#08

マイアミ、一九九六
Miami 1996

読了時間:約10〜15分

 一九九九年七月、ノストラダムスの大予言によると人類が滅亡するという夏の夜。
 
 私はアメリカ・フロリダ州はマイアミのリゾートホテルの一室のトイレで、来たるべくしてやってきた未知の存在に恐れおののいている。
 
「ユリ、大丈夫? 具合でも悪いの?」
 
 ドアの外からユウキの心配する声が聞こえる。ううん、大丈夫。上の空でてきとうに返事をしながら私がじっと見つめているのは、日本を発つとき成田空港のドラッグストアで購入したプラスチックの白いスティック状のものだ。その中央の小窓に、何度見返してもくっきりとはっきりと、疑いようのない赤い線がにじんでいる。
 
 もしかしてと思ったことが、現実として目の前に現れた。
 
 いやでも大丈夫。これは喜ぶべきことのはずだから。大丈夫大丈夫、ほんと大丈夫だから。まずは落ち着こう。彼には帰国してからちゃんと話せばいい。病院で診てもらった後でもいいし。そう自分に言い聞かせて問題のスティックを元の箱にしまっていると、
 
「ねえ、もうそろそろ行かないとだよ」
 
 コンコン。せかすようにドアがノックされた。就職して結婚して、ユウキはいつのまにかせっかちになった。大学時代はもっとおおらかで、些細な時間なんて気にしない人だったのに。私は箱をポーチにしまい、手を洗って白い清潔なタオルで指先をよく拭ってから、鏡の中で何でもない顔をつくってドアを開けた。
 
 ◇
 
「もし日本がブラジルに勝ったら、私と結婚してよ」
 
 そう言って私がユウキにプロポーズしたのは、三年前、一九九六年の夏だった。
 
 一般的にプロポーズというのは男が女に対してするものと決まっているけれど、私の場合は逆だった。条件付きのそれは、プロポーズというのとは少し違うのかもしれない。
 
 そのとき私たちは彼の部屋のベッドの上で、夏の朝を迎えていた。
 
 比較的目覚めのよい私と違って、低血圧のユウキは寝起きがすこぶる悪い。
 
「ほら、ブラジル戦だよ、起きなよ。昨日、一緒に見ようって言ってたじゃん」
 
 カーテンの隙間から射し込む強烈な日差しを避けるようにもぞもぞと半裸の身体を動かしながら、んん、俺やっぱいいよ後半からにするわ、とむにゃむにゃ抵抗する彼の肩を叩き、揺すり、タオルケットをはぎ取り、
 
「何が何でも起こせって言ったくせに。どうせ負けるから見なくていいやって思ってるでしょ、勝つかもしんないよ」
「勝たねえよ」
「わかんないよ、そんなの」
 
 と口にした流れで、私は思いきって、じゃあさ、と切り出したのだ。
 
「は。今なんつった」
「だから、もし日本がブラジルに勝ったら、私と結婚してよ」
 
 数秒間の沈黙の後、意味わかんねえ、と呟きながら起き上がったユウキは、ただの冗談と受け取ったのか、私の顔をじっと見つめ、あっさり、いいよ、と答えた。
 
「え、まじで? 約束だよ」
「うん、日本が勝ったらね」
「いえーい」
 
 バカっぽくひとりで盛り上がりながら、私の胸はドキドキした。
 
 いや違う。ドキドキするようなふりをして、本当はずきずき痛んでいた。ユウキの余裕たっぷりの笑顔は、そんなことありえない、と拒絶するのとほとんど同じだったから。いえーいの流れでリモコンに手を伸ばしてテレビを点けると、ちょうどキックオフの直前だった。
 
 ◇
 
 大学最後の夏休みがはじまってからの毎日を、私はユウキの部屋に入り浸ってだらだらと過ごしていた。深夜番組を見ながら夜更かしをして、当たり前のように朝寝坊。自堕落を絵に描いたような生活だった。私たちを束縛するのはお互いのアルバイトのシフトの時間くらいで、それは大学生にしかできない優雅で自由な暮らしでもあった。
 
