#20
読了時間:約10〜15分
「あたしんち、WOWOW見れるよ」
「うそ、まじで?」
それが、レイと交わした最初の会話だったと記憶している。
2001年、二十歳の秋。
当時、フリーターだった僕は、池袋にあるチェーン居酒屋の時給九百円のアルバイトでなんとか生計を立てていた。
バイト仲間には、僕と同じサッカー好きの後輩が何人かいた。店長の目を盗んで仕事をさぼっては、よく厨房の隅や狭いスタッフルームで、Jリーグや海外サッカーの話に興じていた。
その夜も、「今シーズンこそチャンピオンズリーグの試合をリアルタイムで見たいから、誰か、仲間内で夜中に押しかけられるようなWOWOW加入者はいないか」そんなことを忙しい接客の合間に話していた。
「いないよなー。だいたいこんなとこでバイトしてる奴、WOWOWなんてハイソなもん契約できないよな」
「ですよねー。リョウさん、自分で契約すればいいじゃないですか」
「それができてりゃ苦労はねえよ」
そのとき、偶然僕らの会話をそばで聞いていた同じバイトの女が、振り向いて言ったのだ。
あたしんち、WOWOW見れるよ、と。
レイはひとつ年上の大学生だった。
それまで何度か同じシフトに入ることはあったが、気にかけたことは一度もなかった。ぽっちゃりした体型で、やけに化粧が濃く、見た目としてはとくに興味も関心もひかれない、連絡先を聞き出したいとも思わない、そういう女だった。
「夜中だよ。しかも平日の」
「別にいいよ、見たけりゃ見に来て」
「部屋どこ?」
「沼袋」
「近いじゃん。ひとり暮らし?」
「ひとり暮らし」
「彼氏は?」
「そういうの面倒くさいから、いない」
後輩と顔を見合わせ、その器量でよくそんな台詞吐けるな、と声に出さずに目で笑い合ったのを覚えている。
◇
当時、日本で欧州チャンピオンズリーグの放映権を握っていたのは、WOWOWと地上波のTBSだった。
対戦カードが充実しているのはもちろん、有料放送のWOWOWの方で、その契約者か否かが、欧州サッカーの観戦環境を大きく左右した。
僕にはいちおう、そのとき彼女と呼ぶべき女の子がいたのだけれど、「チャンピオンズリーグが見放題」という話なら、恋人に黙って、あるいは嘘をついて、他の女の部屋に立ち入ることに躊躇などなかった。仲のよい後輩も一緒に行こうと誘ったが、「いや俺、彼女に怒られそうなんでやめときます」とあっさり断られた。
レイの部屋は最寄り駅から二分の五階建てマンションの五階の角部屋で、大学生にしてはずいぶんと贅沢な、1LDKの広めの間取りだった。ドラマに出てくる美人OLが住んでいる部屋みたいだった。
「すげえな、ここでひとり暮らしかよ」
家賃を尋ねると、レイは、親が払ってくれてるからわからない、とはぐらかした。
東北出身の彼女は、どうやら田舎の金持ちの娘であるらしく、毎月頼んでもないのに勝手に送られてくるという高級な米や果物、上等な日本酒が、玄関先に無造作に置かれたダンボールの箱から覗いていた。
僕の暮らす安アパートの部屋の倍はありそうな広いリビングには、やはり大学生のひとり暮らしには不釣り合いなソファセットと、当時ではまだ珍しいブラウン管の巨大なテレビが設置されていた。カーテンの隙間からベランダを覗くと確かに白いアンテナがあり、テレビを点ければちゃんとWOWOWが映った。
「おお、本当にWOWOWだ」
「なに、感激してんの」
「貧乏なサッカーファンは見たくても見れないんだよ」
「その話、店でしてるの何度も聞いていた。可哀想だなーって思ってたんだよね」
「お慈悲に感謝します。まじで見ていいの?」
「ここまで来てダメとかないよね」
「じゃあ、遠慮なく」
テレビに向かって拝むように手を合わせると、レイは、リョウくんて意外と礼儀正しいじゃん、とけらけら笑った。
それから十数試合、僕はそのシーズンのチャンピオンズリーグを、レイの部屋で見せてもらうことになる。
◇
ヨーロッパとは七、八時間の時差があるから、試合のキックオフは常に日本の深夜。
僕がレイの部屋に上がりこむのは、だいたいクローズの時間まで店で働いた後だった。
彼女のマンションの下に自転車をとめてエレベーターで上がり、真夜中なのでチャイムを鳴らすかわりにドアを軽くノックして、開けてくれるのを待つ。
「おー、いらっしゃい」
