#28
読了時間:約10〜15分
ネットカフェの個室にこもって、ひと晩中、ずっとYouTubeを眺めている。
備え付けのヘッドホンからは四つ打ちのダンスビートが流れ、パソコンの画面ではサッカー選手らしからぬころりとした体型のブラジル人が次々にゴールを決めていく。
ロナウド・ルイス・ナザーリオ・デ・リマ。怪物と呼ばれたロナウドのゴール集である。
バルサ、インテル、レアル、ミラン ― どんな一流クラブのシャツを身にまとっても、その伝統に気後れなんてしない。ロナウドはロナウドのゴールを、ただひたすらにロナウドのペースで決めていく。セレソンのカナリア色のシャツでもそれは同じだ。
ロナウドのゴールはスピード感が違う。弾丸だ。ボールではなく飛びついたキーパーの手が逆に弾かれる。脇役を務めるレコバが、ラウールが、リバウドが懐かしい。超一流の彼らであっても、ロナウドと組んだ途端、ゴール前の主役ではいられなくなる。
ロナウドのゴールシーンを見れば見るほど、ため息が深くなる。恋人に腹を立ててネットカフェにこもる自分の器の小ささに、僕は呆れてものも言えない。
◇
日曜の朝六時。そろそろこの消毒液くさい個室を出て自分の部屋に戻りたいところだが、マナはまだ寝ているだろう。休日の彼女はいつも九時過ぎまで目を覚まさない。
過去に嫉妬をしてもどうしようもないのはわかっている。結婚式まであと一ヶ月という段階で何を今さら、と自分をたしなめる気持ちも、大人なのだからちゃんとある。
でも。
僕は知ってしまったのだ。
僕と出会う直前まで彼女が付き合っていた男が、僕と同じ名前だった、ということを。もっと正確に言えば、彼女は自分を捨てた恋人と同じ名前の男を、新しい恋人に選んだのだ。
それがいったい何を意味しているか。考えてもしょうがない。でも、考えてしまう。
◇
僕がそれを知ったのは、四ヶ月ほど前だ。
マナと付き合いはじめて二年が経ち、そろそろ、と思ってプロポーズをした。
まず互いの両親にきちんと挨拶をして、それから互いの友達を紹介し合った。
「私の大学んときの友達がお祝いしてくれるって。だからたっくん、再来週の金曜の夜、空けといてね」
僕は商業高校の出身で、専門学校卒の飲食店スタッフ。一方、マナは公立の進学校出身で大卒、しかも大学院まで進んでいる。彼女の「大学時代の友達」ということは、やってくるのは全員が偏差値の高い女ばかりなわけで、僕としては少し腰が引けた。でもさすがにそれを理由に断るのはカッコ悪い。
「わかった。残業入らないようにしとくわ」
駅前のちょっと小洒落たレストランだった。
マナを含めた女六人に囲まれ、予想通り、最初はかなり居心地が悪かった。全員に値踏みされているような気がした。五人のうち三人は誰でも知っているような有名企業に勤めていて、残る二人は大学の講師とスチュワーデス。やばい、と思った。
でも、話してみるとみんな優しかったし、そこらへんにいる普通の女の人たちと変わりなかった。「イケメンじゃん」「料理できるなんて超羨ましい」「サッカーで全国行ったとかそういうのまじカッコいいんだけど」「私もマナみたいにいい旦那さん欲しい」なんてさんざん持ち上げられ、酒の勢いもあって僕はすぐにいい気になった。
コース料理がひととおり済んだ頃にはずいぶんと打ち解けて、マナの友達たちも僕そっちのけで大学時代の思い出話や同級生の噂話に花を咲かせはじめた。そこまではよかった。
それは、用を足すために席を立った僕が、あいにく男性専用トイレが使用中で、テーブルに戻りかけたときだった。
「そういえば、たっくん、今どうしてんだろうね」
誰かの声が耳に入ってきた。テーブルはパーティションを隔てた向こうにあり、僕は彼女たちから見えない位置にいた。
「え、どっちのたっくん?」
「タクミだよ」
「だからどっちのよ」
「あー、前の方のタクミ」
「うちらのときのタクミね」
「マナ、もう連絡とってないの?」
「とってないよー」
「まだ商社なのかな」
「たぶんね」
「あ、そういえば誰か、たっくん省庁に出向してるらしいって言ってたよ」
「省庁って? 財務省とか経済産業省とかそういうところ?」
「それ私も誰かから聞いたかも」
