#10

ロストフ / トーキョー
Rostov / Tokyo

読了時間:約10〜15分

 二〇一八年七月三日は、くるみの十九歳の誕生日だった。
 
 その年の春、山奥の小さな町から逃げるように東京に出て短期のアルバイトを転々としながらなんとか食いつないでいたものの、いよいよお金に困った十八歳の彼女は、前の週に渋谷の古いマンションの一室で、ある面接を受けていた。
 
 給料はその日払い。交通費支給。シフトは都合に合わせて自由に設定可能。そのお店では、例えばホテルの部屋で一時間お客さんの相手をすると、それだけで七千円を稼げるという。深夜であればさらに千円がプラスされて時給は八千円にアップする。
 
 うちは本番NGだし、やりたくないことはやらなくていいからさ。不健康そうな青白い顔の店長が、くるみの全身を舐め回すように見つめながら言った。
 
 じゃあ採用ってことで。で、君いつから入れる?
 
 ◇
 
 日付の変わった平日の深夜だというのに、たくさんの人たちがおもてを歩いている。
 
 明かりが消えない。夜が終わらない。唾を吐くようにぺっとクラクションを鳴らした高級車が、路肩に急停車したタクシーを勢いよく追い越していく。歩道でギターケースを担いだ若者が忌々しげにその車を睨みつけ、一緒にいた女をタクシーに押し込む。フィルムの貼られた窓越しに、くるみはそんな渋谷の街を眺めている。
 
「もう夏だよ。暑くね?」
 
 黒いワンボックスカーの運転席から、金髪の男がミラー越しに話しかけてきた。
 
 くるみは、別に、と声に出さず口を動かしながら、何気ない仕草で長袖のカットソーの袖を左右とも手のひらまで引っ張り、それをスカートのプリーツの襞に隠すように内腿に挟みこんだ。くるみの左の手首には、色素の薄いヘアラインのような細かな線状の傷跡がある。人に気づかれるのが怖くて、あるいは逆に気づいて欲しがっていると勘違いされるのが悔しくて、くるみは夏でもできるだけ長袖を着るようにしている。これをきれい消すためにも、お金は必要なのである。
 
「三〇五、佐藤さん。一二〇分で、オプションなし」
 
 ハザードランプを点滅させてホテルの正面に車を寄せると、金髪の男は前を向いたまま茶封筒の挟まれた透明のファイルを後ろに投げて寄こした。
 
「佐藤ってリピさん? てか佐藤って多すぎてどの佐藤かわかんねーよな。もっと個性的な偽名使えや。あ、ちげーわ、自分、初出勤だったっけ」ぶつぶつ言いながら耳のシルバーのピアスを揺らして振り向くその男の細い目が、少しだけ洋佑に似ているような気がして、くるみはどきっとする。
 
「じゃあ頑張って」
 
 男が笑顔に見せたのと同時に、車のスライドドアがうぃぃんとゆっくり開いた。
 
 ◇
 
 例えば死ぬことに比べたら、こんなの全然たいしたことない。
 
 くるみは自分に言い聞かせながら、ホテルの狭いエントランスを抜け、突き当たりにあるエレベーターのボタンを押した。強がってはみても、しかし指先は細かく震えている。
 
 はじめての客である。いったいどんなことを要求されるのだろう。何をされるのだろう。変態、おっさん、汚い身体、とても口にできないおぞましい行為の数々。数分後に訪れる最悪な場面を想像して、くるみは今すぐこの場から逃げ出したい気分だ。鏡面になっているエレベーターの重い扉から目をそらす。初出勤だからという理由で少しいい服を選んで着てきた自分が急にみじめに感じられた。リサイクルショップで買った、どうでもいい安い服で来ればよかった。
 
 何もできない私が東京で生きるって、結局こういうことなんだよな。そんなことを思ったとき、ちんと旧式の音を鳴らして目の前のエレベーターが開いた。
 
 ◇
 
 三〇五。
 部屋番号を確かめて控えめなノックをすると、少し待たされてから、がちゃり、とドアが開いた。部屋の内側には当然のことだが、男が立っていた。男がくるみを見下ろす。
 
「はじめまして、アヤノです。よろしくお願いします」
 
 挨拶をしながら、くるみも男を見上げる。
 丸顔に黒目がちの瞳。黒縁の眼鏡。きれいに切り揃えられた短い髪。清潔そうな白いシャツ  普通の人じゃん。それが率直な印象だった、毎朝駅ですれ違っていても記憶に残らないような、どこにでもいる感じの、真面目そうな会社員風の男。年齢はひとまわり上くらいだろうか。若いといえば若いし、そうでもないといえばそうでもない。とりあえず不潔で気持ち悪いおっさんではないことに、くるみは少しだけ胸をなで下ろした。
 