レイはいつもすっぴんで、風呂上がりの顔をしていた。むき卵みたいなつるつるの白い肌は、さすが東北生まれ、という感じがした。眉毛はほとんどなくて、店で見るのはまったく別人のようだったけれど、化粧をしているときよりもすっぴんの方が可愛げがあるじゃん、と僕は思った。
彼女はパジャマ代わりのスエットのパーカーを着て、髪を頭のてっぺんにまとめていた。薄手のショートパンツを穿いた大きめの尻には、毎度くっきりと下着の線が透けていた。
「お邪魔しまっす」
部屋には彼女の地元の日本酒の他にビールやチューハイの缶も用意されていて、レイはときどき、夕飯の残りだというカレーや角煮などを出してくれた。
キックオフの時間まで、僕とレイは軽く酒を飲みながらだらだらとしゃべって時間をつぶした。彼女は、これ以上太るとあたしやばいっしょ、と言って食べ物は口にせず、かわりにタバコをすぱすぱ吸っていた。
「こないだ、店長がキレてたの見た?」
「らしいね。あたしは見てないけど、板長、ジョッキで殴られたって聞いた」
「あいつやばいよね」
話すことはといえば、バイト先の短気で横暴な店長の悪口とバイト仲間の噂話くらいで、その他にこれといって共通の話題はなかった。
チャンピオンズリーグのアンセムが流れ出すと、レイは「おやすみ」と言ってベッドがある隣の部屋に引っ込んだ。僕はテレビの音量に気を使いながらひとりで静かにサッカーを見て、明け方、彼女を起こさないように静かに帰った。
他人の部屋で真夜中に勝手にサッカーを見る ― 最初のうち、それはなんだか奇妙なサッカー観戦に思えた。いいのかな、と思ったし、悪いな、とも思った。でもそれも数を重ねて慣れてくるうちに考えなくなった。
イルレタ監督率いるデポルティボ・ラコルーニャとミヒャエル・バラックのレバークーゼンが下馬評を覆し、ユベントスとアーセナルを退けて準々決勝まで進んだシーズン。
僕にとっては、サッカーを見るのが一番楽しかった頃だ。というか他に、人生で楽しいことなど何もなかった。
◇
夜中に部屋で女とふたりきりなら、いい雰囲気になって、とか、酔った勢いで、とか、まあいくらでも押し倒したり押し倒されたりするチャンスはあるわけだけれど、僕とレイがすぐにそうなることはなかった。
僕が草食系だったというわけじゃない。レイに性的な魅力をまったく感じなかったというわけでもない。ただ単に、僕の中の損得勘定がそうさせていた。僕にとっての下心は、チャンピオンズリーグを見ることだった。うっかり妙な感情を差し挟んで、サッカーが見れなくなるのだけは避けなければいけない。
むしろ問題は、そのとき付き合っていた恋人の方だった。
ジュンという名の僕の彼女は、いつも同じ曜日の同じ時間帯に僕と連絡がつかなくなることを訝しんで、僕のケータイを盗み見するようになった。そしてレイとのメールのやりとりを証拠として掴まれた僕は、いよいよレイの部屋に通っていることを白状するしかなくなった。
ただ単にサッカーが見たいだけ、といくら説明してもジュンは納得しなかった。
「夜中に他の女の部屋に行くとかあり得ない」
「サッカーのためとか信じられない」
「リョウは私のこと、ホントは好きじゃないんでしょ」
「その女と今すぐ別れて」
いや、別れるも何も浮気も何もしてないんだけど、と言っても、彼女はヒステリックになる一方で、しまいには僕にサッカー禁止令を出すとかふざけたことを言いはじめた。
ジュンは、自分の好意と同じだけの好意が相手から示されないと満足しない、そんなエゴイズムを恋愛の正しさと信じているような女だった。僕はだんだん、言い訳をするのも嘘をつくのも面倒になってきて、何度目かの喧嘩のときに、「そうだね、ホントはもうジュンのこと好きじゃないかも。別れよっか」と言い返した。
するとジュンは突然さめざめと泣き出し、「別れたくないのぉ」などと甘えて僕を困らせるのだった。
「女ってまじで面倒くさい」
僕がそう言うと、
「男だって面倒くさいよ」
レイは乾いた口調でタバコの煙と一緒に吐き出した。
「男って、自分の都合の悪いことはみんな理屈で正当化しようとするから」
「それって俺に向けて毒吐いてる?」
「一般論だよ。でもやっぱ彼女さん、可哀想」
「そう思うなら俺を部屋に入れんなよ」
ジュンに何と言われても、僕はレイの部屋に通うことをやめなかった。
