#35
読了時間:約15〜20分
サトルはずっと、結婚願望とは無縁で生きてきた。
そのときどきでそばに誰かがいればいい。それが恋人であれ友人であれ、孤独を感じずに日々を過ごせる程度に、身近なところに誰かがいてくれれば、なにも特定の女性と結婚したり、長く付き合ったりしなくていい。
そう思って二十代を過ごし、三十代の半ばを生きていた。日常は、年々責任が重くなっていく仕事と、趣味の欧州サッカー観戦にほとんどの時間を費やした。
女性と付き合うのは、将来や生活のためなどではなく、例えば今夜とか来週末とか、そういう目の前の空白の時間をとりあえず埋め、いっときの欲望を満たすためだった。
◇
サトルがミオと知り合ったとき、サトルは三十四歳、ミオはそれより三つ上の三十七歳だった。
最初から、サトルはミオのことが好きだったわけではない。そもそもミオには、徳永さんという年上の恋人がいた。金融の仕事でシンガポールに住んでいて、ミオよりひとまわり上の四十九歳だという。
「一年あっちにいて、もうすぐ日本に帰ってくるはずなんだけど、このコロナ禍で帰国する予定がもう一年延びるみたいなんだよね」
その話を、サトルは新橋の酒場でミオと肩を並べながら聞いた。二〇二〇年の、本来ならば東京オリンピックで日本中が盛り上がっているはずの夏の夜に。
ふたりは、オリンピック関連の仕事を請け負う業者の担当部署同士という関係で、ある競技会場の設営に関するミーティングで偶然、隣の席に座ったのをきっかけに知り合った。
来年、本当にオリンピックが開催されるかどうかは、まだ誰にもわからない。オリンピック関連の売上を見込む業者は誰もが不安を抱えていた。サトルがミオを何度も酒場に誘ったのは、女性として、というよりも、仕事上の情報交換にふさわしい相手だったからだ。
「本当にできるんですかね。国でも都でもいいですけど、最後にケツもってくれんのは誰かってことですよ」
「うちはオリンピック飛んだら大変なことになるよ」
「でも実際、やばいと思うんすよね」
「まあ、コロナ次第だよね」
酒を酌み交わすのはそれが三度目だった。サトルの会社の経費でしこたま酒を飲み、鬱憤晴らしのように愚痴をこぼし合ったふたりは、サトルの住むマンションのある大井町の安居酒屋に河岸を変え、政治や会社や上司の悪口をさんざん吐き出した後、そのままサトルの部屋へと流れ込んだ。
「いいんすか、シンガポール」
「は?」
「シンガポールの彼」
「何言ってんの。たまにはこういう自由がなくちゃ、独身のアラフォーなんてやってらんないでしょ」
そのやりとりは、サトルの体臭の染みついたベッドの上で交わされた。ひと晩限り、にふさわしい、なし崩しの情事だった。
◇
翌朝、まだ太陽がのぼりきらぬうちに目を覚ましたサトルは、妙な幸福感に包まれていた。
いつもならば目覚めてすぐにベッドから跳ね起き、コーヒーを淹れてシャワーを浴びる。女性と同衾した休日の朝でも、それは同じルーティンだった。
でもその日、サトルはなぜかベッドから離れがたく、隣で眠る年上の女の髪の匂いをかぎながら、しばらくまぶたを閉じて、自分のものとは違うなまぬるい体温を心地よく感じていた。
サトルはどちらかというと経験豊富な方だが、もっぱら年下の女の子ばかりを好む性質で、年上の女性とするのは、これがはじめてだった。行為そのものが久しぶりだったというのもあるかもしれない。それにしても、サトルは布団からはみ出した女の肩を見つめながら、ひと晩限りでこの女性との関係が終わるのを口惜しく感じた。会話も、身体も、相性がいい。もっと触れていたい。彼女とは気が合ような気がした。
◇
「あっ」
サトルが声を出して、ようやくミオが目を覚ました。
「どうしたの?」
「いや、なんでもない」
サトルは片方の腕を彼女の耳とシーツのあいだに差し込んで彼女のぬくもりを感じながら、もう片方の手でスマホのニュースを流し読みしていた。
「何かあった?」
ミオが身体の向きを変え、サトルのスマホを覗きこんだ。
「何これ? サッカー? へえ、サッカー好きなんだ。私、この子知ってる。あれでしょ、外国のチームで活躍している子でしょ」
久保建英がマジョルカからビジャレアルに期限付き移籍、という記事だった。
久保くんは、サトルのお気に入りの選手だった。小さいときからずっと背が低くて、それがコンプレックスだったサトルは、背の低い日本人選手が海外で活躍する姿を見るのが好きだった。
「ビジャレアルっていうスペインの、けっこういいチームにレンタル移籍するんだって」
「レンタル移籍って?」