「えー、すごいじゃん。別れてなかったらマナ、今頃東京にいたかもね」
「でも今のたっくんもいいじゃん」
「だよねー」
「あっ……」
パーティションから僕の頭がちらりと見えたのだろう。急に静かになった。僕はたった今トイレから戻ってきたというふりをして席に戻った。
「食後のコーヒー、そろそろ頼もっか」
「そうだね」
「私もうちょっとワイン飲みたいなー」
「あんた飲み過ぎじゃない?」
「タクミさん、コーヒーでいいですか?」
「あ、じゃあコーヒーで」
その晩、僕は彼女のアパートに泊まった。
長風呂の彼女が、いつものようにスマホを持ち込んでバスルームにこもっている間、僕は音を立てないようにそっと彼女の部屋を探索した。デスクの引き出し、クローゼット、ベッドの下、靴棚、そして ― キッチンの冷蔵庫の上に積まれた靴箱の中から、それは出てきた。
まず見知らぬ男と一緒に写っているプリクラが一枚。ピンクのハートでデコられている。その下に、誕生日にでもプレゼントされたのだろうか、ブランドものの高級腕時計の箱。そして手紙が一通。エアメール。押された消印の日付を確かめ、計算をする。間違いない。彼女の大学院時代だった。封筒の裏には、TAKUMIと、確かに僕と同じ名前が書かれていた。そういえばさっきの話では男は商社勤め。出張先の海外から、マナへの想いを綴ったのだろうか。国境を越える愛。ボーダーレス。箱の底にはメモリーカードが散らばっていた。きっと、思い出の写真が詰まっているに違いない。ご丁寧にUSBのカードリーダーまで一緒に入っている。
僕と婚約したというのに、こんなものをまだ後生大事にとっているなんて。
それから激しい嫉妬がはじまった。
◇
ネットカフェの個室にこもる一時間前、僕はマナといつもの週末のようにユヴェントスの試合を見ていた。
子どものときからユヴェントスが好きだ。
カルチョ・スキャンダルからチームが立ち直った頃に出会い、そしてコンテ時代、アッレグリ時代の試合を夢中になって見てきた。ユヴェントスは強い。白と黒の縦縞は少し不吉で冷たい感じがするけれど、その配色は僕にとって、むしろ他の追随を許さない、決して浮き足立たない、絶対的な強さの象徴だった。(ちなみに僕は大学までサッカー部に所属し、ピルロに憧れてボランチをやっていた。監督や他の仲間は「ボランチ」と言っていたが、僕は自分のポジションが「レジスタ」のつもりでプレーしていた。)
ユーベの試合をテレビやDAZNで観戦するとき、マナもお酒を飲みながら僕と一緒に見てくれる。彼女はクリスティアーノ・ロナウドとディバラ、ラビオがお気に入りである。
今夜の試合のユーベはロナウドが不在だった。その影響か、格下を相手に先制点を許し、なんとか追いついたものの次の得点が遠かった。前の試合でローマと引き分け、この試合はアウェイとはいえぜひとも勝ち点三が欲しいところなのに、チームは全体的に低調だった。
ユーベの絶対的な強さは、すでに前のシーズンから陰りはじめていた。セリエAを九連覇したとはいえ、黒星が七つもある。最終的な順位では、二位のインテルとは勝ち点差がわずか一だった。
ロナウドも、無双していたレアルの頃とは明らかに違う。あれほど見事に決めていた直接フリーキックは滅多に入らなくなった。得点王のタイトルもラツィオのインモービレに譲った。それでも出場すれば点を取るのはさすがだが、スピードもヘディングの打点の高さもドリブルのキレも、やはり全盛期を過ぎたことを思わせる。
「なんか、今日の試合、つまんないね」
あくびをしながらマナが言った。
ロナウドだけでなく、ディバラも、ラビオも不在である。かわりにエンリコ・キエーザの息子、期待のフェデリコ・キエーザが出場していたが、マナにとってはどうでもいいことだ。彼女はそこまでサッカーが好きなわけじゃない。
「もう私、眠いから寝ようかな」
「いいよ、先寝てて」
「えー、たっくん冷たい。一緒に寝ようよ」
「今、サッカー見てんだよ」