 どもども、よろしく。男がそう言ってさっさと部屋の中に入っていくので、くるみもパンプスを脱いで揃え、おずおずと続いた。
 
 ラブホテルの部屋のつくりは、田舎も都会もそう変わりがない。大きなキングサイズのベッドと、焦げ跡のついた安っぽい小ぶりの合皮のソファセット。テーブルの上には灰皿とライター。カラオケの分厚い本。天井は鏡張りだが、掃除が行き届いていないのか、反射している部屋の景色は鈍く曇っている。
 
 くるみは店から指導されたとおりにコースと料金を告げ、先に支払いを済ませてもらった。受け取った現金を封筒に収め、スマホで店にワンコールを残す。
 
「飲む?」
 
 財布をしまった男が冷蔵庫からビールの缶を二本取り出してテーブルの上に置いた。
 
「あ、いえ、私、未成年なんで」
 くるみが遠慮すると、
「そうだよね、プロフィールに(18)って書いてあったもんね」
 男は軽く頬笑んだ。それがやはり普通の人の普通の顔であることにくるみは安心する。
 
「じゃあ悪いけど、俺だけいただきます」
「あ、どうぞ」
 
 男は、ぷしゅ、と音を立てて缶のプルタブを開け、ごくごくと喉を鳴らした。缶を持つ左手の薬指で、指輪が当たり前のように鈍く光っている。
 
 えっと、支払いの後はアラームをセットして、少し世間話をして、服を脱いで、シャワーに行くんだよね。その流れを頭の中で確かめながら、世間話っていったい何を話せばいいんだろうとくるみが考えていると、男がベッドの上にごろりと横になり、シーツをぽんぽんと軽く手のひらでたたいた。ここに来い、ということらしい。
 
「失礼します」
 
 そう言いながら見た目の割に薄っぺらいマットレスの上にくるみが膝をのせると、「ベルギー戦だよ」と男が言った。
 
 見ればベッドの真正面の壁面に大型のテレビが埋め込まれている。緊張のあまり、くるみは部屋に入ってからその画面がずっと点けっぱなしであることに気づかなかった。サッカーの青いシャツを着た男たちが横一列に並んでいる。君が代が流れている。歌う人、歌わない人、微妙に口を開けたり閉じたりしている人。
 
「あ、ワールドカップ」
「そう、一緒に見ようよ」
 
 ◇
 
 いつになったらシャワーに行くのだろう。
 そればかりを気にしながら、くるみは服を着たまま男の隣で横になり、言われたとおりにサッカーを見ている。試合の前半がもうすぐ終わろうとしている。
 
 日本代表がワールドカップのグループリーグを突破したことは、世の中の出来事にまったく興味のないくるみでも知っていた。香川とか長友とか、有名な数人の選手の顔と名前も。でもわざわざ夜中に試合を見ようとは思わない。
 
 ときどき天井に視線をやると、見知らぬ男とふたりきりでサッカーを見ている自分が自分を見上げて(見下ろして)いるというそのシチュエーションがあまりに奇妙で、くるみは現実感を失いそうになる。そういえば洋佑はサッカーが好きだったよな、と思い出して、彼も今どこかでこの試合を見ているだろうかと、くるみはそんなことを考えた。
 
 前半が終わって、両チームとも無得点。点の入らないサッカーなんて、何が面白いのかわからない。
 
「いやー、頑張ってるね、日本」
 
 男は大きく息を吐き、横になったままぴんと背伸びをした。ベッドが狭いのか男の背が高いのか、ごつごつとした足の指がベッドからはみ出す。
 
「ベルギーだぜ、相手は」
「ベルギーって強いんですか」
 
 何も答えないのも悪いと思ってそんな間の抜けた質問をしたら、いきなり唇にキスをされた。それもねっとりとしたやつを。ん、と反射的に拒む体勢を取ったくるみだったが、いやこれが私の今の仕事だ、これが時給八千円の仕事だ、と思い直し、覚悟を決めてそれに応じた。男の口から、歯磨き粉とビールの苦さが混じった不思議な味が移動してくる。
 
