#25

ディエゴ・オム
His Hero, Diego.

読了時間:約10〜15分

 なんでもない平日の朝に、昔付き合っていた恋人の夢を見た。ユウヒ。懐かしいのか、哀しいのか、それとも嬉しいのか、目が覚めた途端に内容も感情もすべて忘れ、ただ彼の表情だけが解像度の粗い昔の画像のように記憶の端にぼんやりにじんでいる、そんな夢だった。
 
 ◇
 
 手探りでメガネのつるをつかんで耳にかけてから、朝の光に馴らすようにゆっくり目を開ける。いつもアラームで目を覚ます時間よりも少し早い、薄暗い朝だった。スマホで時刻を確かめ、アプリを開いてニュースのヘッドラインを眺める。
 
 《 サッカー、マラドーナさん死去 》
 
 マラードナ。腫れぼったい唇を無意識に動かしながら、その見出しをタップする。
 
 《 サッカー、マラドーナさん死去 元アルゼンチン代表、60歳 11/26(木) 1:34
 
 史上最高のサッカー選手の一人、元アルゼンチン代表のディエゴ・マラドーナさんが25日、ブエノスアイレス近郊の自宅で死去した。同国メディアによると心不全を起こしたという。10月30日に60歳になったばかりだった。左頭部に硬膜下血腫が見つかり、11月3日に手術を受けていた。アルゼンチンのフェルナンデス大統領は、同国が3日間の喪に服すると発表した。 》
 
 ◇
 
 十年と少し前、私はフランスのパリ郊外の小さな街を、ユウヒと一緒に歩いていた。そしてその街の映画館で、マラドーナのドキュメンタリー映画を見た。
 そう、あのマラドーナだ。
 ユウヒの夢を見たこととマラドーナが亡くなったことが、私の頭の中で手をつなぐようにリンクする。ユウヒがマラドーナの訃報をわざわざ伝えに来たような、あるいは、マラドーナがユウヒを連れてきたような。
 まもなく鳴りはじめるスマホのアラームをいったん解除してから、ぎりぎりまで横になっていられる時間に設定し直し、私はかけたメガネを外して再び瞼を閉じた。
 
 ◆
 
 ユウヒは《DIEGO HOMME》という若者向けのメンズブランドを運営するアパレルメーカーの経営者だった。
 私より八つ年上で、出会ったとき彼は四十間近のバツイチの独身男だったけれど、そんじょそこらの四十男とは違って若々しく、見た目もスタイルもよく、何より身につけているものにセンスのよさがほとばしっていた。
 友達から紹介され、彼が服のブランドのオーナーをやっていると聞いて、私は納得すると同時に尻込みをした。
「俺ね、自分の服でいつか世界を変えたいんだよ」
 野心が眩しすぎた。これは自分には手の届かない、高嶺の花の男版みたいな感じだ。せっかく紹介してもらったけれど、連絡先を交換してそれで終わりになるだろう、と思った。
 ところが、どういうわけか、彼の方が私を気に入ってくれた。
 知り合って一ヶ月経った頃、私は、都心の高層マンションの高層階にある彼の部屋に自由に出入りできる、社長の女、になっていた。
 
 ◇
 
 ユウヒの脚には、たくさんの傷痕があった。
 とくに膝から下の、脛の外側あたりにそれは集中していて、左の足首の裏側には手術痕のような、肌の色の変色した数センチの皮膚の盛り上がりもあった。
「昔、怪我したんだ。学生のときバイク乗ってて事故っちゃって」
「今も痛かったりするの?」
「いや、全然。でも人に見られるのがいやだから、夏になってもサンダルとか履けない。温泉とかスーパー銭湯で脱ぐのも抵抗がある。なんていうか、ちょっとしたコンプレックスかな」
 私は、太い木の幹のように筋肉質で傷だらけで浅黒い彼の脚が好きだった。でも彼は、私がそれに触れることを嫌がった。
「えー、全然気にならないよ。そんなこと言ったら私なんか、もう全身、コンプレックスの塊だよ。なんの取り柄も才能もない、ただの安いグルメライターだし、スタイルも悪いし、似合う服も限られてるし」
「そんなことないよ。俺、ユミちゃんが好きだよ。一緒にいると安心するし、すごく楽しい。文章書けるなんてそれだけですごいと思うし、似合う服だっていっぱいあるよ」
「でもユウヒさん、仕事でキレイな人にいっぱい会うでしょ。実際、モデルさんとかにもモテるでしょ。私、勝てる気しないよ」
「あいつらは、ただ仕事が欲しくてすり寄ってくるだけだから」
 