普段なら別に腹を立てるほどのことじゃない。でも運悪く、その晩は店で嫌なことがあってむしゃくしゃしていた。クレーマーの対応を押しつけられ、それに手間取っているうちに店長に叱られ、その客からは帰り際に捨て台詞のようなものを吐かれた。ただでさえこのコロナ禍で店の経営状態は悪く、店長はいつも不機嫌で、スタッフ同士もそのうち誰かがクビを切られるのではないかと牽制し合い、雰囲気が悪い。僕にとってはユーベの試合に夢中になることが唯一のストレス解消なのだ。なのにそれを邪魔するなんて。
後半がはじまり、ユーベはクアドラードを投入し攻撃の活性化を図った。ところがその直後、期待のキエーザがあろうことかラフプレーで一発退場を食らってしまった。
「まじか……」
「うわー、こりゃ負けっぽいね。今日もうダメだよ」
「……」
「負けだよ負け。さ、寝よ」
「いや、サッカーは何が起こるか分からないから」
「分かるよ、もう勝てないって」
「そういう試合でもなんとか勝つのがユーベだから」
「いやーどうかなー。ロナウドもディバラもいないんだよ。無理でしょ」
サッカーのことを何も知らないマナにそんなふうに決めつけられて、僕はついカッとなってしまった。
「じゃあもういいよ、うるせえよ。寝る。寝る。寝りゃいいんだろ」
「え、何怒ってんの?」
「全然怒ってないし」
「怒ってるじゃん。応援しているチームが負けたぐらいで怒んないでよ」
「まだ負けてないし」
「えー、じゃあ見たいならいいよ、ひとりでサッカー見てればいいじゃん」
「いやもういい」
「見ればいいじゃん」
「お前が見んなっつたんだろ!」
「サッカーぐらいで何怒ってんの?」
「なんだよ、サッカーぐらいって」
口にするものかどうか、ずっと考えていた。胸にしまっておけばいいと思った。本当に何も聞かなかったことにしよう、見なかったことにしよう。でも、そのときブチッと何かが切れてしまった。
「じゃあ、サッカー見る」
僕はそう言って、それまで見ていたテレビではなくパソコンを立ち上げ、YouTubeで「ロナウド ブラジル ゴール集」と検索した。そして動画をひとつ再生し、それをマナの目の前に差し出した。
「は? 何これ」
「ロナウド」
「は?」
「昔、ロナウドって選手がいたんだよ。ブラジルの。クリスティアーノが活躍する前に。マナ、どっちのロナウドが好き?」
「ごめん、頭大丈夫? 質問の意味が全然分かんないんだけど」
「どっちのロナウドが好きなんだよ」
「……たっくん、ほんと大丈夫? どうしたの?」
「同じ名前って、比較するもんだろ」
「……はあ?」
「お前はどうなんだよ」
「……」
「……」
「……なんか、別のことを遠回しに言ってるみたいだね」
「俺がタクミって名前じゃなかったら、どうしてた? それでも付き合ってた?」
「何言ってんの」
「知ってんだよ」
「……あー、そういう話ね。くだらない」
「くだらないってなんだよ。じゃあ、昔の男の思い出なんてとっとくなよ、捨てとけよ」
「え、……見たの?」
「……」
「最低」
「最低はどっちだよ、お前の方だろ」
「信じらんない。ストーカーじゃん。プライバシーの侵害じゃない?」
「話すり替えんなよ。タクミって名前がよかったんだろ。タクミって男の代わりが欲しかったんだろ。俺がタクミって名前だから俺のことが気になったんだろ。たっくんって呼びたかったんだろ」
「……」
「だからあんなもん、後生大事にとっておいてんだろ」
「……捨てなきゃいけないの?」
「はあ?」
「人生、一度きりしかないんだよ。思い出くらい、とっておいたっていいじゃん。そんなの、たっくんに文句言われたくないよ」
「出て行けよ」
「はあ?」
「いいから、俺の部屋から出て行けよ」
「まじで言ってる?」
「いや、いい、俺が出てく」
アディダスのジャージにユニクロのパーカという部屋着のまま部屋を飛び出した僕は、シャッターが閉まった夜中の駅前の商店街を歩いて、コンビニでお金を下ろし、ネットカフェに落ち着いた。個室にこもり、ユーベの試合の続きを見るつもりでDAZNを開いたものの、パスワードが記憶されていないパソコンではログインできない。仕方なくフェノーメノの方のロナウドのゴール集をまたYouTubeで検索して、それからずっとそればかり見ているのだ。
◇
かつてモウリーニョが、メッシやクリスティアーノ・ロナウドを超える存在としてロナウドの名を挙げていた。