「レイは彼氏作らないの?」
「あたし、執着したりされたりするの、苦手なんだよね。束縛とかもやだし」
「わかる。俺もそう」
その点、レイとは気軽に付き合えた。
僕にとってレイはただの、WOWOWを見せてくれる女、だった。その存在の軽さの心地よさといったらなかった。
当時の僕はよく、女にだらしない、と人から言われた。彼女がいても他の子と遊んだり、恋愛感情なんてなくても平気で女の子の部屋に泊まったりして、そのことを友達に白状すると、きまって非難されたり、咎められたりした。でも二十歳やそこらで女に真面目な方がどうかしている、と僕は思っていた。
好きだとか、愛だとか、もっともらしいことをいくら口にしたって、若いうちは結局、男なんてやりたいだけの生き物じゃないか、と。
僕の女との付き合い方に文句をつける同年代の十九、二十の男たちに、じゃあ、お前は今、付き合ってる彼女と結婚するつもりなの? と聞けば、実際、ほとんどの男は口をつぐむのだ。僕は彼らの正直な気持ちを知っている。「もっとたくさんの女を知りたい。そして今の彼女よりいい女と出会ってから結婚したい」。それが多くの男の本音だ。彼らの顔を見ていれば、僕には手にとるようにわかった。そしてエゴを恋愛という綺麗なものに見せて満足している彼らが、僕にはひどく滑稽に思えた。
◇
そんな僕だが、結局はレイと身体の関係を結ぶことになる。
十二月の半ばは忘年会シーズンのピークで、店は毎日てんてこまいだった。
その夜は大人数の宴会が入っている上にテーブルもカウンターも常に満席で、そんなときに限って他のバイトのメンバーに欠勤が出てしまい、猫の手も借りたいくらいの、まさに目が回るような忙しさだった。サッカーでいえば、二点を追いかけている後半に退場者を出してしまい、チーム全体でいつもの二倍走らされているような、そんな感じだった。
ジュンが見知らぬ男を連れてカウンターに座ったのは、飲み放題をいいことに次から次へと注文を繰り返してバカ騒ぎする大学生がようやく帰り、やっとひと息ついた頃だった。
「来るなら連絡くらいしろよ」
おしぼりとお通しを並べながら彼女の耳元で隣の男に聞こえないように言うと、ジュンは「あ、どうも」とまるで他人のように僕を軽くあしらって、男に身を寄せメニューを広げはじめた。
焼き餅を焼かせたいのかなんなのか、その目的はよくわからなかったが、「別の男に求められている私」を僕に見せつけたいのは明白だった。視線を送っても、ジュンは僕を無視した。そして料理が運ばれると、僕に聞こえるように、「この店、あんま美味しくないよね」と言い放つ。完全ないやがらせだった。
思わぬジュンの来店にイライラし、完全にリズムが狂ってしまった僕は、その夜、ミスを連発した。客のテーブルで料理をこぼしたり、グラスを落として割ったりしただけでなく、大事な宴会客のオーダーミスをやらかしてしまい、店長や厨房の連中をかんかんに怒らせた。
「お前、ふざけてんじゃねえぞ」
閉店後、呼び出された僕は店長からさんざん絞られた挙げ句、ビールジョッキで思いきり頭を殴られた。
その場にはレイもいた。殴られて頭に血が上った僕が店長につかみかかろうとするのを、身体を張って止めてくれたのがレイだった。
「痛えな、警察呼ぶぞてめえ!」
「バイトのくせになんだその口の利き方。お前、もうクビだ。来んな」
「来ねえよ、もう二度と来ねえよこんな店」
啖呵を切って店を飛び出した僕は、レイが仕事を終えるのを店が入っている雑居ビルの入口で待ち、サッカーの試合がないのに、一緒にレイの部屋に帰った。
むしゃくしゃする気持ちをぶつけて楽になる方法はひとつしかなかった。レイとどうかなることは、ビルの前で並んで歩き出したときから決まっていた。
「彼女いるのに、いいの?」
キスをしてから服を脱ぐまでの間に、レイは僕を見上げて二度尋ねた。
「あたし、恨み買うのとか面倒くさくて嫌なんだけど」
「いいよ。どうせあいつとは終わってるから」
レイの肌は柔らかくて心地よかった。ジュンとの関係ではもう得られない、やすらぎのようなものを僕は感じた。
事が終わってから、レイの大きな胸でうとうとしていると、彼女は僕の額にできたたんこぶを指先でそっと撫でた。
「痛くない?」
まだ痛い、と正直に答えると、やさしく唇をつけて、言った。
「サッカーなくても、いつでも来ていいよ」
