#27

クロップメガネと、ウォークアローン
Walk alone with Klopp's glasses

読了時間:約10〜15分

 知沙にとって、これは新しい恋である。
 仕事で知り合った取引先の男と、薄暗い都内のバーでふたりきりで飲んでいる。
 初老のバーテンがシェイカーを振る、クラシカルな雰囲気の、ふたりの年齢にしては少し背伸びをしたような店。でもだからといって緊張するほど若くはない。知沙は二七歳で、彼はそれより五つ年上である。
 
 まだ夕方といってもいい時間帯だが、一都三県に発令された緊急事態宣言下、店はまもなく八時で看板となる。
 ふたりは店を出て、駅前でささやかに手を振り合うこともできるし、そのまま知沙の、あるいは彼の部屋で飲み直すこともできる。どちらを選んでも不自然ではない。立ち止まっても、前に進んでも、後退しても。それで仕事の取引に支障が出るということもない。
 途中まで、ふたりはいい雰囲気だった。終電間際のような空気をまとい、お互い、少しずつ肩を寄せ合ってカウンターに並んでいた。
 男が今夜、彼女をものにしたいと思っているのは間違いのないことだったし、知沙もまた最後の一杯を傾けながらそのことを考えていた。そしてそれは、昼間の仕事の上でのやりとりよりも確実なコンセンサスを形成しつつあった。そう、互いの趣味の話になり、
「俺、サッカーを見るのが好きなんだよね」
 と彼が口にするまでは。
 
 ◇
 
「サッカーって、Jリーグ? 海外?」
「ヨーロッパ」
「プレミア? リーガ? ブンデス?」
「お、詳しいね」
 女が男の趣味に  センターバックがバイタルエリアに切れ込むような意外さで  食いついてきたときの常として、男は知沙の背後に知らない別の男の影を警戒しながら、答えた。
「ほぼプレミアのみ」
「どこが好きなの?」
「子どものときからずっとユナイテッド」
「ふうん」
 ユナイテッド、という呼び名だけで通じることに男はさらに警戒を強め、一方、知沙もまた、ユナイテッド、という単語に自分でも驚くほど敏感に反応していた。
「ユナイテッドかあ……。ブルーノ・フェルナンデス、いいよね」
「おお、知ってるねえ。え、サッカー見てんの?」
「私、あんま強くないユナイテッドしか知らないけど、昔はすごく強かったんでしょ」
「サー・アレックスの時代はね。昔は最強だったよ。ベッカム、スコールズ、ギグス。ルーニーが入ってきて、リオもいて」
「ロナウドも」
「そう。ファンニステルローイもいたし」
「誰それ知らない」
 そのとき知沙の頭の中で、横にいるこの男と今夜これ以上先に進むべきかどうかという問題は、単純な恋の駆け引きとはまた別の問題に変わっていた。
「あのさ、悪いんだけど」
「ん?」
「私、サッカーが好きな男とは付き合わないことにしてるんだよね」
「は?」
 いきなりの知沙の言葉に、男は目をぱちくりさせて顎を突き出した。
「なにそれ、何かトラウマでもあんの?」
「しかもユナイテッドって……」
「え、だめ? もしかしてシティとかリバプールの熱烈なファンだったりする?」
「シティはどうでもいい。レッズは大嫌い」
 サッカーが好きな男をもう好きになんかなるものか。そう自分に言い聞かせるために、知沙はグラスの底に残った甘い液体を勢いよく喉に流し込んだ。
 もしもこの男と関係を持つとしたら、それは忌避すべき悲劇の繰り返しか、もしくは、復讐劇のどちらかだ。
 
 ◆
 
 知沙が原田くんに会えるのは、土曜の夜だけだった。
 
 原田くんはひとつ年下の若い歯科医で、普段は東京から二時間ほどの地方の町に暮らし、その町の大学病院に勤務していた。
「いつか東京でメンテナンス専門のクリニックを開業したいから」という理由で、大学勤務が休日の週末にわざわざ上京し、休日診療に積極的な東中野のS医院にアルバイトで通ってきていた。
 最初は、女性の歯科医師が産休に入ったため、その補充要員として院長の後輩の若いドクターがヘルプに来る、という話だった。どんなドクターだろうね、と他の衛生士や受付の子たちと噂し合ったのが懐かしい。知沙は、そのクリニックで歯科衛生士として働いていた。
「先生の大学の後輩の子らしいよ」
「まだ研修医終わったばかりだって」
「東京までの交通費はこっちが出すの?」
「えー、そりゃそうでしょ」
「若いけど奥さんいるらしいよ」
「え、もう結婚してんの? 早くない?」
 そのときは、まさかそのドクターに恋をするだなんて、知沙は思ってもみなかった。
 