「ベルギーは強いよ。サッカー、好き?」
 
 唇を離すと、男は何事もなかったような顔で答えて、くるみに訊ねた。
 
「いや、別に。そんなでもないです。嫌いじゃないけど」
「じゃあ、今日のスタメンの中なら誰が好き? 柴崎? 乾?」
 
 うーん、顔と名前が一致しないからそんなこと言われてもすぐには答えられない、そう思いながらくるみが前半ハイライトの画面をじっと睨みつけていると、俺はショージ、と男はなぜか嬉しそうに言った。こいつすげえ頑張ってるよ。
 
「じゃあ、私もショージ」
「なんだよ、私も、って。主体性ないな」
「あの、ところでシャワーとか行かなくていいんですか」
「行きたい?」
「いや、行きたいっていうか、そういう決まりみたいなんで」
 
 このままキスの延長で男の身体に触れるのは、さすがに抵抗があった。
 
「先にシャワー浴びてから一緒に見ませんか」
「いや、いいよ」
「でも」
「俺さ、今日一緒にベルギー戦見てくれる人が欲しかっただけなんだよね。それで呼んだの。サッカー見て、ちょっとキスして、できたら一緒にビール飲んで、みたいな。だからこのままでいようよ。その気もないし、何もサービスしなくていいから」
 
 くるみは面接のときに店長から、いろんなお客さんがいるからケースバイケースでよろしく、と言われた。いろんな、という曖昧な言葉が指し示すのはつまり、客の変態加減とかフェチズム的なことだと勝手に思い込んでいたけれど、なるほど、こういうケースもあるのか。拍子抜けするとともに、くるみはひどく安堵した。
 
「じゃああの、もしその気になりそうだったら、シャワー浴びる決まりになってるんで、そのときは言ってください」
 
 いつのまにか七分丈の長さにめくれあがっていたカットソーの袖を直しながらくるみが言うと、寒がっていると勘違いしたのか、あ、冷房弱めようか? と言って男は立ち上がり、ぴぴぴとエアコンのリモコンを操作した。
 
「寒かったら風呂でも入ってくれば。ええと、アヤノちゃん、だっけ」
「あ、はい」
「後半十五分くらいまでに戻ってきてくれればいいよ」
「はあ」
「あ、でもせっかくだから服はここで脱いでね」
 
 別に風呂になど入りたくはなかったけれど、ひとりきりになってしばらく時間を稼げるのならそっちの方がましかと思い、くるみは立ち上がってバスルームのドアを開け、給湯のボタンを押した。
 
 部屋に戻り、手首の傷が目立たないよう、スポットライトの当たらない暗がりで言われたとおりに服を脱ぐ。スカートを床に落とし、ブラジャーのホックをはずし、ショーツに指をかけたところで、男はくるみの裸体をじっと眺めながら言った。
 
「俺さあ、できないんだよね」
「え」
 
 ショーツから尻を突き出した格好で、くるみは男の方を振り向く。
 
「できない身体なんだよ。サッカー好きだから恋人と一緒にサッカー見るとか憧れるんだけど、この身体じゃそもそも彼女作れないからさ。でもワールドカップじゃん。しかも決勝トーナメントじゃん。だから」
「…」
「ごめんね、こんな退屈な客で」
「いえ、そんな」
「でもラクでいいでしょ。あー、オプションで代表ユニのコスプレとかあればよかったのに。店長に言っといてよ」
 
 ◇
 
 ひとりで入るには大き過ぎる円形のバスタブの中で短い脚を伸ばし、くるみは左の手首をそっと擦る。湯をかけ、また擦り、また湯をかけ、擦り。こうしているうちに傷が消えないかな、なんてもう何十回も思ったことをまた思う。
 
 高校生の一時期、くるみはずっと死ぬことを考えていた。別に不幸な境遇にあったわけじゃない。むしろ、どちらかといえば恵まれている家庭環境の中で、家族に愛されてぬくぬくと育ってきた。父親も母親も普通の両親だし、姉と弟もずっと一緒だった。
 
 でも、くるみはときどきひどく淋しかった。淋しくて淋しくてどうしようもなかった。そんなとき、くるみはときどき手首にカッターの刃をあてた。
 
 くるみの初体験は高校二年の冬だった。相手は親友の彼氏だった。そんな気などなかったのに、ある日、お前本当は俺のこと好きだろ、と強引に押し倒された。彼女がいるくせに、なんて最低なやつ。そう思いながら、でもくるみはその男を受け入れた。そして本当にその男のことを好きになってしまった。
 