「うん、でもとりあえず新しいバイト探さなくちゃ」
「あたしもあの店、もう辞めようかな」
「てかレイの場合、実家からの仕送りで十分やってけんだろ」
「まあ、そうなんだけどね」
◇
春になり、チャンピオンズリーグのベスト8が出揃う頃、僕はジュンときっちり別れた。
その頃になるとレイの部屋でのサッカー観戦は、もう当たり前のように身体の関係も込みになっていた。
手作りのつまみで腹を満たしながら女と一緒に酒を飲み、セックスで時間をつぶして、のんびりとキックオフを待つ。男が真夜中にサッカーを見る環境として、これ以上のものはないだろう。
「レイも一緒にサッカー見ない?」
何度か誘ってみたものの、レイはサッカーにはまったく興味を示さなかった。
「せっかくWOWOWに加入しているんだからもったいない」
僕がそう言うと、彼女は、自分の勉強のためにWOWOWを契約しているのだ、と言って、クローゼットに収納した大量の映画の録画テープを見せてくれた。
「あたし、大学で映画の勉強してんの」
「そうなの? 知らなかった。そっちの道に進むの?」
「ううん、普通に就職するけどね。映画監督になりたいって思ってた時期もあったけど、やっぱ、あたしには才能なんてないわ。春になったらスーツ着て就活して、どっかの会社で二、三年働いて、そしたら田舎帰って親の会社に入ることになるんだよね。で、見合いかな」
「もう決まってんだ」
「決まってるよ。面白くもなんともないよね」
「いや、羨ましいよ。確かな未来があるって」
「そんなこと言わないで。あたしはリョウくんが羨ましい。だって自由じゃん」
「自由は自由だけどさ。それ、何もないってことだろ」
「いいじゃん」
「よくねえよ」
◇
そのシーズンのチャンピオンズリーグは、イタリアの凋落が著しく、ローマ、ユベントス、ラツィオといった名門がことごとくリーグ戦で敗退した。ミランやインテルに至っては、出場権さえ持っていなかった。
準決勝には、レアル・マドリード、マンチェスター・ユナイテッド、バルセロナ、レバークーゼンの四チームが駒を進めた。そしてクラシコを制したマドリーと、アウェーゴールの差でユナイテッドを下したレバークーゼンが、決勝のグラスゴー行きを決めた。
五月半ば。
「決勝戦くらい、一緒に見ようよ」
そうしつこくレイを誘ったのは、その試合が終われば、僕にはレイの部屋を訪ねる理由がもうなくなってしまうからだった。決勝戦くらい、というのは、最後くらい、という言葉の置き換えだった。
レイはその夜、ご馳走をすると言って、僕のためにステーキを焼いてくれた。親戚が地元で牧場をやっていて、頼んで送ってもらったというから、かなり高価な肉のようだった。それに合わせて、日本酒ではなくワインが用意されていた。それも、ドイツ産とスペイン産。レバークーゼンとレアル・マドリードの決勝のカードだからと、彼女なりに気を利かせてくれたらしい。彼女にとっても、それは最後の晩餐のつもりらしかった。
キックオフの五分前まで、僕らは奥の部屋のベッドで抱き合っていた。
アンセムが聞こえてきてから僕はむくりと起き上がり、服を着て、彼女の手を引っ張った。
「レイも一緒に見ようよ」
でも彼女は布団の中から出てこようとしなかった。
「来なよ。面白いよ、サッカー」
僕は彼女に覆い被さり、布団を強引にはいだ。
「やめて」
「サッカーがどんなに面白いか、知ってほしいんだよ」
「やだよ」
「何で」
「あたし見ない。だって、見たら、忘れられなくなるじゃん」
彼女の声が揺らいだ。
「もう、WOWOW、今月で解約するもん」
「え…?」
僕が何かを言い返す間もなく、彼女は瞼を強く閉じて顔を枕に押しつけると、肩を震わせはじめた。
「なんで分からないの?」
レイは言葉を絞り出すように言った。
「ねえ、なんで分からないの? あたし、リョウくんのためにWOWOWに入ったんだよ。ずっとリョウくんのこと好きだったんだよ」
ラウールの先制点にも、ルシオの同点ヘッドにも、僕はちっとも興奮できなかった。隣の部屋のレイの様子が気になって仕方がなかった。
チャンピオンズリーグの決勝なのに、まさかこんなに集中できないなんて。残っていたワインをいくら身体に流し込んでも、酔うことさえできなかった。
まだ前半の途中だったけれど、僕はこのまま帰るのがいいかもしれないと思った。
