#23

ロペテギの涙
Lopetegui's Tears

読了時間:約15〜20分

 男はつらいよ、という映画のシリーズがある。渥美清が主演の、日本人なら誰もが一度は耳にしたことのある作品だが、紀之はまだ一作も見たことがない。
 男はつらいよ。
 紀之は口にするともなく口にしてみる。そうすると、男ってのは、本当につらいもんだ、としみじみ思う。
 それがたとえ自業自得であったとしても、身から出た錆であったとしても、今日はとにかく、つらい一日だった。
 
 ◇
 
 午前四時。
 あきらめ、苛立ち、やるせなさ、そういった始末の悪い感情が胸の内でうごめいて眠れない。まだ気持ちの整理が追いつかない。今日一日のうちに  すでに昨日だが  起こったことを冷静に、順を追って反芻しようとするものの、心の平静を保つことができず、何度も、苦労して並べたドミノを途中で倒したときのような虚しい気持ちになる。
 紀之は昨日、会社で左遷を言い渡され、そして不倫相手と別れた。仕事と女。これまで当たり前に自分のものと考えていたふたつのものが、呆気なく同時に失われたのである。
 
 ああ、眠れない。
 紀之は寝室を抜け出し、妻が寝ている部屋の前を静かに通り過ぎると、夜明け前のリビングのソファに横になった。十五年前、結婚と同時に購入したこのマンションのリビングは、猛暑の夏でも朝晩はエアコンなしで案外涼しい。
 苛立ちを持てあます以外にやることがないので、スマホのニュースサイトを適当にスクロールし、安倍首相の体調や将棋の藤井棋聖の記事を流し読みするものの、文章がちっとも頭に入ってこない。世の中の動きなど、何もかもがどうでもよい。
 ようやく、お、と気持ちが前に動いたのは、「スポーツ」のタブをタップして表示された記事で、今夜がヨーロッパカップの決勝だと気づいたからだ。
 セビージャ対インテル。
 紀之はニュースサイトを閉じて、DAZNのアプリを立ち上げた。
 
 開始三分。試合はすでに動いていた。
 ペナルティスポットの手前にロメロ・ルカクが立っている。経緯はわからないが、どうやらインテルにPKが与えられたらしい。
 ルカクが落ち着いてボールをゴールに蹴り込む。褐色のフォワードにとって、この大会、七つ目のゴールだという。
 インテルの監督はコンテ。こういうトーナメントの一発勝負に、厳格なこのイタリア人監督は強いのだったか、それとも案外脆いのだったか。映像を眺めながらそんなことを考え、サッカーの監督というのは、こんな東洋の島国の一介のサラリーマンからいちいち批評されたりするのだから大変な仕事だな、心労が絶えないんだろうな、と思っていると、一瞬、映像がセビージャのベンチに切り替わった。
 あ、ロペテギ。
 そこには久しぶりに目にする顔があった。優しそうな、それでいて少し狡猾そうな、でもなんだか情けない感じの印象がぬぐえないスペイン人監督。
 へえ、ロペテギって今、セビージャの監督をしていたのか。
 
 ◆
 
 フレン・ロペテギがワールドカップの開幕直前に契約問題でスペインの代表監督を解任されたのは、二〇一八年のことだ。期待された新天地のレアル・マドリーでも結果を残せず、追い打ちをかけるように、彼はわずか半年でレアルの監督の職も追われた。
 その年、ロペテギとは対照的に、紀之は何もかもが絶好調だった。
 大学時代の先輩から誘われ学習教室を全国展開する会社に転職して、五年目。紀之の発案で二年前から進められていた幼児・低学年向けのスポーツ教室の新事業が成果を上げはじめ、それが認められて会社の重要なポストに抜擢された紀之の給料は、転職前と比べて二倍にまで増えていた。
 とにかく仕事は順風満帆だった。プライベートでも父親の心臓の手術が無事に成功し、娘が難関の私立中学に合格。さらに祖母が宝くじで百万円を当てるなど、恐いくらいに祝いごとだらけだった。厄年を迎えていたが、夫婦関係にぎくしゃくしたものがある以外、紀之の運気はひたすら上昇の一途をたどっていた。
 