 親友の子に秘密でしばらくこっそりと付き合った。ばれないように一時間も自転車をこいで隣町のラブホテルで落ち合ったりした。でもあっけなくばれた。くるみの裏切りを、その友達は許してくれなかった。彼女とは高校に入学したときからずっと一緒に学校に通っていた仲だった。くるみがその男  洋佑に押し倒されるまでは、お互いに自分のことを何でも正直に話し合えた。たくさんの秘密を打ち明け合った。どんなふうに彼女が洋佑に告白して、どんなふうに初体験を済ませたかも、くるみはみんな知っていた。
 
 彼女はくるみと比べて少し不細工だった。くるみの方が  どちらかというと、という程度だが  男好きのする顔立ちをしていた。残酷で正直な洋佑は、どちらを選ぶのかと彼女に詰め寄られ、くるみの方を選んだ。
 
「店で使う名前、何がいい? 何かこだわりある?」
 
 面接のとき、店長に訊かれて咄嗟にくるみが口に出したアヤノという名は、そのかつての親友の名前だ。どうして彼女の名を思いついたのか、くるみ自身にもそれはよくわからない。
 
 親友を失ったくるみは、その反動から、今度は洋佑に依存した。洋佑の言うことはなんでも聞いた。高校を卒業したら一緒に東京に出てふたりで暮らそう。そんなことを考えていた。でも、洋佑は違った。三ヶ月後、彼はあっさりとくるみを捨てて、別の高校の、もっと顔立ちのよい女の子と付き合いはじめた。
 眠れない夜、くるみが死ぬことを考えるようになったのはそれからだ。手首に傷をつくるようになったのも。くるみにとって、夜明けはいつも孤独で、痛くて、そしてとてつもなく淋しいものだった。
 
 ◇
 
 バスタオルを巻いて部屋に戻ると、
 
「ちょっと見て見て、これ、すげえことになってるよ」
 
 男がテレビを指さした。見ると画面の隅の日本のスコアが「2」となっている。いつのまにか日本が二点を取ったのだ。原口と乾だよ、原口と乾。男は興奮している。
 
「え、すごい。勝てますね、これ」
「俺ら、歴史的な瞬間を目撃しちゃうよ」
 
 男はいつのまにか寝そべるのをやめて、ベッドの真ん中であぐらをかいている。くるみは素早く服を着て、男の隣に体育座りをした。
 
「やっぱり私も、これ飲んじゃっていいですか」
 
 くるみがテーブルの上のビール缶を持ち上げると、男は自分の缶をくるみの缶にぶつけ、乾杯、といたずら好きな子どものように無邪気に笑った。
 
「やっぱ、女の子とサッカー見るっていいね。楽しいっていうより、淋しくない、っていうのがいいね」
 
 この人はきっといつも部屋でひとりきりでサッカーを見ているんだろうな。そんなことを考えながら、
 
「淋しくないって大事ですよね」
 
 とくるみが言うと、男は黙ってこくんと頷いた。くるみは自分から男の唇にそっとキスをした。二点取ったから、二回。仕事というより、これはゴールの祝福として。
 
 ◇
 
 格下のはずの日本に二点を先制されてしまったベルギーは、さっそく選手交代で攻撃に転じた。背の高くてひょろ長い、朝の通勤ラッシュとかにいたらものすごく悪目立ちしそうなアフロヘアの選手が登場したとき、すっかり緊張のほぐれたくるみは、きゃはー、と無邪気に声を上げた。
 
「私、やっぱりショージじゃなくてこの人好きかもです」
「なんだよ、敵じゃんか」
「でもなんか可愛い」
「ここでフェライニ入れてくんのかー、フィジカルで押し込む気だなー」
 
 それからの日本は防戦一方で、コーナーキックからあっさり一点を返されると、さらにその後、くるみのお気に入りのアフロヘアにヘディングで同点ゴールを叩き込まれた。
 
「うわー、やられた」
「えー、だめだよー、アフロー!」
 
 風呂上がりに飲み慣れないビールを飲んだせいだろう、血流とともにアルコールが全身にまわり、くるみはだんだんとサッカーを見るのが楽しくなってきた。
 
「ほら、アヤノちゃんがアフロ可愛いとか言うからこういうことになるんだよ」
「私のせいじゃないですよ。でもここからはちゃんとショージと日本を応援します」
「頼むよ」
 
 目を合わせたふたりはなんとなく約束のキスをして、日本代表を応援した。残り時間は少なく、どちらのチームも明らかに疲れている。おそらく一点取った方が勝つ。でも、なかなかゴールまで到達しない。そんな展開がしばらく続いた。
 