 とはいえ、いつまでもそんなふうに無目的に生きていられないことは私にだってわかっていた。四年の夏といえば、すでに企業から内定をもらっている者も少なくない。なのに私はいくら希望の会社にエントリーしてもちっとも最終面接までたどり着かず、それどころか大学を卒業するのに必要な授業の単位すら不十分な状況だった。男の部屋でのんきにサッカーを見ている余裕など本当はなかった。
 
 田舎の母親から電話がかかってきたのは、夏休みに入る少し前だった。
 
 お盆の帰省の予定について話した後、就活のことを訊かれた。つい不機嫌になっていい加減な返事をしていると、
 
「じゃあ、卒業したらうちに帰ってくればいいじゃない」
 
 と母は言った。おそらく事前にその台詞を用意していたのだろう、今なら知り合いが役員をやっている地元の菓子工場で働き口を紹介してもらえるかもしれない、もしそれがだめでも親戚の乾物屋が新しい子を探していると、母は早口で続けた。
 
「ほら、慎太郎おじさんとこの栄子ちゃん、結婚してお店やめるらしいのよ」
「え、それってただのバイトでしょ」
「まあ平たくいえばそうだけど」
「私、いちおう大卒の予定なんだけど」
 
 冗談じゃない。就活に失敗して地元の親戚の店でアルバイトだなんて、いくらなんでもださ過ぎる。地元の友達にあわせる顔がない。
 
 一年前なら確実にそう思った。でも三十にも及ぶ会社の採用試験を受けてすべて不採用になった後では、それもありかもしれないという考えが頭をもたげた。働き口がある。そう言われただけで少しほっとしたのは事実だった。
 
「んー、お盆までに決めておくよ」
 
 私は曖昧な返事をして電話を切った。
 
 ◇
 
 アトランタオリンピック、男子サッカーグループリーグD組の第一戦。
 
 会場はマイアミ・オレンジボウル。普段はアメリカンフットボールが行われているという巨大なスタジアムのスタンドは、ほとんどが優勝候補ブラジルを応援する観客で埋め尽くされていた。
 
 日本代表のメンバーは半分以上が私の知らない選手だった。中田、前園、城、あとゴールキーパーの川口はわかる。でもカズや井原、中山といったお馴染みの選手は見当たらなかった。私たちは寝起きの恰好のままベッドの縁に並んで腰掛け、14型の小さな真四角のテレビを睨むようにじっと見つめた。
 
「もしかして日本って二軍なの?」
「違う、五輪代表。年齢制限があんだよ。みんな二三歳以下」
「あ、そうなんだ。ブラジルも?」
「いや、ブラジルはオーバーエイジ使ってっから、すげえ上手いのがいる」
「なにそれ、ズルくない?」
「ルールだから」
 
 試合がはじまると、鮮やかなカナリア色のシャツを着たブラジルの選手たちがボールを回し、日本の選手たちがそれを追いかける、そんな展開が続いた。
 
 私はサッカーのことは全然詳しくないけれど、「世界最強」だというブラジルの攻撃を日本の選手たちはしっかり身体を張って食い止めているように感じた。実況のアナウンサーも、ここまでは互角です、と真面目な声で言う。
 
「日本、けっこうやるじゃん。ハーフタイムにゼクシイ買ってこようかな」
「いや、サッカーは九〇分だから」
「でもブラジルまだ点入れてないし、シュートもみんな止めてるよ」
「ブラジル、まだ本気じゃないから」
 
 すげなく言い返されて、私はまた少し胸を痛めた。
 
 ◇
 
 前の晩、私たちはふたりで映画を観に行った。公開されたばかりの『ミッション・インポッシブル』。ユウキはすげえ面白かったと興奮していたけれど、私はストーリーがいまいち理解できず、うんそうだね、と生返事するしかなかった。他に感想らしきものといえば、トム・クルーズの宙吊りすごいね、と、最終的にジャン・レノは悪い奴だったんだね、くらいしか思いつかなかった。
 
 映画の後、ユウキはアルバイトに出かけた。週に三、四回、彼はパブのホールスタッフをしている。パブといっても英国紳士が静かにグラスを傾けるようなところではなく、若い男と女がフィッシュ・アンド・チップスとビールを餌にして出会いの場として使うような、賑やかで騒々しいフランチャイズの店だ。
 