 やり甲斐のある仕事と責任、権限を与えられ、その上で経済的な余裕ができると、男は自分に自信を持ち、ひと皮むけたような解放的な気分になる。若い女に目が行くのは、ある意味、必然だったのかも知れない。
 
 とにかく忙しい日々だったが、何がいちばん楽しかったかといえば、忙しさの合間を縫うようにして繰り返した、春奈との逢瀬だ。
 鈴川春奈は中途採用で営業に配属された女性社員で、紀之のちょうどひとまわり下、付き合いはじめた当時は三〇歳になったばかりだった。
 毎日の仕事の忙しさと慌ただしさ  特に紀之の出張や会食、社外の人物との接触の多さ  は、ちょっとした自由時間の口実を作るのに逆に都合がよく、ふたりは週に一度か二度、ほんの二、三時間のタイミングを上手に見つけては、春奈の部屋やホテルで落ち合い、密度の濃い、甘い砂糖菓子のような幸福を味わい続けた。
 
 ロペテギがスペイン代表を去ったとき、紀之はそのニュースを春奈のひとり暮らしのアパートのベッドの上で知った。
「そりゃ、二重契約はまずいよなー」
「何の話?」
「いや、サッカーの話」
「あ、もうすぐワールドカップがはじまるんでしょ」
「はは、スペイン、やばいわ。イエロが監督やるとか言ってるし」
 片手でスマホをスクロールする紀之も、その身体に白く細い脚を蛇のように絡ませて画面を覗きこむ春奈も、どちらも素っ裸だった。
「この人、何か悪いことしたの?」
「ロペテギっていうんだけどさ  」
 何か事件が起こると  人が不祥事や問題を起こすと  、それを耳にした人間はさまざまな反応を示す。非難する人、同情する人、応援する人、あら探しをする人、あざ笑う人。紀之はそのとき、ロペテギをあざ笑う側の人間だった。
「やっぱ、社会ってのは信頼関係なんだよ」
 偉そうに、そんなことを適当に言いながら、
「スペイン終わったわ」
 とスマホを放り、春奈の首筋に唇を寄せた。
「ねえ、私、スペイン料理食べたい」
「いいね、今度行こうよ」
 社内不倫、といえば聞こえが悪いけれど、少なくとも紀之の方には罪悪感などなかった。あったとしても、それは燃え上がる恋愛感情にくべる薪のようなものでしかなかった。紀之は彼女と、純粋な恋をはじめていた。
 
 ◆
 
 春奈との不倫はそれから二年続いて、今年、三回目の夏を迎えた。
 これまで細心の注意を払って付き合ってきたから、妻や娘に露見する気配はまったくなく、もし万が一疑われたときのための口裏あわせもできていた。
 しかし、思わぬところから綻びが生じた。
 二週間前、急に紀之と春奈の関係が社内で密かに囁かれるようになったのだ。
 人の口に戸は立てられない。噂はあっという間に広がり、ついに先週、営業部長に呼び出された彼女が、しばらく会社を休むことになった。
「一週間くらい、出てこない方がいいって言われた。別に、仕事とは関係ないのにね」
「そうか……大丈夫?」
「私は大丈夫だけど……。なんか、私って会社にとっていてもいなくてもどっちでもいい人間なんだなって思っちゃった」
 表向きは風邪をこじらせたということになっているらしいが、サッカーの監督の「休養」に限りなく近い状態である。
 
