#34

アンフィールドのように僕らは
Like Klopp and Pep.

読了時間:約15〜20分

 胃の痛みがもう長いこと続いている。
 史靖はマンションの部屋に帰り着くや、シャワールームの洗面台の棚にある薬箱に手を伸ばし、数日前にドラッグストアで買った胃薬の箱を手にとった。空気をつかむようなその軽さが、あまりにも頼りない。眉をひそめつつ、中から銀色のシートを取り出すと、案の定、錠剤はひとつも残っていなかった。
 すでに深夜0時を過ぎている。これから部屋を出る気力は残っていなかった。
 
 ちょうど一週間前の月曜日、都内のある専門学校のプロモーションに関するプレゼンテーションがあった。
 広告代理店からのオファーで舞い込んだ、学校案内、ウェブサイトからオープンキャンパスの企画、ノベルティの制作、ウェブ動画まで、広報クリエイティブの一式に高額の予算がつけられた競合案件だ。
 七社が参加して、受注できるのは一社のみ。史靖の所属するデザイン会社はクリエイティブ制作部のチーフである史靖をトップに、時間をかけてじっくりと提案を考えた。会社にとっても、史靖にとっても、これはどうしても獲りたい案件だった。
 
 そして水曜日、審査期間の途中で、代理店から連絡があった。ただの経過報告かと思いきや、そうではなかった。
 上位二社による再プレゼンの依頼。
「なんだよそれ。どういうことだよ」
 デザイナーやコピーライターがいきり立つより先に、声を荒げたのは史靖だった。
「校内で意見が二分したため、評価点上位二社による再提案をお願いしたい、という話です」
「そんなのありかよ」
「まったく新しいものを、ということではなく、企画案をさらにブラッシュアップして欲しいそうです」
「いつまで?」
「週明け、月曜日、午前十時にプレゼン」
 土日を入れても、四日間しか残されていなかった。
 この世界、クライアントは絶対であり、代理店も絶対である。それに抗うことはつまり、失注を意味していた。大きな仕事を、みすみす逃す  卓也の事務所に持って行かれる  わけにはいかなかった。
 
 くそが。
 苛立ちは、胃の粘膜の表面というよりも、もっと奥の奥からせり上がってくる。痛みをこらえてとりあえず熱いシャワーを浴び、ベッドに入ったはいいものの、史靖は寝つけなかった。再プレゼンテーションの内容を頭の中で反復していると、どうしても神経が冴えてしまう。この四日間はデザイナー数人と一緒に、ずっと会社に泊まり込んだ。
 何か退屈そうな映画でも見るか。ああ、海外のどこかの、地味なサッカーの試合なんかいいかもしれない。
 そう思ってスマホを手にとり、立ち上げたDAZNに、そのカードがあった。プレゼンが終わった翌週はこれを楽しみにしよう、といつ一週間前まで楽しみにしていた、リバプール対シティのプレミアリーグの頂上決戦だった。すっかり忘れていた。
 
 ◇
 
 史靖はマンチェスター・シティが好きで、ときどき深夜の生中継を見る。
 今年の春、チャンピオンズリーグ決勝でトゥヘル率いるチェルシーに屈したときは、心底悔しかった。負けるならこういう負け方しかない、という負け方だった。
 そういえば、トルコからポルトガルに開催地が変更されたその試合は、スタンドに観客が戻りはじめた頃だった。収容人数は確か上限が三〇%程度だったのではなかったか。
 しかし今、手のひらのDAZNの画面には、ぎっしりと観客が詰まったスタンドが映っている。アンフィールドらしい、かつてのアンフィールドである。
 これはシティにとって厳しい戦いになるな。史靖は、数時間後に再プレゼンに挑まなければならない自分の状況に、ベンチに腰を下ろしたペップの険しい表情を重ね合わせた。
 
 ◇
 
 そろそろクリエイティブの現場に、新しい風を吹かせる時期ではないか。
 社内で日増しに大きくなるその声は、当然、チーフとしてすべてを統括する本人の耳にも入ってくる。
 史靖は今年で五十歳になる。
 今、史靖の下には、三人のチーフ・デザイナーがいて、いずれも四十前後であり、そのうちの二人は史靖には縁のなかったいくつかの賞をすでに受賞している。史靖をすっ飛ばして、直接彼らを指名するクライアントもいる。
 市場はトレンドに敏感で、トレンドに敏感でいられるのは、常に若い感性だ。それは理屈云々の前に、この世界では常識である。クリエイティブのトップはそろそろ、彼ら三人の中の誰かに交代するべきだ。社内の多くが、そう思っているのは間違いなかった。
 今回のプレゼンも、はじめ、三人のデザイナーのうちの誰かが舵取りをすることを担当営業は望んだ。
「俺がやる」
 それを、史靖は強引に自分のところに持ってきたのだ。
 
