#21

メッシなんて知らない
I think he knows Messi.

読了時間:約15〜20分

 みきちゃんは、西新宿にあるウェブの制作会社で働いている。
 社長はまだ四十代と若く、社員も十五人ほどの、ビルのワンフロアの一角の小さな会社だ。
 三十八歳のみきちゃんはそこで制作チームの副主任をしている。副主任といっても、ただ年齢が上から二番目というだけの意味で、えらくもなんともない。年上からも年下からも、バイトの子からも、みきちゃんはみきちゃんと呼ばれている。
 
「メッシ、どうなると思う?」
 朝、みきちゃんが出社すると、待ち構えていたように社長が声をかけてきた。
「なんか、寂しいです」
「だよなあ。こんなことになると思わなかったよな」
「シャビもイニエスタも、すごくいいお別れだったじゃないですか。だからメッシも当然……って、思ってました」
 みきちゃんはサッカーが好きだ。特に、バルセロナが好きだ。
「シティだと思う? パリだと思う?」
「うーん」
「俺は、プレミアでペップとやるメッシも見たいけど、パリの夢みたいな3トップも見てみたい」
「わかります」
 普段、外を飛び回っている社長が制作チームの部屋に顔を出すことなんて滅多にない。ましてや忙しい朝の貴重な時間に、わざわざ社員を待ち構えてまでサッカーの雑談なんて。制作部の仲間たちが物珍しそうにちらちら視線を送って寄越す。
「じゃあ、シティかパリか、賭けようぜ」
「いいですよ。何、賭けますか?」
「負けた方が、何でも食べたいものをおごる、ってことで」
 それは社長と平の従業員の収入を比較すると、とても不公平な勝負ですよね? とみきちゃんは思ったけれど、さすがに三十八年も独り身を通してきて空気を読むことだけに関してはそれなりに敏感になっていたので、あ、これってお誘いの台詞なのね、と瞬時に理解し、もう一度、「いいですよ」と答えた。今度は精一杯、自分なりに不敵な笑顔をつくって。
「バルサ残留ってのもありですか?」
「あり」
「ちょっと考えさせてください」
「うん。じゃ俺も考えとく」
 よろしく、と言い残し、社長はスマホで時刻を確かめながら背中を向けた。
 みきちゃんは、お疲れさまです、と軽く頭を下げ、椅子に座り直して目の前のパソコンを起動させながら、その高そうなスーツの後ろ姿がドアの向こうに隠れるのを見送った。そういえば、社長はほんの少しだけ、雰囲気がセルジ・ロベルトに似ている。
「みきちゃん、社長、どうしたの?」
「え、わかんない。なんだろうね」
 隣の席の女の子に聞かれて答えるみきちゃんの頬は、誰が見てもわかるくらい、柔らかく緩んでいる。
「何の話してたの?」
「サッカーだよ、サッカー」
「サッカー?」
「なんか、私がサッカーの話できる人だって気づいたみたいで」
 
 これは、サッカーを愛するみきちゃんの、小さな恋の物語である。
 
 ◇
 
 みきちゃんがサッカーと出会ったのは、十七年前、大学生のときだった。
 知り合いが知り合いに声をかけて、という感じで集まった男女半々の十五人くらいのメンバーで、大学の近くのコートを借りてフットサルをしたことがあった。
 ジャンケンでチーム分けをして、だらだらボールを蹴る、それだけのゆるい遊びではあったものの、運動神経のまったくないみきちゃんは、どたどたと人工芝の上を走り回るだけでまともにボールを蹴ることすらできず、空振りしたり、転んで尻餅をついたり、人に笑われるばかりでちっとも楽しくなかった。
 
