#18

ジョホールバルから遠く離れて
Far from Johor Bahru

読了時間:約15〜20分

 一九九七年十一月一六日、日曜日の夜。
 マレーシア・ジョホール州の州都ジョホールバルから遠く離れた、東京の西の外れ  
 
 ◇
 
 たかが女にフラれたくらいで、と言われればそれまでなのだ。わかっている。
「二十歳やそこらの恋なんて、思い出にしかならない」と、何かの映画で脇役の渋いおっさんが言っていた。歳をとれば、実際にそう感じるのかもしれない。
 でも二十歳の直樹にとって、現在進行形のこの失恋は「思い出」のひとことであっさりと片づけられるものではない。胸が苦しい。心が痛い。夜がつらい。毎日、水の中でもがいているみたいだ。
 先週、一年半付き合った彼女から別れを切り出された。
 見苦しいのは自分でもわかっていたが、直樹は彼女に泣いてすがった。すがりついた。
「やり直そう」「俺の悪いところは全部直すから」「どうしたら戻ってきてくれる?」「俺の何がいけないの?」「俺のこと誰よりも好きって言ってたじゃん!」
 しかしそれらの情けない言葉は、どれひとつとして彼女の心に届かなかった。
 
 ◇
 
 直樹と恋人  いや元恋人のユッコは、同じ大学の同じサークルに所属している。
 キャンパスは東京都内  といっても都心から急行で一時間以上もかかる、畑に囲まれたのどかな土地にあり、その校舎に通う他の多くの学生と同じように、ふたりとも大学の最寄り駅の周辺にアパートを借りて住んでいる。
 直樹の部屋は駅の北側。ユッコの部屋は南側。線路を挟んでどちらにも商店街があるので、普段の買い物はアパートの近くで済むのだが、直樹は今夜もわざわざ線路を渡り、駅の南口に出て、用もないのに南口の本屋で立ち読みをし、南口のコンビニで時間をつぶし、南口のレンタルビデオ店を覗き、南口の商店街を彷徨っている。
 とにかく、直樹は彼女のことが好きだった。今も好きで好きでたまらない。
 元交際相手のアパートの前を何度も言ったり来たりして部屋を見上げる姿は、もはやストーカーに限りなく近い。
 
 ◇
 
 直樹がバイト帰りのユッコの姿をその視界に捉えたのは、今夜も会えない、とあきらめて南口商店街を引き返す途中、ちょうど酒屋と古着屋の角を折れたときだった。
 心臓がどくんと大きく脈を打った。
「ユッコ……」
 偶然を装って声をかけようとしかけたところで、直樹は足をとめた。そしてまさに犯罪者のような挙動で、雑貨屋の軒下にさっと身を隠した。
 彼女の隣には、男がいた。
 見知らぬ男だった。背が高くて整った顔立ちの、同じ年代の若い男。青いシャツを着ていたが、それがサッカー日本代表のユニフォームだと気づく余裕など直樹にはなかった。
 直樹はまず、この男はユッコとは無関係の赤の他人だと思った。思い込もうとした。彼女のそばに、たまたま彼女と同じ速度で同じ目的地に向かって歩いている男がいるだけだと。
 でも、その男の手とユッコの手は、何度見返しても間違いなく、つながれていた。ユッコが男を見上げる。男がユッコを見下ろす。ユッコが男に話しかける。男が答える。
 男のシャツの袖を引っ張りながら楽しそうにけらけらと笑うユッコの顔を、直樹は呆けた顔でじっと見つめた。ふたりが目の前を通り過ぎても、直樹はしばらくその場から離れられなかった。
 ユッコにはもう別の男がいる。
 死にたい  。
 直樹はまず反射的にそう思った。死にたい。繰り返すと、それほど大げさな思いつきというわけでもない気がした。そのくらいしないと、今目の前で見た現実をねじ曲げることはできない。そんなふうに感じた。
 