 ◇
 
 知沙と原田くんの関係がはじまったのは、彼がS医院で勤めて三ヶ月が経った頃だった。
 原田くんの担当は土曜午後と日曜午前の診療で、そのために彼は土曜の朝に東京へとやってきて、日曜の夕方、自宅のある町へと帰る。
 最初に関係を持った次の週末から、彼はそれまで使っていた新宿の安いビジネスホテルにはチェックインだけして、仕事が終わると幡ヶ谷にある知沙の部屋にやって来るようになった。
「俺にとっては土曜の夜だけが唯一、身も心も解放される時間だよ」
 原田くんは知沙のベッドでそう言った。
「身も心もなんて大袈裟な」
「いや、平日大学勤務して休みの日もバイトって、疲れるんだよ、まじで」
「若いから頑張れるんだよ」
「まあ、少しでも多く金、貯めとかないとね」
「身も心もか。ボディアンドソウルだね」
 そう言って、原田くんはずっと昔のSPEEDの曲を音程の外れた声で歌った。
 
 付き合いはじめてから二ヶ月後、知沙はS医院を辞め、別のクリニックに職場を変えた。
 もしも万が一、院長や同僚に感づかれたり、大学や奥さんにばれるとまずいことになる。噂が立つ前に、回避できるリスクは回避しておきたかった。働きやすくて気に入っていたクリニックだったけれど仕方がない。都内には歯科衛生士の働き口なんて、腐るほどある。
 
 ◇
 
 高校までサッカー部だったという原田くんは、海外サッカーを観戦するのが生き甲斐だった。特にプレミアリーグの、リバプールという名門チームの熱心なファンだった。
「歯医者になっていちばん困るのは、長期休暇がとれないこと。ヨーロッパ、まじで行きたいんだけど行けない。いつか開業する前に一度でいいからアンフィールドに行きたいんだよなあ」
 
 サッカーの試合は、原則、週末に行われる。
 だから週にたった一度きりのふたりの夜は、そのほとんどがサッカーとともにあった。
 深夜のキックオフの時刻に合わせて、食事もテレビもお風呂もセックスも睡眠も、みんな予定が決まっていった。
「最後にプレミアで優勝したのは、一九九〇年なんだよ。俺、だから一度も優勝シーン見たことないわけ」
「え、九〇年って、私が生まれる前じゃん。昭和?」
「いや、ぎり平成。だからさ、もう三十年も俺らは煮え湯を飲まされ続けているわけよ」
「煮え湯って。ちょっと意味ちがくない?」
「いや、サポーターからしてみれば、今年こそって何度も信じて、全部裏切られてきてるから。ぐっつぐつの煮え湯よ」
 リバプールといわれても、最初はイギリスのどこにあるかも知らず、唯一リンクするのはビートルズくらいだった知沙に、原田くんはとても熱心にその素晴らしさを語り続けた。
 スティーブン・ジェラードの動画は数え切れないほど見せられたし、フェルナンド・トーレスの話も、マイケル・オーウェンの話も何度も聞かされた。チャンピオンズリーグ決勝のPK戦で見せたイェジー・デュデクのゴールライン上でのダンスの動画が、彼のお気に入りだった。
 サラー、フィルミーノ、マネ。
 カールスバーグを飲みながら、恋人の名前よりもたくさん、彼らの名前を口にするのが、ふたりの土曜の夜のお決まりの過ごし方だった。
 
 ◇
 
 原田くんは知沙の部屋に、パジャマ代わりの赤いTシャツを置いていった。わざわざイギリスのショップから通販したというそのオーバーサイズ気味のLサイズの胸には、You’ll Never Walk Alone.のフレーズが白くプリントされていた。
 恋人が帰った日曜の午後、そのTシャツを洗濯をして、干して、畳むのが、知沙の習慣だった。毎週それを繰り返すたびに、レッズを愛する人々を支えるその言葉は、知沙にとっても特別な言葉になっていった。
 You’ll Never Walk Alone.
 ひとりじゃないよ。
 知沙の頭の中に、原田くんの声が響く。
 