 フットサルの後、集まったメンバーはそのまま居酒屋に移動した。誰かが手際よく事前に予約をしてくれていたらしい。
 というか、みきちゃんを誘った友達も他の子たちも、実はみんな、その飲み会を目当てに集まっていたのだった。
「やっぱ、ボール蹴った後のビールは最高だよね!」
「だよねー!」
 フットサルはただの合コンの口実だったのだ。そのことに気づいたとき、みきちゃんはちょっといやな気持になった。えっ、そうだったんだ、どうしよう、と身がすくんだ。
 みきちゃんはそういう集まりに積極的なタイプの女の子ではなかった。そもそも男の子と話をするのが得意ではなかったし(引っ込み思案が災いして二十歳を過ぎてまだ彼氏ができたこともなかった)、カラオケとかボウリングとか、そういう遊びで盛り上がるのも苦手だった。
 それまで何度か、人数あわせで合コンに誘われたことはあったけれど、男の子も女の子もみんな目がぎらぎらしていて怖いという印象しかなかった。常に誰かに品定めされているようで居心地が悪かった。無理矢理に場を盛り上げようとしている人たちのバカ話に巻き込まれないよう、友達の横に隠れて緊張しっぱなしだった。
 
 けれど、そのフットサルの集まりは、そうではなかった。身体を動かして汗をかき、疲れ切った後のみんなの顔は、なんだかお風呂上がりの家族みたいにやけに親しく感じられた。今さら服とかお化粧とかに気を使う必要もなかったし、自分の恥ずかしいところは、もうフットサルのコートでとっくに披露していたから、緊張することもなかった。声をかけてくれる男の子はみんなやさしかった。みきちゃんも自分からたくさん話ができた。冗談で初対面の男の子を笑わせたりもできた。みきちゃんは、生まれてはじめて、それまで苦いだけだったビールを「美味しい!」と感じることができた。
 
 ◇
 
「それはさ、チームだからだよ。チームはファミリーってよく言う監督がいるけどさ、俺らにも、そういう、一緒にボール蹴った仲間同士っていう一体感? 連帯感? みたいなのが生まれたんじゃないかなあ。ほら、戦場で一緒に過ごすともうそれだけで固い絆で結ばれるっていうし」
 隣に座っていた男の子は、みきちゃんが
「こんなに楽しい合コンはじめて」
 と打ち明けると、そんなふうに言った。
「戦争とは全然違うでしょ」
「うんまあ、それは例としては不適切だったかもしれないけど、一緒にサッカーすると、なんかね、そういう仲間意識が芽生えるんだよ。サッカーにはそういう不思議な力があるんだな」
 その男の子こそ、それから数週間後にみきちゃんのはじめての恋人になる、ともくんである。なんとみきちゃんは、結果的に、そのフットサル合コンでちゃっかり彼氏をつくることに成功したのだった。
 ともくんは幹事のひとりだったけれど、サッカーは恐ろしく下手だった。運動神経がないことに関してはみきちゃんとどっこいどっこいで、でもだからこそ、お互いにそういう弱いところで惹かれ合ったのかもしれない。みきちゃんは、カッコよくて、男らしくて、なんでもできて、グイグイ引っ張っていってくれる男の子よりも、ともくんのような、自分の強さを主張しない(できない)タイプの男の子の方が、安心して親しくなれるのだった。
 
 ともくんと付き合いはじめてから、みきちゃんは、サッカーは「する」だけじゃなくて、「見る」という楽しみがあることを知った。ともくんは、サッカーを見ることを生き甲斐にしている男の子だった。
 ともくんのひとり暮らしの部屋の壁には、サッカー選手のポスターが貼られ、紺と臙脂色のユニフォームがぶら下がっていた。本棚にはサッカーマガジン、サッカーダイジェスト、ワールドサッカーダイジェスト、ワールドサッカーグラフィック、ナンバー……とにかくサッカー雑誌がずらりと並んで、プレステにはウイニングイレブン。トイレのタンクの上には顔だけリアルな二頭身半のサッカー選手のフィギュアがいくつも(たぶん十一体)飾られていた。
「俺ね、バイト代貯めてカンプノウに行きたいんだよね」
「カンプノウってどこ?」
「バルセロナ。そういう名前の有名なサッカー場があるの。十万人近く入るんだよ。すごくない?」
 好きな人の好きなものは、一緒に好きになりたい。みきちゃんはそういう女の子だったから、ともくんの話すサッカーのすべてを、まるで白い綿が水を吸うみたいに、ぐんぐん吸収した。いつの間にか、みきちゃんもバルセロナを「バルサ」と呼ぶようになり、週に二回、ともくんの部屋で明け方まで夜更かしをするようになった。
 