 今の地位を若い者に譲るとなると、史靖は制作現場から一歩引いた管理職という立場で、今度は会社の経営に関わる仕事をすることになる。しかし、史靖は作ることが好きだった。作ることが好きでこの世界に入り、いいものを作りたくて生きてきた。
 でも、三十年近いデザイン人生で、本当に満足のいくものを作れたという実感はない。この世界は妥協の連続だ。世の中に評価され、褒められたものもいくつかあるが、それらはすべて、自分の感性が評価されてのものではなかった。だからこそ、いずれ近いうちに制作の現場から追われる前に、思いきりバットを振り切ってホームランを打つような、そんなものを自分の手で作ってみたかった。
 
 ◇
 
 グリーリッシュがトップの位置か。
 先発にはジェズスも名を連ねているが、やはり右サイドが今シーズンの彼のポジションらしい。中盤の攻撃陣  ベルナルド・シウバ、フォーデン、デブライネの組合せは、現状でベストの選択だろう。
 シーズン前、トッテナムの大黒柱であるハリー・ケインの獲得にシティが動いたとき、ベルナルドの放出が噂された。
 史靖は、ばかな、と思った。ベルナルドほど、このチームに欠かせないピースはない。走って、飛び込んで、そして誰にもボールを奪われないこのポルトガル人の存在が、ペップのサッカーのクリエイティビティを担保している。
 それでも、新しい者が入れば、誰かが出ていかなければいけないのがサッカーの世界だ。試合に出られるのは十一人と決まっている。
 その点、一般の会社は、社員の登録枠などというものがないから寛容だ。会社の利益になるのであれば、デザイナーが五人いようが十人いようが構わない。戦力が大きいほど、たくさんの仕事が舞い込み、売上は伸び、誰もが仕事を与えられる。会社が大きくなればなるほど、やり甲斐のある仕事も増える。
 なのに、中には、そんな会社から、自らすすんで出て行く人間もいる。
 悠木卓也がそうだった。
 
 ◇
 
 七年前、史靖がまだチーフ・デザイナーだったときに新卒のデザイナー志望として入社してきたのが卓也だった。
 専門学校はなく美大でデザインを学んだという彼のポートフォリオに目を通し、才能があると感じたから、史靖は卓也を自分の下につけて、育てた。
 自信をつけさせてやりたかったから、いい仕事をどんどん振った。自分がやりたいと思うような仕事も、実績を積み上げてやりたいという親心で、卓也に与えた。
 
 卓也は素直な子だった。
 二十三歳の卓也は、まだ高校生のような澄んだ瞳を輝かせて、史靖の言葉に耳を傾け、あらゆることを吸収した。
「俺、いいものを作りたいんですよ」
 あるとき、卓也は言った。
「誰だってそうだよ」
「でも会社の仕事って、そうじゃないのばかりじゃないですか。営業さんだって、結局クライアントが首を縦に振れば何でもいい、みたいな顔してるし」
「だから、それがデザインなんだよ。俺らは芸術やってんじゃないんだ。クライアントを喜ばすのが仕事だろう」
 もし卓也が同期だったら。同じ志を持つ同業他社のデザイナーだったら。
「わかるよ。俺だって本当にいいと思えるものを作りたいよ」
 そう答えていた。一緒に愚痴をこぼした。
 でも、あえて史靖はそうしなかった。自分が下積み時代に十年近くかかってようやく理解したことを、彼には三年で理解させてやりたかった。そこから、こいつは花を開かせる。そう信じていた。
 
 しかし三年後、卓也は会社を去った。
「ひとりでやってみたいんです」
「何言ってんだよ。お前はまだそんなことが言える段階じゃないだろ」
「会社の仕事が、つまらないんですよ」
「だったら、この会社でそのつまらない仕事をとことんやり抜いてから、独立しろよ」
「これ以上、時間、無駄にしたくないんすよ」
 愛弟子のその言葉に、史靖は自分でも思った以上に傷ついてしまった。
「ふざけんなよてめえ!」
 史靖が仕事場で声を荒げたのは、あのときが最初だった。
 