「うちの夫婦は全然うまくいってないから」
 一度だけ、知沙は原田くんの口から奥さんの話を聞いたことがあった。
「うちの奥さんも衛生士やってんだけど、実家が歯医者なんだよね。そういうのもあって結婚したんだけど、まだ俺、若かったんだよね」
「じゃあいつか、原田くんが奥さんの実家を継ぐことになるの?」
「そうしろって言われてるんだけど、俺は俺で東京でひとりで開業したいってのが本音。そのつもりで今バイトしてるわけだし」
「そうなんだ」
「俺、いつか別れてこっちに来ることになると思う」
 知沙は、月曜から金曜までの  正確には土曜の夜以外の  恋人の生活に触れることができない。
 東京で生まれて育ち、地方の町になどろくに見たこともない知沙にとっては、いくら思い浮かべてみても、彼が普段、どんな景色の中で、どんな自宅で、どんな人たちと生きているのか、上手に想像することができなかった。
 
 会いたいけど会えない。
 土曜日まで待てない。待ちきれない。
 そう思い詰めて苦しむ夜もあった。
 そんなとき、知沙はスマホで無料で読める漫画やネットフリックス、録りためたドラマ、ネットゲームといった虚構の世界に逃げ込んで、孤独を忘れようと努めた。そして、いつか奥さんと別れて東京に来る  その彼の言葉を信じようと、必死に思い続けた。
 You’ll Never Walk Alone.
 ひとりじゃない。
 ひとりじゃない。
 そのフレーズが未来形であることが、知沙にとっての救いだった。
 
 ◇
 
 次はスパーズ戦、ヴィラ戦、そして大一番のシティ戦  原田くんと付き合いはじめて、知沙はプレミアリーグの日程に詳しくなった。
 リバプールの試合が土曜ではなく日曜の夜に組まれているときだけ、原田くんを独占できるので、その夜が来るのをずっと楽しみに過ごすのだ。
 ときどき、金曜の夜や平日に試合が組まれることもある。そんな夜はひとりでも部屋で試合を流すようになった。彼が契約しているDAZNのパスワードは、知沙のiPadにしっかり記憶されている。
 リバプールが勝てば、彼にLINEを送った。
 《私も見てたよ。アリソン、神だね》
 《いやー、内容は悪かったけど、こういう試合で勝ちきるのは強くなったってことだよ。アリソンもファンダイクも、まじで来てくれてありがとう!》
 いつも知沙とメッセージのやりとりをするときはスタンプなんて使わないくせに、アリソンとファンダイクにはアニメのキャラからハートが飛び出すスタンプを使う原田くんのことが、なんだか無性にかわいくて愛らしかった。
 知沙は知っている。男が好きなものを好きになれば、男は自分を大切にしてくれるということを。
 リバプールが勝てば一緒に喜び、負ければ一緒に悔しがる。そうすることで、ふたりの距離も時間も埋められると信じた。
 いつか、ふたりでアンフィールドに行きたい。そんな夢も見た。あのスタンドで、赤いシャツを着て、赤いマフラーを掲げて、You'll Never Walk Aloneを一緒に歌いたい。
 
 ◇
 
 原田くんの誕生日に近い冬のある土曜日、知沙は彼にプレゼントを手渡した。真っ赤な包装紙と真っ赤なリボンは、もちろんレッズを意識してのものだ。
「これ、メガネなんだけどさ、よかったらお店にレンズの度数だけ測りに行って、それでこの部屋に置いておきなよ」
 原田くんは知沙の部屋で過ごすとき、いつも使い捨てのコンタクトをつけっぱなしにするか、あるいは裸眼で見えにくそうに過ごしていたから、ずっと気になっていたのだ。歯科医は職業柄、ただでさえ目に負担がかかる。
「うわ……」
 リボンを解き、包装紙を丁寧に開けて、ケースからメガネを取り出したときの原田くんの、ぱっと花が咲くような笑顔が忘れられない。
「何これ、やばいじゃん」
「でしょ、やばいでしょ」
 フレームが透明の、ウェリントン型メガネ。
 しかもそれはユンゲル・クロップが使用しているものと同じメーカーである。
「うわー、まじか! ウケる! すげえ!」
 そのメガネが彼に似合っているかといえば、それは微妙なところだったけれど、そんなことはどうでもいい。
「俺、こんなに素敵なプレゼントもらったの、人生ではじめてかもしれない。ありがとう。大事にする」
 
