」
「太るからいらない」
「ご飯、ジャーにあるから」
「だからいらないっつの」
本当はお腹が空いていたけれど、意地になってそう言った。
そして、もう今夜はコーラでも飲んで腹を膨らませて寝よう、そう思って冷蔵庫を開けたときだった。
予想外のものが、私の目に飛び込んできた。透明なラップにくるまれた ― Happy Birthday ! ― いちごのデコレーションケーキ。
「せっかく焼いたんだから、食べてよ」
振り返ると、母は食器棚から皿とフォークとナイフを取り出して、乱暴にテーブルの上に並べはじめた。
「いちご、高かったんだから」
「じゃあ、せっかくだから」
耳の奥にこびりついたチアホーンの残響を聞きながら、私はそれを食べた。
甘過ぎてべとべとして、あまり美味しくなかったけど、私は母の顔を見ず、でもかろうじて聞こえるように、「美味しい」とつぶやいた。
◇
専門学生の男の部屋には、私はそれきり足を向けなくなった。受験勉強をやり直すことにして塾に通い始め、ゲームセンターに立ち寄る時間がなくなったのも、自然とその男から離れるきっかけになった。まだスマホどころかポケベルもない時代だったから、友達をなくすのは簡単だった。
男にもらったラモン・ディアスのポスターは、私が高校に進学し、卒業するまで、ずっと私の部屋の壁に貼っていた。今も、もしかしたらまだ貼ってあるかもしれない。
◆
さんざん頭を下げて警察署を出て、ふてくされた顔の杏奈を車の後部座席に押し込み、ようやくほっとして帰路についた。対応した警官の話によると、学校へは通知しないという。
娘は、警官にも私にも、相手の大学生の名前を最後まで頑として教えなかった。
「迷惑がかかるから言わない」
「そういう問題じゃないの。どうやって知り合った人なの。まさか出会い系じゃないよね」
「お母さん関係ないから」
「付き合ってたわけじゃないのね」
「はあ? 何言ってんの、馬鹿じゃないの」
「ならいいけど」
「お母さんが心配するようなことは何もされてないし、してないし」
十五歳の私にも ― 別に好きだったわけではないのになぜか一緒にいたい ― そういう、年上の男がいた。
でも、おそらく、それを今この子に伝えても何の意味もない。
人生、みたいなものを歩き始めると、「思うようにうまくいかない自分」という、不甲斐なさのぬかるみに足を取られるときがある。思わず手を伸ばしてつかんでしまう、通りすがりの誰かが必要になるときがある。
きっと、それだけのことだ。私はそう思うことにした。この子はこの子で、ちゃんとなんとかするだろう。
「ねえ、ラモン・ディアスって知ってる?」
話題を変えようと思ったら、不意にその名前が口をついて出た。
「誰それ」
かったるそうな声が返ってくる。
「知らない。なんかのブランド?」
「なんでもない。杏奈、お腹減ってない?」
「お腹は減ってないけど、なんか食べたいかも」
「じゃあ、ファミレスでも行こっか」
「あー、私やっぱマックがいい。ドライブスルー寄ってくんない?」
「杏奈、来週、誕生日だね」
「うん」
「十五だね」
「だからなに?」
「ううん。ケーキどうしよっか」
「太るからいらない。あ」
「なに?」
「思い出した。ラモン・ディアスって、おばあちゃん家の、お母さんの部屋に貼ってあるサッカーの人じゃない?」
「そう」
「お母さん、サッカー見る人だったんだ」
「昔、ほんのちょっとね」
国道沿いに、マクドナルドの黄色い看板が見えてくる。
あの店は私が十五歳のときも、あの場所にあっただろうか。ハンバーガーを食べながら、シェイクを飲みながら、誰かと誰かが、カズとかラモスとか、ヴェルディとかマリノスとか、そういう、Jリーグの話をしていただろうか。
耳の奥に、懐かしいチアホーンの音の塊が聞こえてきた。
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Written by Masashi Fujita
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