 ◇
 
 付き合ってみると、ユウヒは案外、普通の人だった。
 それに華々しくきらびやかに見えていたアパレルの世界も、光源の裏側に回ると、実は自分の普段いる世界とたいして変わらない、薄暗く地味で埃っぽい場所だとわかってきた。
 実は私たちが付き合いはじめる少し前から、彼の会社は経営に苦しんでいた。
 ファストファッションの台頭で若者が服にお金をかけなくなり、真っ先にそのあおりを受けたのが、彼がやっているような、小さな、それでいてTシャツ一枚が一万円もするような単価の高いブランドの服だった。
 彼ははじめ、そんな素振りは見せないようにしていたけれど、一年、二年と付き合っていくうちに隠しきれなくなり、そのうち「いま会社が大変だから」の台詞は、ふたりの会話の定型文のようになっていった。
 いま会社が大変だから、しばらく会えない。
 いま会社が大変だから、休みが取れない。
「でもさ、俺らには俺らのプライドがあるし、こういう服を着たいって子は一定数、どんな時代もいるんだよ。飯食う金があるなら服を買う、って子がさ。今は確かに会社は大変だけど、このグローバルの時代、市場は日本だけじゃないと思うし、そのうちきっと  」
 
 ◇
 
 でも付き合って四年目の春、彼の会社はいよいよ倒産寸前まで追い詰められた。
 そのときにはもうすべてが空回りしていた。それまで一緒に仕事してきた彼の仲間は次から次へと会社を去り、倉庫には未納品の在庫が山と積まれ、なのに直販店には売るものがほとんどなく開店休業状態という、傍目にも、このブランドはもう終わっているとはっきりわかる状態だった。小さな会社でも、借金の額は大きかった。
 それでも、彼は意地を張り続けようとした。
「来期はコラボで行こうと思ってる。ミュージシャンとかアーティストに声かけて、新作はファンの子たち向けの受注生産に限定するんだよ。それなら無駄なコストはカットできるし  」
 私は、仕事のことについては何も口出しをすまいと決めていたけれど、そのうち彼が筋の悪い債権者につきまとわれるようになり、寝室の机の抽出に大量の睡眠薬を見つけたとき、とうとう黙っていられなくなった。
「もう、ダメだよ。無理だって。ずっとこんな状態で東京にいたら、ユウヒ、死んじゃうよ。付き合いはじめたときから何キロ痩せた? 休もう。どこか遠いところに行って休もう」
 私は彼から携帯電話を取り上げ、無理矢理、彼を飛行機に乗せた。とりあえず借金取りが追いかけてこない、仕事の電話もかかってこない、遠いところへ連れて行って休ませないと。
 そう、あのフランス旅行は、逃亡劇だった。
 
 ◇
 
 最初の一週間、私は彼をパリのいろんな場所に連れ回した。
 美味しいものを食べ、観光地をめぐり、美術館を見て、買い物をし  ただし洋服の世界から距離を置くためにブランドショップに足を向けることは避けた  、彼が仕事を忘れるように努めた。
 お金は私が用意した。社会人になってから細々と毎月積み立てていた定期預金を解約し、そのほとんどを成田でユーロに替えた。
 日本に帰れば、彼も私もすっからかん。
 飛行機の中では頭を抱えていたユウヒだったけれど、シャルル・ド・ゴール空港に降り立った途端にあきらめがついたのか、パリの高級ホテルにチェックインしてからは、私の提案のすべてに従ってくれた。ほとんどやけっぱちな気分で、それまでの鬱憤を晴らすかのように、私たちはパリで豪遊しまくった。
 