 ◇
 
 自分のアパートへ帰る道すがら、直樹は南口の牛丼屋で持ち帰りの牛丼を買った。
 それを手にぶら下げて帰る途中、駅の改札のそばの、北側へと渡る踏切の前で電車が通り過ぎるのを待ちながら、もう一度思った。
 死にたい。
 別れを告げられてからのこの一週間、直樹は四六時中ユッコのことを考えていた。
 一日のうちで彼女のことを考えない瞬間なんてなかった。夢にも見た。そしてそのほとんどが、主に極端な希望的観測、つまり妄想だった。直樹の妄想の中でユッコは言う。
「考えたんだけど、直樹とやり直したい」「やっぱり私は直樹が好き」「本当は別れたくない」「ごめんね直ちゃん」
 それが現実になることを期待しながら、直樹はPHSの着信を一日に何十回も確かめた。一度として着信履歴にユッコの名前が残されていたことはなかったが、それでも、今もまた同じように踏切が開くのを待ちながら、銀色のPHSを握りしめて着信履歴を確認している。
 この踏切が開いて、それから閉じて次にまた開くときまでずっと線路の上にいたら、ユッコは俺の気持ちをわかってくれるだろうか。
 直樹はそんなことを考えた。
 ばらばらに引きちぎれた自分の亡骸に泣いてすがりつき、「直樹ごめん!」「本当は直樹とやり直したかった!」「直樹愛してる!」「私のこと、許して!」と叫ぶユッコの姿を想像しながら、電車が通り過ぎて遮断機が上がっても、その場にじっと立ち尽くしていた。
 死ぬときって、痛みを感じるのだろうか。
 
 ◇
 
「あれ? 直樹くんじゃん?」
 女の声に振り向くと、すぐそばにサークルの先輩が立っていた。佐藤さん。下の名前は忘れた。直樹より二学年上で、今は四年生。去年の途中まで副代表だった人だ。
「直樹くん、何してんのこんなとこで」
「いや、……牛丼買いに」
 ふたつも年齢が上なのに、サークルの連中はみんな彼女のことを「サトちゃん」と呼ぶ。ちょっとふくよかで、丸顔で、おしゃべりが好きで、愛嬌のある人だ。薬局の前にいるあのオレンジ色のキャラクターに似ているところからそのあだ名がついたらしい。姉御肌の世話焼きでもあり、一年のときは直樹もよく彼女に気にかけてもらっていた。
「あー、牛丼、美味しそうだね。匂うわ」
「サトちゃんは何してんすか」
「テレビ見たくて急いで帰るとこ。でもお腹も減ってるんだよねー」
「夕飯まだなんすか?」
「うん。ダイエット中なんだけど、私も今日は牛丼にしちゃおうかな。よかったら、牛丼同士、一緒に食べる?」
「なんすかその牛丼同士って」
 よくわからない展開だったが、ひとりで食べるよりはましな気がした。
 