 私はユウキからアパートの鍵を受け取って、彼の部屋にひとりで帰った。耳にこびりついたあの映画のテーマ曲を何度も頭の中で繰り返しながら、冷蔵庫の材料でひとり分の簡単な夕飯を作り、テレビを点けてひとりで食べた。
 
 ニュースではアトランタオリンピックの特集が組まれ、「日本時間の明日、朝、サッカーのブラジル戦がキックオフ!」とスポーツコーナーのキャスターがさかんに喧伝していた。
 
 そうか、もうオリンピックがはじまったのか。でもアトランタという都市がアメリカのどこにあるか私はよく知らない。マイアミもまたしかり。相変わらずバカだなあ。大学四年にもなってこれなのだ。やはり東京で就職なんかせず、実家に帰って親戚の店でバイトするのがいちばん正しいのかもしれない。そんなことを考えながら箸を動かし、私はひどく情けない気持ちになった。
 
 私がユウキの部屋に入り浸るのは、彼を他の女にとられたくないからだ。
 
 ユウキには私の他に何人も女がいた。知っているだけで大学に三人、そしてバイト先にひとり。でもその中に、私も含めて本命はいない。ユウキはそういう男なのだ。顔がいいからとりあえずモテる。そしてモテることを当たり前だと思っている。その上で、誰に対してもとりあえずやさしい。寄ってくる女を邪険にしない。ただし、女が束縛をはじめた途端にユウキは態度を硬化させる。だからそばにいることはできても、誰も本気で彼と付き合うことができない。
 
 ユウキが部屋に帰ってきたのは深夜の遅い時間だった。店で仕事をしてきただけのはずなのに、彼はずいぶんと酔っ払っていた。上気した顔で部屋に入ってくるなり、いつものように、ただいまーと言って機嫌よく私を抱きしめた。おかえりー。求められるまま彼の背中に腕を回すと、汗ばんだTシャツからは安い香水の匂いがした。誰と会ってきたのかな。そう思う間に、そのままベッドの上に押し倒される。
 
「ユウキ、遅かったね。しかも飲んでるし」
「しょうがないんだよ、客に勧められたら飲むのも仕事のうちだからさー」
「明日、サッカーのブラジル戦だって。見る?」
「当たり前じゃん。一緒に見よ。絶対起こして」
 
 ブラジル戦だよ、見ないわけにいかないでしょ、とごちょごちょ言いながら、ユウキは私の寝間着がわりのノースリーブを脱がしはじめた。抵抗しようかどうしようかためらっているうちに、下着の隙間に指が差しこまれる。
 
「ユウキ、そういう気分なの?」
「そういう気分なの」
 
 私はされるがままだ。なんでこんな男を好きになってしまったんだろう。でも好きになってしまった以上、私は便利な存在となって、彼にしがみつくしかなかった。
 
「ロベカル、まじですげえよ。リバウドもいるし。ああ、あと…」
 
 私の身体をいつもの手順でまさぐりながら、ユウキはサッカー選手の名前をうわごとのように繰り返した。
 
「ちょっと、こういうときは集中してよ」
「あ、悪い」
 
 裸のままユウキの背中にくっついて眠り、夜中に汗をかいて目を覚ました。
 
 彼を起こさないようそっとベッドから抜け出し、軽くシャワーを浴びてから、床の上で脱皮した昆虫の殻みたいになっていた服を身につけ、また彼の横に戻った。
 
 私の男なのに、私だけの男ではない男。月明かりの下、だらしなく口を開けて眠っているユウキの寝顔を見下ろして、私は母との会話を思い出した。お盆までには卒業後のことを決めなくちゃいけない。実家のある郷里の町に帰るか、それともこのまま東京で暮らし続けるか。
 
 東京を選ぶとしたら、就職先も決まっていない今、その理由となりえるのはユウキの存在以外になかった。ユウキと一緒にいられるなら、私は無職でもこの場所にしがみつきたい。一生バイト暮らしでもいい。でもそれをどうやって実家の両親に説明しよう。彼氏でもない男と同棲するために働き口の紹介を断る。そんなこと、認めてもらえるわけがない。
 