 担当営業が持ってきた今回の専門学校の案件の競合相手のリストには、卓也が独立して開業したデザイン事務所の名が、同じフォント、同じ大きさ、同じレベルで連なっていた。
 俺があいつに負けるわけにはいかない。
 気合いが入るのは当然だった。
 そして最初のプレゼンで残された上位二社の片方が、その、卓也の事務所だったのだ。
 
 ◇
 
 サッカーをぼんやり見ていればそのうち眠くなるだろうと思っていたのに、あまりにも面白い試合で、逆に微かに感じていた眠気さえも吹っ飛んでしまった。
 前半はシティがボールを握る時間が長く続いた。しかしそれはリバプールにとっては織り込み済みの展開だ。常にシティのボールロストを狙い、瞬間的な加速の機会を狙っている。スコアレスでも試合内容はスリリングで、見応えがあった。
 明日のコンディションを整えるために、少しでもいいから眠らなければ。そう思いつつ、史靖はハーフタイムに明かりを消すことはせず、後半の開始を待った。
 どちらも、勝ちたい。
 そしてどちらも、負けたくない。
 そして互いに自分たちのベストのサッカーをしたい。
 リバプールもシティも、同じものをぶつけ合っていた。
 
 ◇
 
 史靖が卓也には負けたくないのは、当然、プライドの問題だった。
 卓也がどんなプレゼンをしたのかは知らない。しかし、史靖と卓也が評価されたということは、もしかしたら、コンセプトに関して似通った部分があるのかもしれない。
 史靖は三年をかけて卓也を育てたから、卓也の物事の考え方を知っている。それは卓也にしても同じことだ。ここぞの場面でアプローチが似てしまうというのは、十分に考えられることだった。
 
「本当に価値のある、『いいもの』で世の中をドキドキさせる」
 
 卓也が独立したときに、一緒にオープンしたウェブサイトに掲示されたキャッチコピーを、史靖はまだ覚えている。
 こんな安っぽい陳腐なコピーを持ってくるなんてまだまだだな、お前にはまだ負けないよ、とホッと胸をなで下ろすと同時に、史靖は思った。それは俺がやりたいことなんだ、と。俺が、お前と一緒にやるはずだったんだ、と。
 
 以来、史靖はそのサイトを一度も開いていない。当時「只今制作中」だった作品実績のページが少しずつ賑やかになっていく過程もまったく見ていない。
 史靖は努めて、卓也の情報には触れないようにした。同業者の集まりで卓也の事務所の話題を振られても、俺はよく知らない、興味ないと答え続けた。
 
 ◇
 
 卓也が独立してから、一度だけ、卓也からの着信が史靖のスマホを鳴らしたことがあった。でも史靖は出なかった。
 しばらくして、SMSで《すみません、ちょっと相談したいことがあるんですけど、折り返しお電話いただけませんか》と短いメッセージが届いた。
 苦しんでいるのかもしれない、と史靖は直感した。卓也が「相談」という言葉を使うときは、本当に追い詰められているときだけだったから。でも、史靖は無視した。
 
 ◇
 
 後半になって、いよいよ試合が動いた。
 サラーが右サイドを突破し、内側に切れ込むようにドリブルで持ち運ぶ。リバプールらしい素早いカウンターアタック。やばい、そのタイミングだけはだめだ、と史靖が感じたまさにそのタイミングで、動き出した前線のマネの前のスペースにボールが送られる。サラーのその何気ないシンプルなパスは、エデルソンの飛び出しを無効化する、本当に絶妙なタイミングだった  リバプール先制。
 
 そのわずか十分後。今度はシティが右サイドをから切れ込む。ウォーカーのオーバーラップで空いたスペースをジェズスがドリブルでペナルティエリアの外、ディフェンスラインの待ち構えるゾーンにボールを運び、数的有利を作りだした逆サイドのフォーデンへ。しかし角度がない。ここからのシュートでは入らない。そう思った刹那、その角度のないわずかな隙間を、針の穴を通すような鋭いシュートが駆け抜ける。その技術が、フォーデンの才能の証である  マンチェスターシティ同点。
 
 次のゴールはその七分後、リバプールに生まれた。カーティス・ジョーンズの縦パスをペナルティエリアの角付近で受けたサラーが、インターセプトを狙って背後から食いついたカンセロを素早い動きではがすと、ベルナルドを簡単にかわし、ペナルティエリア内に進入する。そこで待ち構えるラポルトを一瞬の切り返しであっさりと交わし、右足を振り抜くと、ボールはエデルソンの右手をものともせずに逆サイドのゴールポストに当たり、ゴールの中へと吸い込まれた。サラーがスーパーな選手であることを改めて見せつけるゴラッソに、アンフィールドはこの試合最高のハイライトを迎えた。
 