 そして今朝。
 出社した紀之を待ち構えていたのは、会社に誘ってくれた先輩からの呼び出しだった。
 常務の立場にある彼の口から、紀之は異動を告げられた。今年新設の予定がコロナ禍で延期になっていた福岡と鹿児島の教室を、なんとか無事にオープンまでこぎつけて欲しい、という話だった。西日本統括支部長。肩書きとしては栄転だが、もちろん懲罰人事であることに疑いの余地はない。
「役員連中の耳にまで入るとさ、お前だけお咎めなしってわけにはいかないよ。悪いけど、これが俺にできる精一杯だよ」
「彼女はどうなるんですか」
「わからん。本人次第で、本社に残るかもしれないし、どこかに転属になるかもしれん。まあ、九州ってことはないけどな」
 意地の悪い冗談に、反射的に紀之の口元は歪んだ。
「まあ、でも本人から辞めると言い出すんじゃないかって、営業部長が言っていた」
「そうですか」
「奥さんはまだ知らないんだろ」
「ええ、まあ」
「じゃあ大丈夫だよ。福岡で三、四年頑張ってくれたら、またこっちに戻すから。彼女のことは忘れろ」
 子育て世代の女性をメインのターゲットに展開する教育産業は、今はどこも会社のブランドイメージに神経質である。
「気の毒だとは思うよ。少し前ならこんなの始末書と譴責だけで済んだ話なんだけどな。タバコもダメ、女もダメ、その上、コロナで酒盛りもダメ、風俗もダメときた。男にとっちゃ、ほんとに世知辛い世の中だよ」
 ちょうど今年の春から就業規則の「社内風紀」に関する服務規律が厳しくなったばかりだった。上役が馬鹿のひとつ覚えのように「コンプライアンス」をよく口にするようになった。不適切な関係で社内の風紀を乱した紀之に何かしらの対応をしなければ、会社としても筋が通らない。
「わかりました。迷惑かけてしまって、本当にすみませんでした」
 役員連中にだって不倫している奴なんかいっぱいいるじゃないか  先輩、あなただって以前は  そう言いたいのをぐっとこらえて、紀之は深く頭を下げた。
「よし、この話はこれで終わり。上には俺がうまく言っとくから。間違ってもお前まで会社辞めるんじゃねえぞ」
 
 ◇
  
 午前の会議に遅れて参加し、その後に予定されていた部下との打合せは、日を改めてオンラインで行うことに変更して、紀之は昼前に会社を出た。
 会社にいたくなかった。春奈との関係が一気に広まったように、紀之が福岡に飛ばされる話もおそらくあっという間に社内で共有されるに決まっている。当然、ふたつの話は関連づけられる。周囲の好奇と憐れみと同情の視線に  その中には当然、ざまあみろ、という冷ややかなものも含まれている  紀之はとても耐えられそうになかった。
 地下鉄の駅に向かって歩きながら、スマホのアプリで春奈にメッセージを送る。
 《これからって会えるかな?》
 すぐに既読がつき、返信が届く。
 《部屋にいるよ。今起きたとこ》
 《昼飯、何か買っていく。何がいい?》
 これまで誰にも見つからないように付き合ってきたつもりだった。このメッセージアプリだって、わざわざあまり人が使わないマイナーなものを選んで、目立たないようにやりとりしていた。関係を持って以来、社内では視線を交わすこともなかったし、会社の近くで外食もしていない。妻にも娘にも気づかれてはいない。なのにどうして。どこから。
 春奈の返信が届いたのは、ちょうど最寄り駅の改札を出たときだった。
 《紀之さんの好きなのでいいよ》
 《じゃあ、いつもの駅前の寿司にするよ》
  
 春奈と顔を合わせるのは、春奈が営業部長に呼び出された日の夜以来だった。
 春奈は、紀之が部屋に入るなり抱きついてきた。本当に寝起きらしく、すっぴんで髪の毛もぼさぼさである。汗ばんだ肌の匂いに刺激され、紀之は寿司の入ったビニール袋を床に置くと、反射的に自分の唇を春奈に押しつけた。パジャマがわりにしているTシャツを強引に胸までずり上げ、そのまま部屋のベッドに押し倒す。
「会いたかったよ」
「私も」
 いつもより乱暴に、紀之は春奈を抱いた。これが最後になるかもしれないと理解しているのか、春奈もずいぶんと積極的だった。
  