 ◇
 
 サトちゃんの住んでいる部屋は、南口商店街の、ついさっき直樹が身を隠した雑貨屋の隣のアパートにあった。
「悪いんだけど、お茶とかそこにあるし、冷たいのがよかったら冷蔵庫に入っているから、直樹くん、勝手にやって」
 一緒に食べようと自分から誘ったくせに、サトちゃんは部屋に上がるなり、リモコンでテレビをつけてそう言った。
 テレビは、サッカーだった。
「あーよかった、間に合った」
「今日って、なんか大事な試合っすか?」
「え、何その言い方。全然興味ないの?」
「サッカーはあんまし」
「日本中がこんなに盛り上がってるのに?」
「どこ対どこなんすか? あ、日本代表か」
「え、そういうレベル? まじで?」
 牛丼の匂いに惹かれたくせに、サトちゃんは途中で気が変わって牛丼屋の隣のコンビニでカツ丼を買った。不思議に思っていたが、部屋の壁に貼られている日本代表のポスターを見て直樹はようやく合点がいった。
「もしかして、必勝祈願のカツ、っすか?」
「あたり」
 サッカーの日本代表が窮地に立たされているらしいということはなんとなく知っていたが、その大事な試合が今夜だったのか。
 テレビ中継の冒頭、最初の一分を見て、直樹は理解した。日本代表はこれからワールドカップに出場するための切符をかけて、ジョホールバルというかなり遠い場所で、イラン代表と戦うらしい。
「ジョホールバルってどこっすか?」
「知らない」
 がしゃがしゃと音を立ててコンビニの袋からカツ丼を取り出したサトちゃんは、キックオフの前に食べ終える気なのだろう、割り箸を割って勢いよくそれを食べ始めた。
 直樹は、じゃあ俺もいただきます、と小さい声で断ってから、フローリングの床に座り、君が代を聞きながら牛丼を袋から取り出した。食欲はなかった。でも腹は空いていた。失恋のショックで身体の感覚がおかしい。
「ところで直樹くん、何かあった?」
 口にカツを押し込みながら、サトちゃんがアンパンマンみたいなほっぺで言う。
「何かってなんすか」
「いや、なんか元気ないから、何かあったのかな、って」
「いや、別に」
 そう答えながら直樹は、テレビを見るふりをして、ついさっきの、ユッコと男が手をつないで歩いている衝撃的な場面を思い出した。
 あの憎たらしい男は今、目の前でアップになっているゴールキーパー  川口能活に似ていた気がする。悔しいことに、顔だけは直樹のそれよりも数倍よさそうだった。そういう男に自分が勝つには、やっぱり、死ぬくらいの勇気がないと足りない気がする。改めて直樹はそう感じた。耳の奥で踏切の音が鳴る。
 警察から連絡を受けて駆けつけたユッコが自分の死体に泣いてすがりつくとして(死体がどういう状態かは置いておいて)、牛丼臭いのはどうなんだろう。そう思い直し、直樹は割り箸を持つ手を下ろした。
 
 ◇
 
 試合がはじまると、サトちゃんは途端に無口になった。
 自分から部屋に誘っておいて何もしゃべらないのはどういう了見かと思うが、それだけ日本代表の試合に夢中になっている。
 ワールドカップというのがどれほどの価値のあるものか、直樹は知らない。
 スポーツにまったく興味がなく、仲のいい友達との話題はもっぱら映画や音楽のことばかりだから、「キックオフのホイッスルと同時にテレビの前であぐらをかいてじっと固まったまま微動だにしない二歳年上の女の姿」というのは、直樹の目にやけに新鮮に映った。
「サッカー、まじで好きなんすね」
 返事はない。一秒たりとも目を離さない、という意気込みと選手以上の集中力で、サトちゃんはボールの動きをひたすら目で追っている。
 もしかしてユッコも今この試合を見ているんだろうか  牛丼を少しずつ口に運びながら直樹はふと思った。
 これまで、ユッコとサッカーの話をしたことはなかった。クエンティン・タランティーノや昔のR&B、アシッド・ジャズにアングラ演劇、そういうものが好きなふたりに、サッカー日本代表を応援するような趣味はなかった。
 見ていないでいてほしい。でも、男と一緒なら見ているかもしれない。いや、見ていないとしたら部屋で男とふたりきりで何をしているか、を考えると、なにがなんでも見ていてほしい。そして、「やっぱり、カズ!とか中田!とか叫んでサッカーを見るような男より、音楽や映画の話ができる直樹の方がいい」と思っていてほしい。
 つまんないよな、サッカーなんてさ。俺ら、もっと楽しいこといっぱい知っているよな。
 直樹は頭の中でユッコに話しかけた。そういえば、隣を歩いていた男は日本代表のシャツを着ていたような気がする。確かそうだ。そしたら今、ユッコは無理矢理サッカーを見せられて辟易しているに違いない。もしかしたらユッコから電話があるかも。そう思いついて床のPHSに手を伸ばしたとき、
「おっしゃーっ!」
 目の前でサトちゃんが叫んだ。
 見ると、ゴン中山  いくらサッカーに興味がなくても有名な選手の名前くらいは知っている  が先制ゴールを決めて、チームメイトと抱き合っていた。
「あーよかったすね」
 適当な言い方がまずかったのか、サトちゃんが振り返って直樹をキッと睨んだ。
 