 ああ、ユウキとちゃんとした恋人同士になりたい。他の女にユウキのことをあきらめさせたい。誰からも認めてもらえる関係を築きたい。でもどうやって。
 
「私と結婚してよ」
 
 そんな台詞がうわごとのように頭に浮かんだ。私は夜が明けるまでずっとそのことを考えた。どうしたらそんな奇跡を起こせるだろう。
 
 ◇
 
 前半が終わって両チームとも無得点。ブラジルの攻撃を日本はよく耐えていた。
 
 それでもテレビの画面に映るスタンドのブラジルサポーターは、まだ楽観的なムードに包まれていた。とりあえずここまではハンデだ、といでもいうような。日本もやるじゃないか、というような。
 
 ところが後半も十分、十五分と経過するうちに、次第にざわざわとした苛立ちや焦りが歓声の中に混じりはじめた。いくらブラジルがゴール前に攻め込んでもシュートはゴールの枠の外に逸れるか、あるいは川口がキャッチするか。点が入りそうなのに、実際はちっとも入らない。ロベルト・カルロス、ジュニーニョ、ベベット、リバウド、ロナウジーニョ。実況が何度も何度も繰り返すので、ブラジルの選手の名前が勝手に私の頭の中にインプットされ定着していく。
 
 私もまた、日本を応援しているはずなのに妙な焦燥感に駆られていた。引き分けの場合も条件に入れておけばよかった。日本が勝ったら、ではなくて、日本がブラジルに負けなかったら。それだったら、このままいけば東京でユウキとずっと一緒にいられるかもしれない。
 
 圧倒的に攻め込みながら得点を奪えないことにしびれを切らしたのか、ブラジルのサポーターらしき黄色のシャツを着た長髪の男が観客席からピッチに乱入して、関係者や警備員に取り押さえられた。まるで強盗かテロリストを拘束するような手荒なアクション劇に、「はは、プロレスみてえだ」とユウキが笑った。
 
「日本、頑張ってるね」
「いやほんと、すげえ頑張ってるよ」
 
 ユウキは目を輝かせ、興奮を隠しきれない調子で続けた。
 
「いやーこれ、一点取ったらもしかしたら勝てるかもしれない」
 
 私がどう思うかなんてまるで考えていないのだろう。平気でそんなことを言う。この人はそういう男だ。ねえ、わかってる? さっき約束したんだよ、日本が勝っちゃったら、ユウキは私と結婚しなきゃいけないんだよ。いいの? 日本、勝っちゃっていいの? そう言いたいのに、私の唇は動かない。え、冗談でしょ、あれ。そんなふうに切り返されるのが怖い。かなしい。痛い。つらい。
 
 試合が再開されたとき、まあそれでもいいか、と私は思うことにした。まだ大学生のくせに結婚なんて条件を押しつけて、そのせいでハラハラしちゃって、バカみたいだ。付き合ってもいないのに、愛されている実感すらないのに、いきなり結婚って。ああ恥ずかしい。さっさとブラジルがゴールを決めて、何もなかったことになればいい。と。
 
 私は自分の気持ちを落ち着かせるために立ち上がり、台所のやかんに水を注いでそれをガスコンロの火にかけた。
 
「コーヒー飲むけど、ユウキもいる?」
「ああうん、サンキュ」
 
 流しに出ていたマグカップをふたつさっと水で洗い、インスタントコーヒーの瓶にスプーンをつっこんだ、そのときだった。
 
「おおっ」
 
 ユウキが前のめりな声をあげた。反射的にテレビの方を振り向くと、ゴールに向かってボールがぽーんと跳ねていた。それがどちら側のゴールかはわからなかった。なぜゴールの前にゴールキーパーがいないのかもわからなかった。
 
 え、何が起こったの。そう思う間もなく、青いシャツを着た日本の選手がボールに追いつく。そしてそれをゴールに蹴り込んだ。ものすごい歓声。
 
「え、日本?」
「うわあ、点、取っちゃったよ。ブラジルから点、取っちゃったよ」
 
 それから後半のロスタイムまで、一度やかんの火を止めに立ち上がったきり、私はテレビの前でずっと固まっていた。ユウキも口を開かなかった。ブラジルの猛攻、川口のセーブ、ゴールポスト、過ぎていく時間。エアコンをつけているのに、手のひらには汗がにじんでいた。実況アナウンサーも解説者も、ときどき画面に映るベンチの監督やコーチや控えの選手もみんな興奮している。スタジアムは異様な空気に包まれていた。
 