 ◇
 
 新型コロナウイルスで中断したプレミアリーグが再開し、リバプールが三十年ぶりの優勝を決めたのは、六月の平日の夜だった。
 リバプールは試合のない日だったが、二位のシティがチェルシーを相手に勝ち点を落とし、それによってリバプールの順位が確定した。
 《優勝、決まったね、おめでとう》
 《最後は試合に勝って決めたかったけどね。まあでも、嬉しいよ》
 知沙は原田くんと一緒にリアルタイムでお祝いをしたかったけれど、こればかりはどうしようもない。
 それどころか原田くんは大学から都内への移動を禁止され、三月の終わりからしばらく顔を合わせることすらできないでいた。
 《今度来たとき、お祝いしようね》
 《盛大にね》
 《私も記念にユニフォーム買おうかな》
 《いいね! 誰の買う?》
 《アレクサンダー・アーノルドか、ジョーダン・ヘンダーソン》
 《素敵すぎる》
 LINEのメッセージだけでは物足りなくて、知沙は通話のアイコンを押した。ほんのひとことだけでもいいから、彼の喜ぶ声が聞きたかった。
 でも、呼び出し音はいつまでも呼び出し音のままだった。二十回目のコールを数えてから、切った。かけ直してくるかと思ったけれど、彼から電話がかかってくることはなかった。
 
 ◇
 
 七月に入った最初の土曜日、ようやく原田くんが知沙の部屋にやってきた。
 プレミア制覇を祝ってカールスバーグで乾杯をし、それまで会えなかったぶん、さんざん抱き合って、それから夜のしじまの中で彼は言った。
「Sでのアルバイト、今月で終わることになったよ」
「え」
「あと三回か四回かな」
「なんで? コロナで?」
「それもあるけど、今日、先生と話してさ」
 育休を取っていたドクターがいよいよ復帰することになったという。もともと彼はそのヘルプとして雇われたのだった。それにコロナ感染を避けるため、大学からも県外でのバイトを控えるように釘を刺されたらしい。後期に入る前に学内での異動もありそうだ、と彼は続けた。
「だから東京じゃなくて、バイトは地元ですることにした」
「じゃあもうここに来ないの?」
「いや、来るよ。コロナが落ち着いたら、何か口実見つけてまた来るよ」
「本当?」
「とりあえず今月はまだ勤務あるから、土曜日、ちゃんと来るから」
「淋しい」
「まあ、いつまでもあそこでバイトってわけにはいかないし。それはわかってたでしょ」
「それはそうだけど。でも淋しい」
「俺も」
 
 ◇
 
 ふたりの最後の夜は、プレミアリーグ最終節の前の日だった。必ずまた来るよ、と原田くんは言った。
「妻とは遅かれ早かれ別れるから。その話し合いをそろそろはじめようと思ってる。時間かかるかもしれないけど、離婚が成立したら、俺、大学辞めてこっちに引っ越してくるから。それでまずはどこか都内のクリニックで勤務医やるよ」
「それって、いつ?」
「わかんないけど、二年以内くらいには」
「それまでにも、何度かちゃんと来てね」
「もちろん来るって。せめて二ヶ月に一度は来れるようにするよ」
「約束して」
「約束する」
「LINE、いっぱいして」
「うん、いっぱいするよ」
 
 でもそれきり、連絡は途絶えた。
 新しいプレミアのシーズンがはじまって、いくらリバプールの話題を送っても、既読はついても返信はなかった。
 《いよいよ開幕だね。今年はチアゴが加わって去年より強くなりそうだね》
 《ミナミーノ、今年はどうかなあ》
 《過密日程でけが人心配だね》
 《ファンダイク、大丈夫かな。あれってPKにならないの?》
 《リバプール、調子悪いね……。元気してますか?》
 《約束、もうなかったことになってるのかな》
 《ひとことでいいから、返信ください》
 