 ◇
 
 旅は二週間の予定だった。
 予約してあった帰りの便まで、あと数日という頃になると、ふたりとも遊ぶことに疲れ果て、すっかりパリに飽きてしまった。
 というより、その行為がどんなに馬鹿馬鹿しく非生産的で、なにより残酷なものであるか、旅の終わりが近づくにつれて自覚せずにはいられなくなってしまった。夢は醒めようとしていた。
 ある朝、私たちはパリを離れ、郊外の街に移った。
 そこは静かなところだった。老夫婦が営んでいるこぢんまりとしたホテルに宿をとり、ふたりで午前中から石畳の街を歩いた。観光なんて半日で済んでしまうような狭い街だった。
「なんか、パリよりこっちの方が落ち着く」
「そうだね」
「俺が高校まで住んでたとこが、こんな感じだったな」
 カフェでテイクアウトしたコーヒーを、道ばたのベンチですすりながら、彼が言った。
「空が広くて、緑が多くてのんびりしてて、少しチャリ乗ると畑とか広い公園があって。お洒落なヤツなんかひとりもいなかった」
「高校生のとき、ユウヒは何してたの?」
「サッカー」
「え、前、帰宅部って言ってなかった?」
「部活はやってなかった。帰宅部なのは正しいんだけど、クラブチームに入ってサッカーしてた」
「へえー、知らなかった。三年も付き合ってんのに。教えてくれないなんて」
「ごめん。サッカーは正直、俺の中で挫折の歴史っていうか黒歴史っていうか、あんま思い出したくない過去だから、言いたくなかったんだ」
 故郷の景色を思い出しながらぽつぽつと話しはじめた彼は、東京にいたときともパリにいたときとも違う、穏やかな表情をしていた。ようやく、肩の荷を下ろす決心がついたのかな、と私は感じた。
「高校のときさ、俺、ジャージしか着てなかったのよ、毎日。薄紫の、ここに白い線が入ってるだっさいジャージよ。でもみんなそんなもんだったから、それが当たり前だったんだよ。だけど大学入って、三年のときにサッカーやめて、そんでふとまわりを見渡したらさ、俺、まじでださいのね。立て続けに好きな女の子にフラれて、それでようやく気づいてさ。それからはファッション雑誌買い漁って、バイトして服買って、そしたら今度はそれが楽しくなっていって  」
「それで今度はそっちに夢中になったんだ」
「わざわざ家賃高いの我慢して渋谷に引っ越してさ。マラドーナだバッジョだって言ってたのが、ギャルソンだマルジェラだ、に変わったわけ。つーかさ、フランス来て、フランス語どころか英語もまとも話せないんだって俺、今頃わかった。あんときと一緒だなあ。そんなヤツがでっかい夢見て、いつか世界進出したいとか、俺のデザインで世界を変えるとか、そんなん、できるわけないよな。いや、最初から無理なのはわかってたんだ」
「でも、ユウヒの作る服、私、好きだよ」
「ありがと。でも、ここまでだよな」
 
 ◇
 
 それからしばらく街を歩いて、ひまだから昼寝でもしようかとホテルに戻りかけたとき、ちょうど映画館の前を通りかかった。
「ああ、ひまつぶしなら映画もいいかも」
「でも言葉わかんないし、日本語の字幕なんてないよ」
 建物の外壁に貼られたポスターの前を横切ろうとして、ふと、ユウヒが足をとめた。
「どうしたの?」
 視線の先には、土色の煉瓦を背景に、白と水色のシャツを着たサッカー選手らしき姿が描かれたポスターがあった。
「これ」
「MARA  マラドナ?」
「マラドーナ。これなら、言葉わかんなくても見れる。あ、でもユミはサッカーなんて興味ないか」
「別にいいよ、どうせひまだし。つまんなかったら私、昼寝してるから。てか、マラドーナって聞いたことあったけどサッカーの人なんだね」
「え、知らなかったの?」
「知らないよ」
「じゃあ教えてあげるよ。俺らの世代にとってはヒーローだから」
 
 ◇
 
 教えてあげる、と言ったくせに、ユウヒは映画がはじまって十分もすると横ですうすう寝息を立てはじめた。
 それは彼が期待したような、サッカーの名場面が繰り返される映像集ではなくて、案外地味なドキュメンタリー映画だった。ひとりの映画監督がマラドーナや彼の熱烈な信奉者たちを追いかけ、彼らにインタビューし、過去のプレー映像をときどき差し挟みながら、マラドーナという存在に迫る、そんな作品だった。
 字幕がないからマラドーナが何をしゃべっているか皆目わからなかったし、退屈に感じる時間も長かったけれど、私はそれを最初から最後まで見た。
 現役時代のプレーの映像は粗く、色も褪せたように掠れていて、それがすごいプレーなのかどうか、私にはよくわからなかった。
 今思い出すと、私の記憶に残っているマラドーナのプレー映像は、ケネディ大統領暗殺の瞬間のあの有名な映像と同じような類いのものに感じられる。強烈なのに実感のない、それでいて記憶からはけっして消えない、なんだか特異なもの。
 