 しかしこれで試合は終わらない。
 王者シティには、アンフィールドの圧を跳ね返すだけの底力があった。サラーのゴラッソの興奮冷めやらぬそのわずか五分後、センターサークルからデブライネが右足のアウトにかけて左に展開した絶妙なパスをフォーデンが中央に折り返す。走り込んだウォーカーには合わなかったが、そのかわり、その背後には誰もいない広大なスペースが生まれていた。フリーで走り込んだデブライネが余裕を持ってその右足を振り抜けば、結果は明らかだった。懸命にコースに身体を投げ出したマディブの努力もむなしく、勢いの衰えない弾道はアリソンの逆をついた  再びシティ同点。
 
 どちらが勝ってもおかしくない、そしてどちらも勝利に相応しい試合だった。
 同点で試合終了の笛を聞いたとき、史靖はスマホを握る手に汗をかいていた。
 いい試合だった。
 今シーズン、最高の試合だったといっていい。シティに勝って欲しかったが、不思議と、引き分けという結果に、悔しさは微塵も感じなかった。
 
 さて、これからひと眠りできるだろうか。数秒間まぶたを閉じて、現実に戻って目を開けたとき、スマホの中ではペップとクロップがピッチサイドで抱き合っていた。
 ペップは実に満足そうな、いい顔をしている。クロップは背中しか見えなかったが、おそらく、同じ表情をしているに違いなかった。
 ふたりとも、誰よりもいいサッカーがしたくて、最もレベルの高いゲームがしたくて、この場所にいる。
 そして、それができたなら、こういう顔になる。いい試合だった。満足だ。声は聞こえなくても、ペップとクロップのその抱き合う姿が、この試合のすべてを物語っていた。
 映像がピッチの上に切り替わる。
 フォーデンとジョーンズが笑顔で言葉を交わし、抱き合う。デブライネとファン・ダイクが何やら話し込んでいる。その向こうでウォーカーとヘンダーソンが手を合わせて健闘を讃え合う。間違いなくMVPの働きをしたサラーは、でも、まだまだ満足のいかない、そんな顔をしている。礼儀正しいフォーデンは、アリソンとも、そして審判とも笑顔を交わす。
 みんな、いいサッカーだった、と満足しているように見えた。
 
   だよな、いいものが作りたいよな。
   俺もだよ。
 
 ずっと、史靖は卓也に言いたかった。
 いつか卓也の才能が花開くとき、一緒に大きな仕事に取り組むとき  あるいは、彼が自分の手を離れるとき、自分を追い越すとき  史靖はそんな話をしながら、卓也とふたりで酒を飲みたかった。
 今日のプレゼンが終わったら、あいつに電話するか。もし俺があいつに負けたとしても、こんなふうに、笑顔で讃えよう。俺が笑えば、きっとあいつも笑ってくれる。
 
 時計を見ると、マンションを出るまでにあと四時間ほどしかない。寝るか、それともこのまま明日を迎えるか。こうなったら少しでもいいプレゼンをするために、もう一度、とことん提案書に目を通しておくか。
 だって、いいもの作りたいよな。
 そう呟いて、史靖はDAZNのアプリをスワイプして閉じ、ベッドから起き上がった。
 
 ■

FOOTBALL SHORT NOVELS COLLECTION :
FOOTBALL AND LOVE SONG
Written by Masashi Fujita

memo

実は一週間前まで、まったく別の原稿の下書きを作っていました。週末そのまま寝かせて、あとは週明けにきちんと書けばOK、という段階までできていて、今回はその原稿をリリースすることに決めていました。でも日曜の深夜のプレミアリーグの頂上決戦リバプール対マンチェスター・シティ(@アンフィールド)を見て思い直し、一気に書き上げたのが今回のものです。シティに肩入れしているので、敵地アンフィールドならドローでもいいや、と思って試合を見はじめたのですが、試合後に感じたのは「ドローでもいいや」ではなく、「こんなドローが見られて最高!」という高揚。興奮。充足。月曜の早朝からこんなに胸を満たしてくれるものは、正直、サッカーだけです。昂ぶった気持ちが、作品づくりの衝動になるのってなんか幸せだな、ものづくりって、本来そういうのがいちばんいいんだよな、と思いながら書きました。