 ◇
 
 リバプールがホームでブライトン・アンド・ホーヴ・アルビオンに完封負けを喫した日の翌日、知沙は地下鉄の車内で偶然、S医院に勤めている若い受付の子と再会した。
 お互いの近況をひとしきり話し、S医院で一緒に働いた人たちの話をした後で、
「そういえば、原田さんっていたじゃないですか。覚えてます?」
 彼女は思い出したように言った。
「ああ、バイトで来てたドクターの原田くんのこと?」
「そうです。あの人、こないだ辞めちゃったんですよ」
「そうなんだ」
「あたしけっこう好きだったんですよねー」
「へー、全然気づかなかったよ」
「実は一緒に飲みに行ったこともあったし。まあ、既婚者だから面倒になるのいやなんで、何もしなかったですけど」
「へえ、そうなんだ。えっと、彼は大学の仕事に専念するのかな」
「そうみたいですね。奥さんの実家が歯医者なんですよ。しかもかなり金持ちの。だから将来はそこを継ぐんじゃないですか」
「そうなんだ」
「もうすぐ子どもが産まれるそうなんですよ。だからわざわざ東京で働くことないって感じみたいです」
「そうなんだ」
「あー、私も子ども産めるうちにいい人見つけて結婚したいなー。知沙さん、最近どうなんですか?」
「私? 私はもう全然、何もないよ」
「彼氏とかは?」
「いないいない、ずっといない。Sに勤めてたときからずーっと」
 
 ◆
 
 失った人を忘れるには、新たに誰か別の人と出会うしかない。なのに、またしてもサッカーが好きな、しかも今度はユナイテッドが好きな男だなんて。
 
 財布を開きながら、男が言う。
「どんなサイクルにも終わりが来るんだよ」
 サッカー、恋愛、人生、いったいこの男は何についての話をしているんだろう。
 昨シーズンあんなに強かったリバプールは今、故障者が続出して信じられないほどに順位を落としている。ビッグ6と呼ばれるチームの他にも、レスターとウエストハム、エヴァートンが上位に食い込んでいる状況で、このままでは優勝どころか四位以内、あるいは五位以内でのフィニッシュも危ういかもしれない。このあいだの試合で、頼りのジョーダン・ヘンダーソンまでが離脱してしまった。
「もう、サッカー見ない方がいいと思うよ」
 この女に脈はないと判断したのか、男は冷静なアドバイスで知沙を慰めようとする。
「で、クロップのメガネと赤いTシャツはちゃんと処分したの?」
「……」
「まずそれを捨てるところからはじめなよ。あと、DAZNのパスワードもね」
 知沙が睨みつけると、男は肩をすくめるような仕草をしてスツールから立ち上がった。
「とりあえずここ、出ようか」
 とりあえずって何だよ。これから私をどこかに連れ込む気かよ。そう思いながら床にヒールの底をつけると、知沙の足元はぐらりと揺れる。自分で自覚しているより、今夜はたくさん飲んでしまったらしい。
「俺の部屋にも、赤いシャツあるよ」
「は?」
「背中にポグバって書いてあるけど」
 男はぎゃはっと下品に笑って、倒れ込みそうな知沙の腕をとる。
「いいよ、あたしひとりで歩けるから」
「ふらふらじゃん」
「全然大丈夫」
 口ではそう言いながら、そんなつもりなどないのに、知沙はその腕に胸を押しつけてしまう。
 今夜この男にすがるのは危険だと自分に言い聞かせながら、それでもまだ、知沙は、ユナイテッドファンの男に抱かれることこそが、あの男へのいちばんの復讐になる、なんてことを考えている。
 
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FOOTBALL SHORT NOVELS COLLECTION :
FOOTBALL AND LOVE SONG
Written by Masashi Fujita

memo

ペップが大好きですが、クロップも好きです。サッカーが好きな人は、結局どっちも好きだろう、と思います。このあいだネットの記事で、「ペップがビートルズならクロップはレッド・ツェッペリン」というのを読みましたが、そういう対比をしたくなる、何かに例えたくなるふたりです。スリムな体型のペップに対し、ずいぶん大柄なクロップ。身長は192センチもあるとか。ベンチではスーツでキメる監督がカッコよかった時代でも、クロップはジャージにキャップ、そして眼鏡。この自分のスタイルを貫く感じも好きです。なにより、クロップは笑顔がよく似合う。