チャンピオンズリーグ見たさだけにこの部屋に通って、さんざんレイに尽くさせて、そして決勝戦まで完全に見尽くして帰るより、せめてこの試合は中途半端なところで帰ってしまった方がいいのではないか。理由もなくそんな気がした。
隣の部屋のドアがすっと静かに開いて、レイがリビングにやってきたのは前半の四十分を少し過ぎたときだった。
「最後くらい、あたしも見るよ」
そう言って、レイは少し笑い、ソファの僕の隣にちょこんと膝を抱いて座った。
「あはは、なんか、どっちの監督も悪そうな顔してる。男が真剣なときって、冷たい、怖い顔してるよね」
オットー・レーハーゲルとデルボスケが順番にアップになる画面を見てレイは言い、誰々みたいだと、僕の知らない外国の俳優の名前を挙げた。
「レイ、ごめんな」
「いいよ、謝らなくて。面倒くさいの嫌だって言ったの、あたしだし」
「…」
「うれしかったよ。リョウくんが部屋に来てくれるの。いつもすごい楽しみに待ってた。ほら、あたしデブだし可愛くないし、リョウくん彼女いるから相手にしてもらえないってわかってたから。今でも、一緒にここにいてくれるだけでうれしいんだ」
僕はテレビ画面のサッカーボールの行方を追いながら、彼女の愛の言葉を聞いた。
左サイドでボールをキープしたロベルト・カルロスが、ボールをもらいに来たソラーリに短いパスを出し、走る。ソラーリがトラップしてすぐ、縦にパスを送る。ディフェンダーと併走するロベルト・カルロスが、ちょこんと左足で突くようにして中途半端な浮き球のパスを中央に入れる。
そのとき不思議なことに、ボールのゆるやかな放物線とともに、目の前の世界までがふわりと浮き上がるようなおかしな感覚がやってきた。ボールが落ちてくるところには、たったひとり、ジネディーヌ・ジダンがフリーで待ち構えていた。
ゆっくりと弓を引くようなモーションに入った背番号5の白い巨人は、まるで時間を止める魔法使いのようだった。
「あ」
レイが短く呟いたその瞬間、ジダンの左足から矢のように放たれたボレーシュートが、レバークーゼンのゴールの左隅に突き刺さった。
時間が再び動き出した。ラウールとモリエンテスが両手を挙げる。ジダンが雄叫びを上げる。白い歓喜の輪ができる。
「すっげ……」
隣で、レイがぶるっと身体を震わせた。
「今のって、すごいんだよね? あたし、よくわかんないけど、今、鳥肌立っちゃった」
「ジダン」
「ジダン? 今の人?」
「うん、ジダン」
「ジダン、か。あたし、リョウくんのことは忘れるけど、この選手だけは覚えとく」
◆
レイとは結局、あの試合が終わって、部屋の玄関で手を振って別れたのが最後になった。
ときどきまた会いたいと思うことはあったけれど、僕からはメールを送りづらかったし、彼女の方からも連絡は来なかった。
あれから二十年近く経とうとしている。
レイは彼女が語った未来の通りに、就職し、田舎に帰り、結婚して、親の事業を継いで、今、幸せに暮らしているのだろうか。
僕はといえば、四十歳になって、未だに独身のままだ。
ときどき、部屋で映画を見たり、映画館に行ったりする度に、僕は大学で映画の勉強をしていたレイのことを思い出す。
映画監督になりたくて、田舎から東京の大学に出てきたレイ。僕のためにわざわざWOWOWに加入して、それをカモフラージュするために映画をビデオに録画しまくっていたレイ。ぽっちゃりした彼女の柔らかい白い肌は、すっぴんの頬を濡らしたあの涙は、学生が住むには贅沢なあの広い部屋は、僕にとってはもう、繰り返し見て覚えた映画のワンシーンのようなものだ。
レイは今もジダンという選手を覚えているだろうか。テレビでサッカーを見る度に、僕を思い出したりするだろうか。
どうしてだろう。僕は思う。僕のことを思い出さなくてもいいから、あの夜一緒に目に焼きつけた、ジダンのスーパーボレーだけは、ずっと忘れないでいて欲しい。
あれは間違いなく、サッカーの最も美しい瞬間のひとつだった。
FOOTBALL SHORT NOVELS COLLECTION :
FOOTBALL AND LOVE SONG
Written by Masashi Fujita
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