 ホイッスルが鳴ったときの気持ちは、正直言って微妙だった。
 
「オレンジボウルに、日本のサッカー、奇跡を起こしました!」
 
 アナウンサーが掠れた声で叫んだ。スタンドで日の丸が揺れていた。でも私は喜んでいいのかそうでないのかわからない。ただ、日本がブラジルに勝ったという事実だけが目の前にあった。それは奇跡に違いなかった。
 
「日本、すげえ。ブラジルに勝っちゃったよ」ようやくユウキが口を開いて、
「勝っちゃったね」と私も繰り返した。
「勝っちゃった。すげえもん見ちゃった」
 
 あははは。私たちは笑うしかなかった。
 
 ◇
 
 ユウキは女たらしのひどい男だけれど、約束は守る男だった。
 
 夏休みが終わってユウキが先に就職の内定をもらい、秋が深まる頃になって私もようやく、一社、内定が決まった。
 
 大学の卒業を間近に控えたその年の冬、私の帰省に合わせて雪深い田舎町にやってきたユウキは、菓子折持参で私の実家を訪れ、私の両親にきちんと挨拶をしてくれた。
 
 私の家族も喜んで彼を受け入れた。そしてその三年後にあたる今年、私たちは春に東京のホテルでささやかな式を挙げた。本当に、私たちは結婚したのだ。
 
 新婚旅行はお互いの有給休暇を合わせて夏にアメリカへ、ということになった。
 
「やっぱりオレンジボウル詣でっていうか、オレンジボウル参りっていうか、した方がいいんじゃん」
「お礼参り的な?」
「そうそう。縁結びの」
 
 ユウキはそう言って、嬉しそうにてきぱきと旅行の段取りをつけてくれた。ガイドブックを見せられてはじめて、私はマイアミがフロリダ州の南端にあることを知った。
 
 昨日、私たちは実際にオレンジボウルを見学に行った。それは想像していたよりずいぶん大きくて、そして全体的に古っぽいスタジアムだった。「MIAMI ORANGE BOWL」という文字の雰囲気が、なんとなくアメリカ映画っぽかった。
 
 外周をふたりでぐるっと回って、タクシーの運転手に記念写真を撮ってもらった。
 
「ロベカルもリバウドもロナウドもこの中にいたんだなあ」
「あ、私その名前みんな覚えてる」
「当時は確か、ロナウドじゃなくてロナウジーニョって言ってたけどね」
 
 ユウキは旅の目的を達成できて、すっきりした様子だった。でも私はスタジアムとマイアミの真っ青な空を見上げてとてもかなしい気持になった。
 
 あんな約束なんて、しなければよかった。
 
 ユウキが私と結婚したのは、ここで日本がブラジルに勝ったからだ。もしも負けていたら、引き分けだったら、ユウキは私と結婚なんてしなかっただろう。きっと私はユウキにとうに捨てられている。私が今ユウキの隣にいられる理由—それは不慮の事故みたいな後半二十七分のあのゴールであって、愛情ではない。
 
 成田空港を飛び立ってから、私は何度もそのことを考えている。ユウキは本当にこれでいいのだろうか。彼にとっての結婚は、サッカーの試合の結果で呆気なく決めちゃうような、その程度のものでしかないのだ。そんな結婚が幸せだろうか。
 
 ◇
 
 旅行の最終日の夕食は、ホテルの地上階にある、ベイサイドの夜景が見渡せるレストランを予約していた。海からの風が生ぬるい。デッキ席でユウキと向き合い、名物だというポンチカクテルで乾杯して、順番に運ばれる小皿料理をふたりでつまんでいく。
 
 私はアルコールを控えて、乾杯のグラスは軽く口をつけたきりにした。ユウキはぐびぐびとカクテルを飲み干し、ウエイターを呼んでビールを頼んだ。私もついでに拙い英語でフルーツジュースを。
 