 その年のバルセロナは、ロナウジーニョをチームに迎え入れた最初のシーズンだった。どういう偶然か、みきちゃんがともくんの部屋に通うようになってから、リーガでの快進撃がはじまった(だからみきちゃんは、ライカールト監督以前のバルセロナの暗黒時代を知らない)。
「みきちゃんと一緒に見るようになってから、バルサ、まだ負けてないんだけど」
「うん、強いね」
「いや、去年まではこんな強くもなかったんだけどな……」
 みきちゃんはともくんから、まるで勝利の女神のように(半分冗談だけど半分本気で)崇め奉られた。
 みきちゃんは試合を繰り返し見るうちに、だんだん選手にも親しみもおぼえるようになっていった。ロナウジーニョ、シャビ、サビオラ、プジョル、ダービッツといった目立つ選手だけじゃなく、コクー、レイツィハー、ファン・ブロンクホルストといった縁の下の力持ち的な選手たちまで、どんどん名前と顔とプレーを覚えていった。
 バルサがそのシーズンを二位で終えたとき、ともくんのカンプノウ行きの夢は、そのまま、みきちゃんの夢にもなっていた。
 
 ◇
 
「大学の卒業旅行は、カンプノウ」
「できたら週末を二回挟んで、二試合見よう」
「水曜にチャンピオンズリーグの試合も見れたら最高だよね」
 大学四年生になって就職も決まったふたりは、どちらからともなくそう言い出して、その年、一生懸命バイトに励むようになった。
 夏にはじまったバルサの新しいシーズンは、新時代の幕開けを予感させた。ロナウジーニョとシャビを攻撃の中心に据えて、エトー、ジュリ、デコといった実力者がピッチを支配した。銀河系と呼ばれたレアル・マドリードとの地位がいよいよ逆転する、そんな予感を抱かせるシーズンの開幕だった。
「デコもいいけど、イニエスタが可愛いくて好き」
「やっぱりロナウジーニョは中央より左サイドの方がいいよね。あの一対一のじりじりするような間合いからの切り返しが最高」
「中盤の底にマルケスがいてくれてほんと助かるよ。一番後ろもできるし」
 ふたりは、顔を合わせればいくらでもサッカーの話ができた。
 みきちゃんは、まだ恋人というものを知らない十代の頃、自分がかなり控えめな性格で口べたである、というのがずっとコンプレックスだった。もしも男の子と付き合っても、自分は面白いこととか、相手を喜ばせることなんかなにも話せなくて、退屈させてしまうんじゃないか、それですぐにつまんない女だと思われてフラれちゃうんじゃないか、と心配していた。
 でも、そんなのは、ともくんという恋人の前では杞憂に終わった。サッカーは毎週、新しい話題を提供してくれる。サッカーの話ならいくらでも新しい話ができた。もう、永遠と思えるほどに。
 遠くの国にバルセロナというサッカーチームがあって、そばにともくんがいてくれる。その二つの条件があれば、私はこれから一生楽しく過ごせる。そう思った。みきちゃんは幸せというものを見つけたのだった。
 