 駅前の回転寿司でテイクアウトした1パック698円の握り寿司をふたりでつまみながら、紀之は春奈に転勤のことを切り出した。
「いつ?」
「できるだけ早く、って話だった」
「そっか。ごめんね」
「春奈が謝ることじゃないから。それより春奈はどうするの」
「わかんない。会社、辞めようかな。元々そんなに好きな仕事じゃないし、営業部の雰囲気、私あんまり合わないし」
「……」
「私、慰謝料とか請求されたりするかな」
「いや、家には気づかれてないからそれはない。もし万が一そうなったとしても、俺が払うから」
「私、お金ないもんね。ごめんね」
「でもなんで会社にばれたんだろうな」
「……」
 もぐもぐと口を動かしながら、春奈は目を伏せた。
「誰かに言ったのか」
「言ったわけじゃないけど。冬に横浜に中華食べに行ったじゃん。コロナの前。あのとき、横浜校の事務の仲川ちゃんているじゃん、あの子に見られてたみたいなんだよね。それでこないだ研修で本社に来たとき聞かれて……」
「言ったの?」
「口止めしといたんだけど」
「言ったのかあ……」
 風船がしぼむみたいに紀之の身体から気が抜けた。女子社員のひとりが知れば、それはみんなが知るのと同じことだ。あまりに間の抜けた真相に、ため息が漏れた。
「だって」
 言葉をつなげようとして、春奈は口をつぐんだ。口の中のものを飲み込み、だって、だって、と繰り返す。言い訳よりも先に、涙が目尻から落ちた。
「二年半だよ。ずっと、ひとりきりだったんだもん。紀之さんには家庭があって、家族がいて、仕事が忙しくて全然淋しくないだろうけど、私はずっとひとりだったんだもん。誰にも何も言えなくて、でも誰かに聞いて欲しくて、誰かにわかってほしくて、誰かに、大丈夫だよ、なんとかなるよって言って欲しかったんだもん」
「……」
「私、ひとりだったんだよ」
「俺がそばにいるだけじゃダメかな」
「だって、紀之さん、私の全部なんて受け止められないでしょ。私のこと、両手でなんて受け止めてくれないでしょ。いつも片手だけでしょう。それも、いつも、ほんの少しの時間だけで、終電の前にいつも帰って……」
 春奈は、ずず、と鼻を啜ると、ひとつ深呼吸するように息を吐き、言った。
「これでさようならだね」
「……」
「それか、福岡までついて行っちゃおうかな」
「……」
「って言いたいところだけど、私、もう無理だって思ってる。それに紀之さんも家族で引っ越して、そこに私がついてきたら困るでしょ。紀之さんが困ってる顔、もう見たくないし」
「俺、そんな困った顔なんかしてないよ」
「してたよ。無意識に。この部屋から帰るときとか、私がふたりで旅行したいって言い出したときとか。すごい困った顔していた。今も福岡について行くって言ったら困った顔した」
 
 夕方まで春奈の部屋で過ごして、会社に戻った。
 勝手なもので紀之は、部屋に行くときの電車の中では別れ話になることをあらかじめ想定していたのに、春奈から実際に別れを突きつけられると、帰りの電車の中では、何とかやり直せないかと思い巡らしている。でもその上で、確かに、隙間の時間に部屋で会う以上のことを春奈に求められたとき、彼女のことを煩わしく思い続けてきたこれまでの自分の気持ちも思い出すのだった。
 春奈は結局、俺にとってはただの都合のいい女だった。妻と春奈のどちらを愛しているかと聞かれれば、当然、春奈と答えるが、じゃあ妻と娘との暮らしを捨てられるかと聞かれれば、すぐに首を縦に振ることはできない。もしも春奈が逆上して「奥さんにバラすから」と言い出したら、俺は必死になってそれを食い止めるだろう。
 福岡に行くことで、春奈との関係は終わる。それは紀之にとって大きな喪失であり、反面、大きな安堵でもあった。そんな自分を、紀之は卑怯者だと思った。俺は知らず知らずのうちに調子に乗っていたのだ、とも。
 
 ◆
 
 開始早々のルカクのゴールが引き金となり、試合は前半から一気に乱打戦となった。
 セビージャは前半十二分にデ・ヨングのヘディングであっという間に試合を振り出しに戻すと、三十三分にも同じくデ・ヨングが今度はバネガのフリーキックに合わせて、逆転に成功する。
 しかしインテルもその直後、こちらもフリーキックから、かつてスペインで長くキャリアを過ごしたディエゴ・ゴディンがセンタリングを頭で合わせて同点に追いつく。
 普段なら試合にぐいぐい引き込まれそうなダイナミックな展開だが、紀之はサッカーにまったく集中できなかった。
 