「あれ? 酒じゃないの? 今日で最後なんだから飲みなよ」
「ううん、やめとく」
 
 ウエイターが去ると、ユウキが私の顔を覗きこんで首を傾げた。
 
「ユリ、大丈夫?」
「え、何が」
「なんかさっきからおかしいよ。どうした?」
 
 訊かれたことには正直に答えるべきだろうか。私は手にしていたフォークを小皿の上に戻し、背筋を伸ばして真っ正面からユウキの目を見て言った。
 
「ユウキ、約束守ってくれてありがとう」
「約束?」
「結婚の約束」
「ああ」
「守ってくれて、本当にありがとう」
 
 繰り返し言葉にしたら、鼻の奥がつんとして、我慢しようと思う間もなく涙が出てきた。やっぱりかなしかった。恋とか愛とか、どうしようもない熱い想いとか、そういうものじゃなくて、私たちの結婚は、「約束」だった。口に出したらはっきりとした。
 
「え、ちょっとどうしたの。泣かないでよ」
 
 本当にこのままユウキと家族になっていいんだろうか。私もユウキも、幸せになれるんだろうか。引き返すなら、きっと今しかない。
 
「ユリ、なんか怒ってる? 俺、悪いことしたかな」
「怒ってない。でも、戸惑ってる。後悔してる」
「後悔? 何を」
「何だっけ、あの人」
「誰」
「ブラジルの」
「は?」
「キーパーとぶつかった人。あう、あう…」
「ああ、アウダイール」
「そう、アウダイール。アウダイールがもしあそこでキーパーとぶつかってなかったら、点が入ってなかったら、ロベルト・カルロスのフリーキックが決まってたら、ベベットのシュートが…」
「ユリ、誤解しないで欲しいんだけど」
 
 ユウキは少し怒ったような顔で私の言葉を遮った。そして、なあんだ、という感じで肩の力を抜き、眉を八の字にして、私と同じようにフォークを皿に置いた。
 
「約束だから結婚したよ。日本がブラジルに勝ったらってユリが言ったから」
「うん」
「だけど、俺、約束したからしょうがなく結婚したんじゃないよ」
「…」
「ユリと一緒にいるの楽しいから、ユリとならずっと一緒にいたいと思ってたから、だから結婚したんじゃん。今もそうだよ」
「本当?」
「あの約束は、なんつうか渡りに舟、っていうか。てか、誰がサッカーの結果で人生決めるよ。サッカー選手でもないのに。だいたい約束させたのそっちじゃん」
 
 ◇
 
 夕食を終え、レストランを出てから、ふたりで手をつないでベイサイドを歩いた。ようやく、誰のものでもなかったユウキが私のものになった。そう思うと、いつまでもこうして手をつないでいたかった。
 
 ホテルの部屋に戻るエレベーターの中で、私はユウキに伝えた。
 
「赤ちゃん、できたみたい」
 
 一瞬きょとんとした顔になったユウキは、次の瞬間、え、まじで? と言って私の身体を抱きしめた。やった。すげえ。まじか。そう言って私の後ろ頭をシャンプーするみたいにわしゃわしゃと撫でまわす。まるであの朝、マイアミのピッチの上で日本の選手たちが仲間と抱き合っていたように。
 
「名前、男だったらテルヨシにしようぜ」
「え、やだよ」
「じゃあアキラ」
「誰それ」
「西野だよ。監督」
「やめて。もうサッカーやめて」
 
 言いながら、私はようやくあのゴールを喜べる、そんな気がした。

FOOTBALL SHORT NOVELS COLLECTION :
FOOTBALL AND LOVE SONG
Written by Masashi Fujita

memo

マイアミの奇跡のとき、僕は高校1年生でした。むちゃくちゃ興奮しました。ブラジルに勝てるわけがない。100%そう思っていたから。当時のブラジル五輪代表のメンバーは、リバウド、ベベット、ロベルト・カルロスなど本当に錚々たる面子で、リザーブには若き日の怪物・ロナウドが控えていました。事故のようなゴールとはいえ、ゴールはゴールです。どんなかたちでも。あの日、どれだけの人が、希望的観測ではなく「日本がブラジルに勝つ」と予想していただろう。そう思ったときに、この話を思いつきました。奇跡が起きたとき、誰かにとってもうひとつの別の奇跡が起こっていたら、と。