 ◇
 
 ところが。
 幸せというのは、なぜか続かないようにできている。
 
 カンプノウ行きのために複数の肉体労働系のアルバイトをかけもちしていたともくんが、ある日、バイト先の配送センターで車両事故に巻き込まれた。
 あれれ? 昨日も一昨日もメールの返信がなかったし、電話も出なかったな。忙しいのかな。まあ、どうせ週末には会えるからいっか。
 何日か連絡が途絶えたことをそんなふうに軽く考えていたみきちゃんが、ともくんのお兄さんと名乗る人から連絡を受けたのは、ともくんが病院の集中治療室で家族に見守られていたときだった。
「え、病院、ですか? はい、わかりました。これから急いで行きます」
 ともくんの身に何が起こったか正確に伝えられていなかったみきちゃんは、病院に向かうタクシーの中で、もし週末まで病室にいるとしたら、ともくんは今週はリーガの試合が見られないな、かわいそうに。なんてことを心配していた。
 まさか、永遠に見られなくなるだなんて。
 
 ともくんとはもう二度と会えないらしい  みきちゃんは突然現れた真っ暗な現実をすぐには信じられなかった。ショックで胸が押しつぶされそうだった。頭がおかしくなりそうだった。でも、冷たくなったともくんのそばには、ともくんのお父さんとお母さんがいて、お兄さんとお姉さんも、おじいちゃんとおばあちゃんもいた。家族のとてつもなく大きな悲しみの前では、自分の悲しみなんてちっぽけなものに違いない。みきちゃんはそう思ったから、お通夜でもお葬式でも取り乱さず、友人のひとりとして遠くから静かに、ともくんの旅立ちを見送った。
 ひとつだけ、みきちゃんはわがままを言わせてもらった。ともくんの家族にお願いして、棺の中にアズールグラナのマフラーを入れさせてもらったのだ。それは前の年のクリスマスに、渋谷のサッカーグッズの専門店に出かけてふたりでプレゼントし合ったお揃いのものだった。
 みきちゃんのマフラーは、ともくんのそばに。そして、ともくんの部屋にあったともくんのマフラーは、みきちゃんがもらって、大切にとっておくことに決めた。
 みきちゃんはときどきそれを抱きしめて、何度も何度も、数え切れないくらい泣いた。天国という場所がバルセロナに近いといいな。そんなことを願った。
 みきちゃんがともくんと過ごした時間は、一年にも満たなかった。でも思い出はどんな記憶よりも色濃く、そして光り輝いていた。それは、どんな暗闇の中にあっても見つけられる紺と臙脂色の小さな宝石となって、みきちゃんの胸の宝箱の中にしまわれた。
 
 ◇
 
 それからの十六年で、何人かの男の人がみきちゃんの前に現れた。
 人間だもの、そりゃあオスとメスの関係に惹かれることもあったし、実際に新しい恋人ができたこともある。
 でも、親しくなればなるほどに、みきちゃんは相手の男の人を受け入れられなくなって、愛せなくなって、結局、みきちゃんの方からお別れを切り出すのだった。
 
 みきちゃんは、男の人とサッカーの話がしたかった。
 例えば、「明日、朝から大事なミーティングなのにさあ」とかぼやきながら夜更かしして日曜の深夜のリーガを一緒に見たかった。例えば、バルサのマイ・ベストイレブンを選ぶなら、左ウイングはネイマールかロナウジーニョか、難しい問題を延々と語り合いたかった。
 つまり、みきちゃんの心の中にはいつもともくんがいたのだ。バルサの試合を見てはともくんに話しかけ、ともくんなら何て言うかな、と考えた。目の前のリアルな男の人を、記憶と妄想がごっちゃになったファンタジーのともくんと比較してしまうのだった。そんなんじゃ、恋なんてうまくいくはずがない。
 
 三十代になって、いよいよまわりの同年代の女の子が立て続けに結婚すると、みきちゃんは焦りはじめた。
 マッチングアプリを使って、趣味が「サッカー」「サッカー観戦」「バルセロニスタ」の人を検索して会ってみたりもした。
 でもだめだった。むしろ、相手がサッカー好きであるほど、ともくんと比べてしまう。ともくんだったらこんなこと言わない、と感じてしまう。
 みきちゃんはあるとき、ふと思った。ともくんと私は、シャビとイニエスタだった。ふたりにしか見えない景色がある。ふたりにしか交わせない言葉がある。感覚がある。私はまるでシャビが退団したあとのイニエスタみたいだ、と。
 