 結婚する前、紀之には学生のときから長く付き合ってきた人がいた。彼女とは遠距離恋愛の末に別れた。
「遠く離れても、電話もメールもあるしいつだって顔を見ようと思えば画面の中で会えるから大丈夫」
 彼女が仕事の都合で東京を離れると決まったとき、ふたりは揺るぎない愛情を確かめ合ったはずだったが、物理的な距離は想像以上に大きな障害だった。
 その彼女の代わりを見つけるようにして付き合いはじめたのが、妻の美由紀だった。
 知り合ったばかりの頃の美由紀は、とてもおとなしい女性だった。いつも男の半歩後ろどころか二三歩後ろを歩くような、控えめな性格だった。紀之がデートに誘えばいつだってついてきた。話をすればなんでも聞いてくれた。あまり会話が弾む相手ではなかったけれど、気づけば美由紀はいつも紀之のそばにいた。
 当時、ブラック企業であることに疑いの余地もないような会社で休みなく働かされ、毎日数字に追いかけ回されていた紀之にとって、美由紀は、砂漠の中のオアシスのような、あるいは休日のデパートの休憩スペースのような、そんな存在だった。そこで得られるやすらぎを、愛情と勘違いしたのかもしれない。一年付き合って紀之はプロポーズをし、美由紀もそれを受け入れた。
 
 結婚前に、相手がどんな人間であるかを正確に把握することは難しい。
 結婚を機に、それまでおとなしかった美由紀は、人が変わったように強情な女になっていった。何かにつけて紀之の意見を退け、自分のわがままを押し通す。子どもが生まれてからは、そこにヒステリーも加わった。紀之は、はじめのうちは真正面からそれに対峙していたが、次第にそのストレスに辟易し、仕事以外のことはすべて妻の言う通りにするようになった。家庭のあらゆる決定権は美由紀が握ることになった。マンションの部屋を買うときだって、娘の受験だって、すべては彼女の意見で決まった。
 自分はこの女を愛していない、と気づいたとき、紀之はもうひとつの事実に気づいた。この女もまた、俺のことを愛していない。
 それでも、毎日の生活は普通に続いていた。仕事を終えてマンションに帰れば、食卓にはラップのかけられた夕飯が用意されている。クローゼットを開けばクリーニングされた清潔なシャツが用意されている。休日も仕事に出かける夫のかわりに、娘の面倒はみんな美由紀が見てくれる。
 愛なんてなくても、紀之はそんな彼女にこれまでずっと感謝をしてきたつもりだ。毎日、ありがとう、と素直に口にしてきた。
 でも結婚してから、紀之は妻から感謝されたことなど一度もない。彼女にとって、紀之という男は、娘との生活を維持するための「インフラ」でしかないのだった。
 紀之が今の会社に転職をしたのは、せめて、仕事にだけは生き甲斐を見出す、そのためだった。
 
 春奈と出会って、紀之が最初に心を動かされたのは、一緒に仕事をして、ことあるごとに「ありがとうございます」と口にするときの彼女の生き生きとした笑顔だった。その表情はまさに春に咲く花のようだった。
 紀之は、若い女の身体が欲しかったわけじゃない。中年にさしかかってもモテる自分に満足したかったわけでもない。ただ、素直に愛情のようなものに飢えていただけなのだ。誰かを好きになりたかっただけなのだ。
 
 セビージャとインテルの試合を眺めながら、紀之は気づく。本当は困った顔を見せたいのは、春奈の方だった。彼女はずっと我慢していたのだ。泣きたいのをこらえて、いつも楽しい顔で、俺のために笑っていてくれたのだ、と。
 