 ◇
 
 日本代表が中山雅史の決めた一点のリードを守って、試合はハーフタイムに入った。
 トイレに立ったサトちゃんが出てくるのを待って、入れ替わるように直樹もトイレを借りた。
 ユニットバスの浴槽の縁には、サトちゃんの使っているシャンプーや化粧道具のボトルが並んでいて、トイレのタンクの上にはエリオット・アーウィットのポストカードが飾られていた。車のサイドミラーにキスするカップルが写っている、あの有名な写真だ。
 サトちゃんにこんなロマンチックな趣味があったのか、というのは小さな発見だった。そういえば、直樹がユッコ以外の女の部屋に立ち入ったのはこれがはじめてだ。
 直樹がトイレから出ると、
「で、どうしたの?」
 サトちゃんがカツ丼の容器を片づけながら問い詰めるように直樹に訊ねた。
「どうしたってなんすか?」
「本当は何かあったんでしょ」
「なんもないすよ」
「ユッコと」
「…。なんでわかるんすか」
「わかるよ。踏切が開くの待ってて開いても渡らない人って、明らかにおかしいもん」
「話、聞いてくれます?」
「後半が始まるまでね」
「別れたんす。てか、フラれたんす」
 直樹は勝手にベッドに腰かけて、最愛の恋人に捨てられたいきさつを話した。すでに彼女には新しい男がいるっぽいことも。
 
 ◇
 
「なんか、普通にありがちな話だね」
 ひととおり聞き終わると、今度はサトちゃんが適当な感じでリアクションした。
 なんだか胸の苦しみを軽んじられたみたいで、直樹は少し腹が立った。
「だめっすか」
「ダメじゃないけど。それで線路って発想がちょっとダサいよ」
「……」
「フラれて死にたいって思ってもさ、死んだって気持ちなんか伝わらないよ。余計なことしやがってって、逆に恨まれるだけだよ」
「そうっすかね」
「ていうか、ユッコだって今けっこうつらいんじゃないかな」
「え」
「別れてさびしくてつらいから、だから、新しい男が必要なんだよ。もし今、直樹くんが死んだら、余計に自分を支えてくれる男が欲しくなっちゃうよ。だから死んでも逆効果。それにね、いつか、ちゃんと忘れるから。ユッコが直樹くんを忘れるみたいに、直樹くんもユッコのこと忘れるから」
「……」
「気に障ること言っちゃった?」
「……本当に忘れますかね?」
「うん」
「サトちゃんにもそういう人、いたんすか?」
 そう言って直樹が真正面から見つめると、サトちゃんは視線を泳がせ、少しひるんだ。
 サトちゃんに男がいたという話を、直樹は聞いたことがなかった。男女問わずに垣根なく話せるタイプの人だけど、サトちゃんは男が女として好きになりやすいタイプかというとそうではなかった。少なくとも美人ではない。はっきり言えば、モテない顔だ。あの人、まだ処女かもよ……とユッコと噂したことはこれまで何度もあった。
 だからこの質問は、直樹にとっては少し意地悪な、ユッコに対する気持ちを軽んじられたことへの、ちょっとした仕返しのつもりだった。
「……いたよ」
 少し視線を落としてサトちゃんが答えたとき、日本対イランの後半が始まった。
「その話ちょっと聞きたいんすけど」
「だめ。試合始まった」
 その直後、いきなりイランの同点ゴールが決まった。肩を落とすサトちゃんの後ろ姿を眺めながら、直樹は自分が座っているベッドの上でサトちゃんが男に抱かれる場面を想像した。
 