 三十五歳を過ぎて、いよいよみきちゃんは、理想の相手を探し続けることの無意味さに気づいた。それは、相手に自分のエゴを押しつけるだけのことで、ちゃんと恋をしたり、結婚をしたりするためには、ともくんのこともサッカーのことも、いったん忘れないといけないのだと。
 ああ、サッカーなんて好きにならなければよかった、とはじめて思った。
 ともくんがいなくなってからも、みきちゃんはずっとバルサの試合を追いかけ続けてきた。ペップのサッカーに胸を躍らせた。メッシやプジョルやイニエスタだけじゃなく、オレゲールやシウビーニョといった控え選手も愛した。ティト・ビラノバが亡くなったときは胸を痛めた。ラキティッチには少しばかり恋をした。それは、みきちゃんにとって、宝物を愛でることだった。
 でも、本当はそんなもの、宝物でもなんでもないんじゃないか。サッカーなんてただの球蹴りだ。男たちのお金儲けの道具だ。サッカーという中毒性のある「ゲーム」に騙されて、私は私の人生を無駄にしようとしているんじゃないか。ともくんとの思い出も、サッカーも、宝物なんかじゃない。実はこれ、泥沼なんだ。
 みきちゃんはつらかった。そう思うことも、サッカーのない幸せな人生を想像することも。もういっそ、アズールグラナのマフラーを処分してしまおうなんて考えることも。
 
 サッカーを見るのはもうやめて、いい加減、真面目に婚活しよう。あるとき、みきちゃんはそう決心した。
 なのに眠れない週末の夜はついテレビを点けてしまう。サッカーを見ずに目覚めた朝も、つい試合結果の速報とハイライト動画をチェックしてしまう。メッシがとんでもないゴラッソを決める度に、
「ともくん、見た? やばくない?」
 なんて興奮して、またサッカーから離れられなくなってしまう。
 サッカーに向けられる自分の気持ちが、愛なのか憎しみなのか、それともただの執着心なのか、みきちゃんはだんだん、よくわからなくなっていった。
 
 ◇
 
 でも、ひょんなきっかけで、みきちゃんは再び恋をする。
 
 今年の夏のことだ。
 その日、みきちゃんは営業さんが無理な納期で受注してきたランディングページの制作に追われ、お盆休み中だというのに出勤し、ひとりで深夜まで残業していた。
 どうしても午前四時までに部屋に帰りたかったのだけれど、いろいろ手間取ってしまって、作業が終わったのは四時になる直前だった。
 さすがに年齢的にもう徹夜は無理。寝たい。でも寝れないし。あー、まじできついわ。変になりそう。
 ぶつぶつ呪詛のようにつぶやきながら、自分の席を離れ、コーヒーを買いに自動販売機のある会社の休憩スペースのドアを開けたときだった。耳馴染みのあるアンセムが聞こえてきて、みきちゃんはいよいよ自分の頭がおかしくなったかと思った。
 休憩スペースの中央に設置されていたソファに、ノートパソコンの青白い光に照らされた社長の顔が浮かんでいるのを見たとき、うわっ、とみきちゃんが驚くと同時に、社長もぎゃっと驚いた。
「びっくりした! みきちゃん、何? こんな時間に仕事? 盆休みなのに?」
「いやあの、S社の案件で盆明けが納期なんですよ。しゃ、社長もお仕事ですか」
「あ、うん。誰もいない会社の方が企画書作りやすから出てきてるんだけど……」
「あの、それってもしかして」
 覗きこんだノートパソコンに画面に映っていたのはレヴァンドフスキ。改めて聞くまでもなく、それはチャンピオンズリーグの準々決勝、バイエルン対バルセロナの生中継だった。
「社長、サッカー好きなんですか?」
「うんまあ、いちおう。学生のときやってたし」
「あの」
「ん?」
「それ、私も一緒に見ていいですか?」
 