 ◇
 
 映画館を出ると夕方だった。でもフランスの空はまだ明るかった。
 夕飯どうしようか。なんかそろそろ日本食が食べたいよね。ラーメン屋とかないかな。ラーメン屋はさすがにパリまで戻らないとないでしょう。なんて言い合いながら、それからまた、私たちはぶらぶらと街を歩いた。
 ホテルに戻る途中、私は石畳のちょっとした段差に躓いてバランスを崩し、子供みたいに派手に前のめりに転んだ。
「やだ、恥ずかしい」
 彼は私を抱き起こすと、脱げて道に転がった靴を拾い上げ、言った。
「これ、靴が悪いよ。ほら、底のこの部分だけがこんなに磨り減ってる。だいたいこんな貧弱なパンプスでよくずっと歩いていられたね」
 そして私をその場に残して靴屋を探し歩き、日本でも売っているプーマのスニーカーを一足買ってきてくれた。そういえば、その旅行で服に関係するものを買ったのは、それだけだった。
「俺ね、サッカーはじめたの小学生のときなんだけど、親に一番最初に買ってもらったのがプーマのマラドーナモデルのスパイクだったんだよ。親が『いちばんいいスパイクをください』ってお店の人に言ってさ。でも初心者でサッカー下手なのにマラドーナ履いてるってまわりに冷やかされて、俺、恥ずかしくて」
「そうなんだ」
「だから上手くなりたくて、すげえ練習したの。こんなスパイク恥ずかしくて履けないって言ったらさ、親が悲しむじゃん。だから、マラドーナが似合うように上手くなるしかないって思って。でもさあ  」
 少し言いよどんでから、彼は言った。
「マラドーナみたいになりたいって、途中でどこかで勘違いしちゃったんだよね。ちょっと上手くなったら調子に乗って、10番なんかつけてさ。それからはずっと、俺イケてるって思い込んでたんだな」
「それって勘違いなのかな。違うんじゃないかな。男の子なら誰だってそういうのを夢見  」
「いや、勘違いだったんだよ」
 
 ◇
 
 その日の夜、私とユウヒはフランスに来てからはじめて、ふたりで抱き合って寝た。
 パリではツインの部屋の別々のベッドにそれぞれ寝ていたし、もっといえば東京にいるときからもう半年近く、彼とは肌を合わせていなかった。彼は仕事で毎日疲れていたし、私もまた、そんな彼からストレス発散みたいな抱かれ方をされるのが嫌で、避けていた。
 久しぶりの行為が終わってから、私は彼の左足首の手術痕に触れた。
 大学生のとき、バイク事故で手術した、と聞いていたそのアキレス腱の傷痕が、その夜は、彼にとってそれ以上の大きな意味を持つ手術痕であることを、私はもう説明されなくてもわかっていた。
「これのせいなんでしょ。大学三年でサッカーやめたって」
 くすんだ桃色と茶色を混ぜたような、その盛り上がりを私は指で丁寧に撫で、それからそっと唇をつけ、舌で舐めた。ユウヒは嫌がらなかった。それどころか、甘いため息をついた。
「気持ちいい?」
「うん、あったかい」
「もう恥ずかしがらないの?」
「本当はさ、やめたくてしょうがなかったんだよ、サッカー。大学入って、あ、俺、このレベルじゃ敵わないんだってすぐわかったんだけど、サッカーしたくて大学選んだ手前、意地張って、やめられなくて。だから怪我したときは正直、ホッとした。これでサッカーから逃げられる、誰からも責められずに逃げ切れるって」
「それは、恥ずかしいことじゃないよ」
「なんか、あんときのバイク事故みたいなもんだな、今、ユミとフランスにいるの。ありがとう。俺、覚悟できたよ。今日さ、映画に出てきたマラドーナ、普通のおっさんだった。俺、あんなに憧れてたのに、なりたいって思ってたのに、もう全然、マラドーナになりたいって思えなかった」
「マラドーナは悪くないよ」
「うん、マラドーナは何も悪くないよ。むしろ、俺、マラドーナかわいそうだなって思った。なんだろ、変な話だけど、やっと俺、大人になれる気がする」
 