 ◇
 
 試合が振り出しに戻った後半、サトちゃんがまた大仏のように硬直したスタイルで試合を見ることに没頭したので、直樹も床に座り直し、同じようにじっと試合を見つめた。
 日本は涼しい秋だが、現地は暑いのか両チームの選手ともかなりの汗で、身体がだいぶきつそうだった。ジョホールバルは確か、東南アジアのどこかだった気がする。
 選手たちの顔に余裕は感じられない。みんな切羽詰まった表情でプレーしていて、でもそれが、直樹にとっては自分自身の「追い詰められて苦しんでいる」心境とやけに重なって見えた。
 後半十四分にイランに逆転を許すと、日本代表の岡田監督はフォワードの選手をふたり同時に交代させた。カズと中山に代わって、城と呂比須。サッカーに興味なんてないはずなのに、なぜか直樹は城も呂比須も知っていた。
 日本が同点に追いつくには、攻めるしかない。攻撃するしか手段がないのは直樹にもわかる。しかし日本は長いパスを何度もゴール前に放り込むものの、なかなか決定的なチャンスに結びつけられない。見ていてじりじりする。時計だけがどんどん進む。サトちゃんがいらいらしているのがわかった。同じように、直樹も奥歯を噛んだ。
 ようやく日本に同点ゴールが生まれたのは、後半三十分だった。中田がふわりとゴール前に放り込んだボールに、城がヘディングで合わせる。呂比須が両手を広げて喜ぶ。
「よっしゃ!」
「よしっ!」
 直樹はサトちゃんがするのと同じように拳をぐっと握った。気づくと手に汗をかいている。
「これ、同点だったらどうなるの?」
「延長」
 後半が終わったとき、直樹の脚は長時間正座した後のようにびりびりと痺れていた。
 芝生の上で選手たちが水分を補給する。直樹の喉も乾燥していた。見ればサトちゃんの首筋にも汗が光っている。
「水、もらっていいすか?」
「私の分もお願い」
 頬を紅潮させ、目を充血させて振り向いたサトちゃんが、なんだかやけに色っぽく見えた。
「コップそこにあるから。氷も入れて」
 直樹はよろよろと立ち上がってキッチンに立ち、コップをふたつ並べて水道の蛇口をひねった。そして水がたまっていくのを見つめながら、直樹はふと気づいた。
 そういえばこの後半の四十五分間、俺はユッコのことを一度も思い出さなかった、と。
 サトちゃんの言う通りかもしれない。こうやって別の何かに夢中になって、人は人を忘れていくのか。
「ついに岡野だよ」
 サトちゃんが言った。テレビの画面には交代選手のテロップが表示され、北澤に代えて岡野が投入されると実況のアナウンサーが言った。
 日本代表が円陣を組む。選手もスタッフも、全員が集まって大きな輪を作っている。サトちゃんはテレビに向かって両手を組み、神に祈るようなポーズをした。
「直樹くんも応援して。元気をわけて」
「元気って、悟空の元気玉じゃないんだから。でも、ここまで来たら俺も応援しますよ」
「お願い」
「サトちゃんって、サッカーそんなに好きだったんすね。ひとつ聞いていいっすか?」
「何?」
「好きだった男とよりを戻すのと、日本代表が今日の試合勝つの、どちらか選べるんだったら、どっち選びます?」
 返事はなかった。
 先にどちらかが一点を取った段階で、試合は決着する。それがゴールデンゴール方式だと実況が説明して、延長戦が始まった。
「このピッチの上、円陣を組んで今散った日本代表は、私たちにとっては、『彼ら』ではありません。これは私たちそのものです」
 グランドの上で戦う日本代表をさしてアナウンサーが口にしたそのひとことが、直樹の胸にやけに響いた。
 