 ◇
 
 ハーフタイムにトイレを済ませリビングに戻ると、物音で目を覚ましたのか、ダイニングの椅子に美由紀が腰かけてグラスで水を飲んでいた。
 朝五時の東の空は薄らと明るい。
「もう起きたのか。俺、今日、土曜だけど会社に行っていろいろ片づけしないと  」
「あのね、昨日の話だけど」
 紀之の言葉を払いのけるように、美由紀は不機嫌な声で切り出した。
「やっぱり、福岡はひとりで行ってきてよ」
「……」
「三、四年って、三年か四年かわからないんでしょう。もっとかもしれないし。引越なんかしたらお金だってかかるし」
 昨夜、家に帰ってから美由紀に福岡転勤が決まったという話をした。
 常務の口ぶりからは、家族円満をアピールする意味でも、一家そろっての転勤を望んでいる様子だった。実際、三年は腰を落ち着けて仕事に取り組まなければいけない。となると統括支部長として出向くのだから、単身赴任では格好がつかない。でもその説明を聞いて、美由紀は、私はそんなの嫌、と一蹴したのだ。
「あの子を転校させるのはやっぱ無理。せっかく入ったんだもん。卒業までは今の学校に通わせたいし、高校もエスカレーターなんだから、それを無駄にするのも馬鹿らしいでしょ。それに、あなたの会社に私とあの子まで振り回されるのは、ちょっと違うと思うし。私、実家と離れるのも嫌だし。だいたいさ、ここのローン払い続けてるのに住まないなんて変な話だし。転職はあなたが決めたことなんだから、あなたひとりで行けばいいじゃない」
 議論の余地はない、という話し方で一方的に切り上げると、美由紀はあくびをしながら廊下に戻っていく。
「俺は」
 紀之が口を開くと、美由紀は振り向き、その続きを聞かずに、
「私ね、とにかく東京離れるの、嫌なの」
 と言った。
「なあ、俺がもし福岡で過労で倒れたり、ひとりきりに耐えられなくなってよそに女作ったりしたら、お前、どうする」
 はあ? と口を開く美由紀のおどけた笑顔は、紀之の背筋を寒くした。
「入院したらお見舞いに行くし、労災の申請するし、浮気したら慰謝料をもらうかな」
 ばたん、とドアを閉めて、美由紀は紀之の目の前から姿を消した。
 
 ◇
 
 後半は、前半とはうって変わって試合が膠着し、同点のままスコアが動かず両チーム一進一退の攻防が続いた。
 
 長年セビージャの司令塔としてチームを引っ張ってきたバネガは、この試合を最後に退団が決まっているという。
「バネガのプレー」と言われて、すぐに映像が思い浮かぶほど、紀之は海外サッカーにのめり込んでいるわけではない。それでも今は、チームを離れると決まっている者から目を逸らすことができなかった。
 秋の訪れを待たず、すぐにやってくるリーガの新しいシーズン、セビージャはバネガの不在を決して大きな喪失にはしておかないだろう。そのポジションには新しい選手がやってくる。あるいはこれまでとは違うアプローチと役割を求められた別の選手が、そこにもともと穴など存在しなかったかのように穴を埋める。
 サッカーの世界は非情だな。
 紀之は思った。
 でも非情なのが当たり前なんだよな。みんな自分のポジションで、その時々の役割を与えられて、黙々とその役割を演じているだけなんだよな。不要になればよそに行く。条件が合わなければクラブを去る。チームメイトは誰もそれを止められないし、止めようともしない。人と人の出会いっていうのは、本来、そういうものなのかもな。
 感情移入を通り越し、その感慨は、限りなく諦念に近いものだった。
 
 七四分、ディエゴ・カルロスが放ったバイシクルシュートがゴール前を守っていたルカクの足に当たり、インテルのゴールネットを揺らして、セビージャに歓喜の瞬間が訪れた。
 試合終了のホイッスルと同時に、白いシャツの選手たちがピッチの上で大きな歓喜の輪を作る。うな垂れるインテルの選手たち。抱き合うセビージャのコーチングスタッフ。全身で喜びを表現し合うセビージャの選手たち。
 紀之の視線は、自然と、バネガとロペテギのふたりを探していた。
 ロペテギはこれで名誉挽回ってとこだな。しかし、よくセビージャはロペテギを起用したものだ。ロペテギもよくスペイン国内のオファーを受けたものだ。スペイン代表、レアル、そしてセビージャ。三つ続けてトップレベルで失敗をしたら、もう同じ場所にはいられないだろうに。彼はそれが恐くなかったのだろうか。すごいメンタルだよな。サッカーの監督をやるような人間ってのは、やっぱり普通の人間とは違うんだ。俺なんかとは  。
 そのとき、ほんの数秒、ロペテギの表情が画面に映った。紀之は息をのんだ。
 ロペテギは泣いていた。
 鼻を真っ赤にして、こぼれる涙を拭っている。周囲の祝福に照れるように笑い返し、安堵したように頬を緩め、そしてまた目にたまった涙を拭っている。
 やっぱり、彼も人間だ。
 俺と同じ人間だと紀之は感じた。
 悔しかったよな。
 よく立ち直ったよな。
 そりゃあ泣きたいよな。
 セビージャのために、そして自分のために。
 俺もいつか、こんな嬉し涙を流すとしたら、いつだろう。どんな涙だろう。
 紀之はそんなことを考えてみた。
 しょっぱくて、甘くて、熱い、きっと人生で一生忘れることのない涙の味。
 そんなものを流す日が、これからの俺の人生にはたしてやってくるのか?
 そのとき、俺は誰のために涙を流すのか。
 