 ◇
 
 日本に帰国してからの彼は、会社を畳むために奔走した。
 方々に頭を下げまくって、法的な手続きをして、マンションの部屋を引き払い、無一文になって、そして、私と別れた。
 
 ◇
 
 ユウヒが別れ話を切り出したとき、私もまた、すでにその覚悟ができていた。好きじゃなくなったとか、必要ないとか、別の誰かを好きになったとか、そういう理由じゃないことはわかっていたから、私はそれを受け入れた。それが彼が彼の人生をやり直すための道だと思った。本音をいえば、そばにいて俺を助けて欲しい、と彼に言われたかったけれど。
「いつか、また出会い直せたらいいね」
「そうだね。俺がちゃんと、ユミと付き合えるような男になったら」
「それはいつの話?」
「十年後かもしれないし、百年後かもしれない。待たなくていいよ」
「待てないよ、そんなの」
「うん、よかった。俺のことは心配しないで。もうマラドーナになりたい、みたいな夢は持たないから」
「いいんじゃない? 夢くらい、持ったって」
「借金、全部返済してからにするよ」
 
 ◆
 
 あれからとうに十年が過ぎている。
 《DIEGO HOMME》の服は、今はもうどこにも売っていない。ネットオークションやメルカリでも見つからない。ユウヒの夢は、あとかたもなく消えた。
 私はといえば、あのときのユウヒと同じくらいの年齢になった。
 まだ結婚をしていないし、子どももいない。相変わらず、あの頃と同じようにひとりで細々とグルメライターの仕事をして生きている。変わったことといえば、雑誌の仕事がほとんどなくなって、単価の安いウェブの仕事ばかりになったことくらいか。
 こうやって毎朝ひとりで目を覚まし、ニュースをチェックして、頭の中でその日の仕事のスケジュールを確認しながらベッドを出て、コーヒーを沸かし  
 ユウヒは今、どうしているんだろう。
 いつもの朝のはずなのに、マラドーナの訃報に接したことで、いつもの朝ではなくなった。
 今、かつての憧れを失った彼は何を感じているだろう。もしかしたらまだ朝のニュースを見ていないかもしれない。
 
 《マラドーナ、亡くなったね。》
 
 何も考えず、指先だけを動かした。別れてから一度もつないでいない彼の電話番号に、ショートメールを送信してみる。
 返事なんかなくていい。届いてさえいれば。彼が見てくれれば。彼がちゃんと生きてさえいれば。もう何かから逃げることや、何かを追いかけることで苦しんでいなければ。ほんの一瞬でいいから、あのふたりのフランス旅行を、私のことを、思い出してくれれば。
 コーヒーを半分まで注いだマグカップに口をつけたとき、スマホが震えた。
 手を伸ばした瞬間に、あ、と気づく。そうか、彼のあのブランドは、マラドーナのファーストネームから名付けたんだ。今頃になって気づくなんて、私はずいぶんとまぬけだ。
 通知画面に彼の名前が浮かんでいる。
 彼の夢が、どんなかたちでもいいから、どうか続いていますように。もうあのときの彼ではなくても、あのときの彼でありますように。
 私は祈るような気持ちでその名に触れた。
 
 ■
 
 文中引用:
 共同通信記事11/26(木) 1:34配信

FOOTBALL SHORT NOVELS COLLECTION :
FOOTBALL AND LOVE SONG
Written by Masashi Fujita

memo

マラドーナの訃報に接して、たくさんのニュース記事に目を通して、まずその存在の強烈さを改めて感じました。少年時代、その名をはじめて知ったときから、プレーの映像を実際に見る前から、すでに「サッカーの神様」だったマラドーナ。「神様」には、生きていること死んでしまったことを超越する、本当に強烈な、すさまじく屈強な、ずっしりとした存在感があります。もはや神話とかフィクションに近い。太陽のように眩しく、そして眩しすぎるがゆえに想像すらできない、背後の影の濃さ。凡人に、マラドーナを理解することなどできないのです。マラドーナで何か一本書くなら、マラドーナから遠く離れた場所の、憧れと挫折の物語にしたいと思いました。男は光に憧れて、そしていつかそれが自分には手の届かないものだと知る。どんなかたちであれ、年齢がいくつであれ、多くの男たちが人生で一度は迷い込む場所の話、のつもりです。