 ◇
 
 延長前半一分、交代出場した岡野に決定的なチャンスが訪れた。ドリブルでゴール前に抜け出す猛烈なスピードに、イランの選手は追いつけない。ゴールキーパーと一対一。しかし肝心のシュートがキーパーの真正面に飛び、あっさりと止められてしまった。
 延長前半十三分には、それ以上のビッグチャンスが再び岡野に巡ってくる。相手の陣地をドルブルで独走し、ディフェンスの選手を振り切ると、またしてもゴールキーパーと一対一になった。それまでぴくりとも動かなかったサトちゃんが反射的に腰を浮かせた。直樹も「これは決まった!」と思った。
「岡野! シュー!」
 サトちゃんが叫ぶ。
 が、次の瞬間、シュートではなくゴール前に弱々しく折り返されたパスは、イランの選手によってゴールの外にクリアされた。
「おいーーーーっ!」
 ゴール前に走り込んでいた中田が珍しく大きなアクションで天を仰ぐ。
「あーーーーっ!」
 思わず直樹も声が出た。
「てめえっ! 打てやごらぁあああ!!!」
 サトちゃんが鬼の形相で叫んだ。額に青筋を立てて今にもテレビに突進しそうな勢いだ。普段温厚なサトちゃんがこんなにブチ切れる姿を、直樹ははじめて見た。
 それからも決定的なチャンスを作った日本代表だったが、なかなかゴールは決まらない。
 するとチャンスの後には、ピンチがやってくる。延長後半、イランが日本のゴール前で決定的な場面を作った。センタリングされたボールが、日本の選手の目の前を通り過ぎ、その背後で待っていたイランのエースストライカーがフリーでシュート体勢に入る。
「ひっ」
 サトちゃんの身体がビクッと魚のように跳ねた。やられた、と直樹は覚悟した。しかしシュートは枠の上に逸れた。
「あっぶねぇ」
 直樹が大きく息をつく。命拾い、という言葉がぴたりとはまる場面だった。
「ああああもおおおお」
 叫びながら足をじたばたと動かすサトちゃんは、もう限界にきているようだった。興奮のあまり目に涙をためて、今にも泣き出しそうである。頭から煙が出そうだった。
 そして、このままPK戦に突入かと思われた延長後半十三分。運命の瞬間がやって来た。
 中田がドリブルで相手のゴール前までボールを運び、左足でシュートを打つと、ゴールキーパーが横っ飛びで反応する。
「あっ!」
 ボールがこぼれた。
 そこに、これまで再三チャンスを外していた岡野がいた。スライディングしながら、シュートを放つ。ボールが真っ直ぐゴールネットに突き刺さる。
「うおおおおおっ!」
 サトちゃんも直樹も立ち上がった。
 岡野が喜びを全身で表現しながら走る。「ニッポン、フランスへ!」と実況が叫ぶ。日本の選手が、ベンチのスタッフが、グラウンドの上で抱き合ってもみくちゃになる。
 直樹とサトちゃんは、知らぬ間に天井に向けて突き挙げていた両手を、ばちんと力強く、お互いのそれに重ねた。そのまま自然な流れでぎゅっと抱き合った。
「やったーっ!」
 はじめてかぐ、サトちゃんの首筋の匂い。汗の匂い。髪の毛の匂い。すぐに身体を離して、照れくさそうに俯いたサトちゃんは、顔を歪めてひくひくと泣き出した。
 
 ◇
 
 壁の時計は零時を過ぎていた。
「じゃあ、俺、帰ります」
 牛丼の容器をビニール袋にまとめて、直樹は使ったコップを流しに下げた。
 テレビでは選手がひとりずつ呼ばれ、インタビューに答えていた。サトちゃんはそれを聞きながら、まだ勝利の余韻に浸っていた。
「帰りますね」
「え、あ、うん」
「いいもの、見せてもらいました。なんかちょっと、俺、日本代表に救われたって感じがしますよ」
 そう言ったらサトちゃんが喜んでくれると思って、直樹は言った。お礼のつもりだった。
 そしてPHSと財布がポケットに入っているのを確かめて、部屋を出ようとしたとき、直樹はサトちゃんに呼び止められた。
 