「延長できるのかな」
 
 試合がロスタイムに突入したところで、男が言った。
 
「このまま二対二なら延長戦して、それでもだめならPKだってさっきアナウンサーが言ってましたよ」
「そうじゃなくて、君のことだよ」
 
 くるみはすっかり時間のことを忘れていた。今、仕事中であるということも。
 
「あ、たぶん」
「お店に電話して聞いてみてくれる?」
 
 あ、はい。そう言って立ち上がり、バッグの中からスマホを取り出したとき、日本にコーナーキックのチャンスが訪れた。蹴るのは本田。ボールをゴール前に送る。
 
「あ、だめだ」と男が言った。
 
 簡単にボールをキャッチしたベルギーのゴールキーパーが、それを素早く前方へと転がした。それはベルギーの選手へとつながる。ドリブルがはじまる。スタジアムが沸き立つ。勢いをつけて走り込んだ別のベルギーの選手にパスが渡る。あーーーー。くるみが声を上げる間に、ボールは日本のゴール前へと送られた。待ち構えていたベルギーの巨体の選手がそれに合わせると見せかけ、スルーする。背後にはもうひとりの選手が駆け上がっている。ショージの必死のスライディングは届かない。
 
「あーーーー」
 
 ベルギーの電光石火のカウンターが見事に決まった。赤いユニフォームの選手たちが喜びを爆発させている。日本は、負けた。
 ピピピピピ。
 くるみの手の中でちょうどアラームが鳴った。
 
 ◇
 
 店から着信があったとき、くるみも男も放心状態だった。
 
「どしたー。アヤノちゃん何かあったー?」
 
 受話口の向こうから金髪の運転手の声が聞こえる。
 
「あ、すいません、終わってます。電話するの忘れてて。これから出ます」
 
 ◇
 
 男と一緒にホテルを出た。すでに外は明るくなっている。おもての道路の少し離れた場所に、さっきと同じ黒のワンボックスカーがハザードを出して停まっていた。
 
「ありがとね」男が言った。
「こちらこそ、ありがとうございました」
 
 くるみは深々と頭を下げた。じゃあ。男はにっこりと笑い、軽く手を振って背を向けた。この人とはもう一生会うことはないのかもしれない。そう思いながらくるみも男の背中に手を振る。男が振り返ったので、悔しいね、とくるみは口を動かした。男は頬笑みながら頷いてもう一度手を振り、角を曲がって姿を消した。
 
「どうだった?」
 
 車の後部座席に乗り込むと、運転手の金髪が訊いてきた。
 
「負けました」
「は?」
「ベルギーに負けたんですよお」
「あ、サッカーね。負けたんだ。へえ」
 
 さして興味なさそうに頷き、くるみの初出勤について聞き直すこともなく、金髪は茶封筒の入ったファイルを受け取るとウインカーを出してハンドルを回した。
 
「アヤノちゃん、今日これで上がりだから、事務所寄らないで部屋まで送るよ。えーと、武蔵小山だっけ」
「あ、はい。駅前で降ろしてください」
 
 夜が明けて、静かに動き出した東京の景色をくるみは眺めている。
 
 ふとバッグの中の自分のスマホを手にとると、いつのまにか母と妹からLINEにメッセージが入っていた。誕生日おめでとう。それぞれ、ケーキのスタンプと一緒に。
 
 窓の外に視線を移すと、ビルの向こうの雲のすき間から朝の光が白く射している。今日もまた暑い一日になるのだろうか。日本代表の青いユニフォームを着た数人の男女が、山手通りをとぼとぼと歩いている。あっという間に通り過ぎる彼らを目で追いかけながら、淋しくない夜明けなんてはじめてかもしれない、とくるみは思った。

FOOTBALL SHORT NOVELS COLLECTION :
FOOTBALL AND LOVE SONG
Written by Masashi Fujita

memo

日本代表がベルギーに負けたあの試合。テレビを消して、シャワーを浴びて、仕事場に向かうために車に乗って家を出た早朝。近所の交差点で信号待ちをしているときに悔しさがこみあげてきて、四半世紀以上サッカーを見ていますが、はじめて、“負けた悔しさ” で涙が出そうになりました。初夏の太陽がもうすでに上っていて景色は白く明るくて、少し曇っていて。ハンドルを握りながら、まだなんだな、きっと日本はまだなんだな、と自分に言い聞かせ、ああ、この気持ちはずっと覚えておきたい、と強く思いました。あの試合はきっと数え切れないほどたくさんのいろんな人の心を動かしただろうな、というのが、この話のスタートラインです。サッカーに興味のない19歳の女の子の話。あの悔しい朝を、幸福に感じられる物語にしたいと思いました。