 ◇
 
 バルセロニスタのみきちゃんにとって、その試合は悪夢だった。
 前半で四失点を喫したバルセロナは、試合内容でも完全にバイエルンに圧倒されていた。カンテラ出身のチアゴ・アルカンタラの輝きが、あまりにも眩しすぎた。(彼はシャビの後継者になるに違いないとかつてみきちゃんは思っていた。)
「メッシがつらそうだね……」
 ハーフタイムに声をかけられるまで、みきちゃんはバルサのあまりの不甲斐なさがショックで、社長の隣で膝を抱えたまま完全に固まっていた。
「最近、チャンピオンズリーグはいつもこうですよ……」
「ああ、そうだね。俺、ブラジルがワールドカップでドイツにやられた試合、思い出してた」
「社長は、応援しているチームとか、好きなリーグとかあるんですか?」
「いや、これってチームがあるわけじゃないけど、メッシが好きなんだよね。だからいちおう、バルサの試合は大事なゲームだけ見てる。クラシコとか、チャンピオンズリーグとか。といっても忙しくて見られないときの方が多いけど」
「私、バルサずっと見てるんです」
「へえ、女の子で海外のサッカー見てるのって珍しいよね。彼氏の影響とか?」
「まあ、そんなとこです。もうとっくの昔に……」
 死んじゃいましたけど、ではなく、別れちゃいましたけど、と、みきちゃんは目を伏せて言った。十五年以上も経っているというのに、みきちゃんは「ともくんが死んだ」という事実を口にできなかった。いまだに胸が痛むのだった。
 社長は、そっか、と頬笑んだ。
「俺、親父がサッカー大好きでさ、実家に行くとうちの親父がジーコと一緒に撮った写真が飾ってあったりするんだ」
「へー、すごい。おいくつなんですか」
「親父はだいぶ前に死んだよ」
「……」
「日韓ワールドカップの決勝を横浜で一緒に見たのが思い出だね。それからすぐ倒れて、しばらく闘病して。元々糖尿だったし、まあ、結構、歳もいってたから仕方ないんだけど。でもなんか悔しいんだよね。親父、メッシがデビューする前に死んじゃったんだよ。だからメッシを知らないんだよ。メッシを見ないで死ぬってすごいもったいないよね。いや、まあ、実際はメッシという存在自体を知らないんだから、本人が悔しがるはずはないんだけど。でも、サッカーが好きな人がさ、メッシのプレーを見ずに死んじゃうなんて、そんなの絶対、悔しいに決まってるよね。だから、親父のかわりに、俺がメッシを見続けようと思って」
 みきちゃんは社長のその話を聞いて、どうして自分がこんなに、ともくんに、サッカーに、バルサに執着して生きているのか、ようやくわかったような気がした。
 私も、ともくんにメッシのプレーを見せてあげたかった。一緒にメッシを見て、すげーって感動し合いたかった。
「あの、実は……」
 みきちゃんは、口を開いた。
 そしてともくんのことを話しはじめた  学生のとき、こういう彼氏と付き合っていて、それで彼はバイト中の事故で亡くなってしまって  話しながら、みきちゃんは気づいた。男の人に、ともくんの話をするのはこれがはじめてだと。私はサッカーの話ができる人を探していたんじゃない、ともくんの話ができる人を探していたんだ、と。
 
「もし彼が今、生き返って、今のサッカーを見ても、『メッシなんて選手、知らない』って絶対言わないと思うんですよ。私、そのくらいずっと、ずっと、胸の中で彼とメッシの話をしてきたんです。でも、こういうのって……やっぱり変ですよね」
 社長はみきちゃんの目を見て、やさしく首を横に振った。
 