 ◇
 
 あのさ、直樹くん。踏切とか、そういう変な気、起こさないでね。直樹くんが死んでユッコが泣いて悔しがる可能性よりも、直樹くんがこれから何年かのあいだに、誰か、もっと好きになれる人と出会える可能性の方がずっと高いと思うから。あのね……、私ね、三年のとき、直樹くんたちがサークルに入ってきたでしょ。そのときから直樹くんのこと、好きだったんだ。ほんとだよ。しょっちゅう、ちょっかい出して話の輪に加わろうとしてたのは、そのせい。直樹くんと話がしたくて、映画とか音楽とか、直樹くんの好きそうなのたくさん見た。でも、そういうの私よくわかんなくて。やっぱりユッコみたいに、直樹くんのセンスに合う人にはかなわなくて。直樹くん、ユッコと付き合い始めたじゃん。だからあきらめたんだ。片想いだけど、けっこうつらかった。でね、それで私、直樹くんのこと忘れるために、自分がいちばん好きなサッカーに夢中になったの。ドーハの悲劇って知ってる? 知ってるよね。高校生だったあのときから私、ずっと日本代表を応援してるの。誰にも言わなかったけど、今回の最終予選も三回、国立に観に行ってるんだよ。ひとりで行くのって、でもやっぱ寂しいんだよね。誰かと一緒に行きたいけど、日本代表応援してる人あんましまわりにいないし、いても私と一緒になんて行ってくれないだろうし。……なのにさ、今日、こうして日本がワールドカップに行ける瞬間を、私、直樹くんと一緒に見れたんだよ。信じられないよ。抱き合って喜んじゃったりしてさ。すごいよね。こんなことあるんだ、って今もちょっと信じられない。生きてれば、未来ってあるんだよ。きっと、ちゃんと。ドーハのときの選手だって、あのとき本当に悔しかったと思う。でも、ちゃんと時間が経って、日本代表はワールドカップに出れることになったんだよ。来年、フランス行くんだよ。すごいことなんだよ。って、なんか、私何が言いたいのかわかんないよね。自分でもよくわかんない。あのね、だからさ、言いたいのは……きっと大丈夫だよ。それだけ。お願いだから、ちゃんと生きてて。今、私、幸せなの。だからお願い。私のこと、悲しませないで。
 
 ◇
 
 サトちゃんの部屋を出て、直樹はぼんやりとした頭で帰り道を歩いた。
 別れた彼女に会いたくて歩いてきたはずの商店街の通りが、今はまったく別の道のように感じられる。
 終電の終わった踏切を通り過ぎ、ふと立ち止まり、振り返る。
 ついさっきまで、俺はあそこに突っ立っていたんだ。死んでしまいたいと思って。
 そんなほんの三、四時間前までの自分が、今はもうどこにもいない。直樹は生きていて、日本代表がイランに勝ってワールドカップ行きの切符をはじめて手にした歴史的な瞬間を見届けた。サッカーなんて好きでもなんでもないのに、あんなに興奮して、夢中になって。
 来年は、フランスワールドカップ。
 誰かと一緒に日本代表の試合を見よう。
 直樹は思った。そしてすぐに頭に浮かんだその「誰か」は、もう、ユッコではなかった。それはとても不思議な感覚だった。
 なんだか無性にお酒が飲みたくなって、直樹は北口の駅前のコンビニに寄り、かごに缶ビールを一本入れた。そして少し迷ってから、もう一本。
 コンビニを出ると、直樹は小走りで来た道を引き返した。この夜何度も往復した南口の商店街を再び。
 

FOOTBALL SHORT NOVELS COLLECTION :
FOOTBALL AND LOVE SONG
Written by Masashi Fujita

memo

サッカーから勇気や感動を与えてもらうのに、サッカーに詳しい必要などないのです。そもそもサッカーが好きである必要などない。ボールを蹴って相手より一回でも多くゴールネットを揺らせばいいというシンプルなルールさえ知っていれば、誰でも夢中になれる。「ジョホールバルの歓喜」と呼ばれるあの試合は、まさにそういう試合だったと思います。ジョホールバルの現地でこの試合を見た人はものすごい体験ができたことでしょう。日本でテレビにかじりついていた僕のような普通のごく一般のサッカーファンは、ゴールが決まる度に一喜一憂し、そして岡野のゴールで感極まったはずです。でもそれだけじゃない。きっと、サッカーを普段見ないたくさんの人、サッカーどころじゃない人、むしろサッカーが嫌いな人も、あの試合を見て、胸の中で動くものを感じたはず。何かを忘れて、試合に見入ったはず。サッカーにはそれだけの力がある。暴力的と表現してもいいくらいの、人の心を動かす力と美しさがある。サッカーの感動は、きっとたくさんの人を救っている。そんなことを、今回は、せせこましい世界のどこにでもあるような恋愛話の中で書きたいと思いました。