ボビー・ロブソン時代のバルセロナでデビューした年に、三七試合で三四得点という驚異的な数字を叩き出したロナウド。インテル時代のプレーも圧巻だった。スピード、テクニック、キレ、ボディコントロール、どれも抜群だった。
大きな怪我をしたことで、二〇〇〇年代の彼のキャリアはそれほど輝かしいものではなかったけれど(それでもワールドカップで優勝し、リーガでピチーチ賞を受賞した)、すごい選手であることに変わりはない。
同じ名前の選手は、つい比べてしまう。
クリスティアーノ・ロナウドがユナイテッドで活躍しはじめた頃はまだ、「ロナウドといえば怪物の方」だった。でも彼がトッププレーヤーとなり、メッシと比較されるレベルにまでなると、今度はその逆を主張する人が出てきた。
店でときどき、サッカーファンの常連さんたちと話をすることがある。年配のお客さんは「やっぱロナウドはブラジルの方だよなあ」と言い、若い子は「どう考えても今のロナウドの方が最高」と言う。
でも、どっちのロナウドも素晴らしい選手だ。「ロナウドってどっちもすごいよね。」それでいいじゃん。どっちが優れているとか劣っているとか、わざわざそんなこと言わなくていいじゃん。僕は彼らのサッカー談義を聞きながら、ずっとそう思っていた。意見が分かれるのは、きっと、どっちのロナウドと出会ったか、どっちのロナウドに感動した経験が多いか、というだけの違いだ。
ロナウドのプレーを見ながら、そのことを思い出す。
なのに僕は今、名前が同じというだけで、見ず知らずの男と自分との間に勝手に優劣をつけようとしている。大人げない。わかっている。悔しいだけだ。勝手に傷ついているだけだ。
若き日のクリスティアーノ・ロナウドは、「ロナウド」という名前の呪縛を感じただろうか。感じていたとしたら、どうやってそこから脱却したのだろう。結果を出し続けることか。サッカーならそれでいい。でも、男と女の関係に、そんなにわかりやすい結果があるだろうか。俺は一生、誰かの代役を務め続けないといけないのだろうか。
マナからのLINEに気づいたのは、ひととおりの動画を見終わって、ユーベの試合結果を確かめようとしたときだった。フキダシが上下に五つ並んでいる。
《YouTubeで、ロナウドのゴール集、ひととおり見たよ》
《すごいね。戦車みたい。でも私は、やっぱり今のロナウドの方が好きかな》
《確かに、最初は同じ名前でだぶらせてたときもあったかも。名前が同じだから気になったりしたのは否定しないよ》
《だけど、今は違うよ。たっくんがタクミって名前じゃなくても、一緒にいたいよ。昔の彼氏なんかより、ずっとずっと大事に思ってるよ。本当だよ》
《帰ってきなよ。朝ご飯、一緒に食べようよ。たっくんの好きな納豆オムレツ作って待ってる》
◇
ネットカフェを出ると、おもてはすっかり明るくなっていた。朝日が眩しい。
怪物ロナウドも、クリスティアーノも、きっとこんなくだらないことで悩んだりはしないだろう。
そう考えて、でも、と思う。もしかしたら彼らだって、同じ名前で比較されて、イライラしたり、うじうじしたり、嫉妬したり、ストレスをためて誰かに当たり散らしたりしたことがあるのではないか。同じ人間だもの、そっちの方が自然ではないか。
サッカー選手は、ゴールを決めればいい。いいプレーをすればいい。そうすれば認めてもらえる。
じゃあ僕にできることは?
とりあえず、謝るしかないか。
《ごめん、大人げなかった。今帰る》
返信をして、コンビニに寄る。むこうが納豆オムレツなら、こっちは彼女の好きなハーゲンダッツのクッキー&クリームでも買って帰ろう。
彼女が送ってくれたLINEの《今のロナウドの方が好き》の部分を思い出しながら、クリスティアーノ・ロナウドと自分をだぶらせるなんて、と、さっきとはまた別の、ちょっと恥ずかしいため息が漏れた。
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Written by Masashi Fujita
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