 ◇
 
 8対2という大差で試合が終わり、肩を落としたメッシが画面に映し出される。
「なんか、みきちゃん、メッシと同じ目をしているよ」
 そう言われて我に返ると、社長が新しい缶コーヒーを買い直して、みきちゃんの手に握らせた。
「この負け方はショックだね。なんか、時代の終わりって感じがする」
「ですね……」
「残業おつかれさま。ちゃんと代休とって、ゆっくり休んでね」
「はい」
「また、サッカーの話しようよ」
 社長はそう言ってノートパソコンをぺたんと閉じると、いやー、まじで会社でサッカーの話ができるなんて嬉しいなあ、ていうかサッカー好きなら最初から履歴書に書いといてくれればいいのに、なんて言い残しながら休憩スペースを出て行った。
 みきちゃんはもらった缶コーヒーを胸に抱くように持って、ソファにもたれたまましばらく呆然としていた。そして、胸の中のともくんに、告げた。
「バルサのサッカーが、終わったよ」
 それは、みきちゃんにとってもひとつの時代の終わりだった。
 
 ◇
 
 それからしばらくして、メッシがバルセロナを退団するというショッキングなニュースが流れてきた。「ブロファックス」「契約解除金」「飼い殺し」「練習不参加」……その他にもいくつも物騒なキーワードがネット上を飛び交った。
 みきちゃんと社長は会社で顔を合わせる度に、まじかな、まじっぽいですよ、とメッシの去就についての話をした。
 そんな中で、みきちゃんは考えることがあった。メッシがもし新しい環境を求めているのなら、私も新しい恋をしてみよう、メッシの勇気とは比べるべくもないけれど、私も、ほんの少しだけ、前に出てみよう。
 みきちゃんの心は、ようやく動き始めた。ちなみに断っておくと、社長は独身である。
 
 みきちゃんは想像する。
 いつかメッシが引退するとき、社長とふたりでお墓参りに行きたい。社長のお父さんのお墓と、ともくんのお墓だ。それぞれの墓前で、メッシの時代を語り合えたら。これからのバルセロナの話ができたら。
 そしていつまでも、サッカーを宝物のように愛し続けられたら。
 なんだか不思議な動機だけれど、もう四十近くのいい大人になったのだから、この際、そんな恋もありなんじゃないか。
 
 やっぱりみきちゃんは、アズールグラナのマフラーを、これからも大切に胸に抱いて生きていたいのだ。
 
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FOOTBALL SHORT NOVELS COLLECTION :
FOOTBALL AND LOVE SONG
Written by Masashi Fujita

memo

地球の反対側にいるスーパースターの心配をする、というのもよく考えてみればおかしなものですが、メッシの去就問題(退団問題)がとりあえず落ち着いて、ほっとひと安心。プロスポーツ界の移籍のゴタゴタとか、それにまつわるスキャンダル、お金に絡むどろどろした噂話って、嫌いじゃない、というかむしろ好きなんだけれど、メッシには、ずっとそういうのと無縁でいて欲しい、という気持ちがあります。メッシを見るとき、いつも理想主義者になってしまうのは、なんでだろう。もしメッシの移籍のために(必要となるらしい)800億円を誰かが支払ったとして、そうするとこれからのメッシは、これまでの純粋な「メッシ」ではなくて、「800億円の価値と比較されるメッシ」になってしまう。あるいはバルセロナと裁判をすると、「故郷を失い傷ついたメッシ」になってしまう。そんな目で、これからメッシを見たくないと心から思ったのです。必ずやってくる加齢と肉体の変化によるプレーの衰えを、そういうものといっしょくたにして見たくないと。サッカーの世界で、メッシほど、修飾が不必要な存在はないのです。いつまでもサッカーという世界の中での、アンタッチャブルであると同時に純白なものであって欲しいという、わがままな期待。とにかく、チームメイトとサッカーを純粋に楽しむメッシが見たいです。すんごいゴラッソを決めて、何でもないことのように爽やかに笑うメッシが。