 ◆
 
 午前六時半。
 寝間着がわりのよれよれのTシャツにアディダスの黒いハーフパンツという格好のまま、紀之は顔も洗わずに財布とスマホだけつかんで部屋を出た。
 マンションのエントランスを出て、駅に向かって歩き出す。休日の朝の住宅街にはほとんど人影がない。
 まったく寝ていない上にスマホを操作しながらなので、気を抜くとうっかり電柱にぶつかりそうになる。紀之はスマホを耳に当て、息を整えた。
 やはり応じてはくれないか、と諦めかけたとき、十七回目のコールの後で、春奈が電話に出た。
「おはよう」
「おはよう」
「どうしたの、こんなに朝早く」
「サッカー、見てたんだよ」
「うん」
「ロペテギが勝って、泣いたんだよ」
「え、誰?」
「ロペテギ。ワールドカップの前にスペインの監督クビになった人なんだけど」
「ああ、あの人」
「え、覚えてる?」
「私、紀之さんと一緒に見たもの、みーんな覚えてるよ」
 
 プロのサッカー監督の仕事を引き受ける人たちは、常に不透明な未来に生きている。
 ひとつのチームで何年も指揮を執ることになるかもしれないし、逆に結果を出せずほんの数試合で解雇されるかもしれない。
 彼らは、未来を知らない。
 自分の考えが正しいのかどうかは、結果が出なければわからない。それがどんなに正しいことであっても、結果が伴わなければ誤りとなる。それでも、彼らは前に進む。前に進まざるを得ない。失うことを、怖れない。彼らは愚かだろうか。いや、決してそうではない。
 
「なあ、一緒に福岡に行こう」
 
 ひどくわがままで一方的で、身勝手な話だ。他人から後ろ指をさされても仕方がない。わかっている。いつかまた彼女を傷つけるかもしれない。おそらく妻とは近い将来ひと悶着あるだろう。娘からも軽蔑されるだろう。
 でも。
 紀之はロペテギの涙を見て、思ったのだ。
 心が求めるものを、求めるべきだと。
 
「お願い。もうこれ以上私を振り回さないで」
「一緒に行こう。それで、ふたりで暮らそう」
「……」
「これから、会いに行っていいかな」
「昨日、お別れしたばっかりなのに」
「いいかな」
「……」
「行くよ」
「うん」
 
 電話を切ったとき、紀之はヨーロッパリーグで優勝をしたのが、まるで自分であるような、そんな気がした。
 
 ■

FOOTBALL SHORT NOVELS COLLECTION :
FOOTBALL AND LOVE SONG
Written by Masashi Fujita

memo

無観客開催のヨーロッパリーグ決勝を見ていて、いちばんグッときたのは、試合後のロペテギの涙でした。2018年当時、どんな事情があったのか奥の方までは詳しく知らないけれど、スペイン代表とレアルという強烈なスポットライトの当たる場所で2度も、それも立て続けにショッキングな解任劇を経験し、心が折れても仕方ない、そんな男が、こうして輝かしい舞台で結果を残して流す嬉し涙に、なんだかこっちももらい泣きしてしまいそうでした。不名誉なレッテルとともに生きるしかなくなっても、再びサッカーに挑戦したロペテギは、きっと本当にサッカーで生きていくことが好きなんだな、と感じたのでした。そして、ひとりの中年男が心に従って生きてみる、そんな話を作りたいと思いました。女の人の多くはこういう話、嫌いかもしれないけれど。