腕枕の姿勢から身体を反転させ、俯せになってシーツに肘をつけたミオの声は、仕事の声に切り替わっていた。彼女は大手人材派遣会社の社員である。サッカーに興味はなくても、サッカー選手という若い人材がどのように企業間で取引されるのか、大いに興味があるようだった。
「久保くんはそもそも保有権がレアル・マドリーっていうチームにあって ― 」
サトルは、サッカーを知らない人にサッカーについて説明するのが好きだ。期限付き移籍がどういうものか、レアル・マドリーとマジョルカと、ビジャレアルの関係をわかりやすく解説しながら、普段の仕事のプレゼンのように簡潔に話して聞かせた。
「つまり、小さいチームにとっては戦力を移籍金なしで獲得できて、大きいチームは戦力に経験を積ませることができて、どちらもウィンウィンってことね」
「そう。選手にとっても、出場機会をもらえるわけだから」
「なるほどね」
サトルは説明しながらふと思いついたことを、その話の流れでミオにもちかけてみた。
「ねえ、レンタル移籍、してみない?」
「ん?」
「俺んところに、レンタル、一年」
「どういうこと?」
「だからさ、シンガポールの彼氏が一年先まで帰って来ないなら、その一年間、期限付きで俺のところに移籍しない?」
「あはは」
ミオは笑った。そしてサトルの顔を見上げて「どうしよっかな」ともったいぶるように微笑み、言った。
「それって選手にも選択権はあるの?」
「もちろん、人身売買じゃないから、移籍したくなければ、拒否はできる」
「ふうん」
「でも、出場機会がないよりも、あったほうが、よくない?」
「何、出場機会って」
「こういうことだよ」
サトルはミオを抱きしめた。そしてたっぷり時間をかけて楽しんだ後、ふたりはいやらしく笑い合って、口頭契約を成立させた。
移籍金なしの期限付きで、サトルはミオを獲得した。保有権のあるチームには、内密に。
◇
恋をすると季節が輝いて見えるとよく聞くけれど、サトルは三十代の半ばにして、はじめてそれを実感した。一年、と期間を区切ったことで、急に目の前を流れている時間が貴重に思えた。
夏、秋、そして冬。ふたりは本物の恋人のように付き合った。
コロナ禍の外出も車ならば平気だろうと、レンタカーを借りて、海へ山へ温泉へと、緊急事態宣言も外出自粛も無視して、ふたりでいろんなところへ出かけた。仕事中は五輪関連業者という立場上、徹底的に感染拡大防止に努めて、プライベートではそれを徹底的に無視した。もちろん、他人との接触には細心の注意を払った。そのかわり、ふたりきりのときは思う存分、接触し合った。
たった一年しかないのだ。終わる前に楽しまなくて、何が人生だろう。
◇
はじまったばかりの頃はろくに考えもせず、ただミオに夢中になれたサトルだったが、半年も経つと、ミオと会う時間を重ねるほどに、今度は「レンタル期間」の満了を怖れるようになった。それが、いわゆる愛のようなものであることを自覚し、もはや振り払うことができないほど、ミオに執着する自分に気づくようになった。
サトルはときどき、自分を長友に重ねた。
今も日本代表として活躍している長友佑都は、二〇一〇年、FC東京からレンタル移籍でチェゼーナに加入した。その移籍には「買い取りオプション」と呼ばれる付帯条件が含まれていて、翌年、活躍を認められた長友は移籍金約二億円でチェゼーナに完全移籍した。そしてすぐにトレードというかたちで強豪のインテルへと再びレンタル移籍し、新しいシーズン、今度は五年間という長期契約でインテルへの完全移籍を果たしたのだ。
夢を追いかけて駆け上がった長友のキャリアは、日本でプレーする若いサッカー選手にとって、理想のかたちのひとつだろう。
完全移籍 ― サトルは、自分も長友のようになりたいと思った。ワンシーズンでは終わりたくない。
普段まったく会うことのできない五十歳の男なんかよりも、もっと若くて、尽くす、そういう自分のような男の方がミオにはふさわしいはずだ。そう思った。それに聞いた話では、コロナ禍がなかなか収束しないので、徳永というその男の帰国はさらに延びるかもしれないということだった。
人生のキャリアでは五十男に負けているかもしれない。技術や経験では敵わないかもしれない。でも、俺は走るよ。ミオのために走るよ。一生懸命、汗をかくよ。
サンシーロの左サイドをアップダウンし続けるネッラズロの男に、サトルは自分を重ね合わせた。
◇
年が明け、新しい春がやってきて、桜の花が咲く季節にミオの三十八歳の誕生日を迎えた。
シンガポールから届かないプレゼントのかわりに、サトルはとても高価なアクセサリーをミオにプレゼントした。
「うわ、いいの? こんなのもらって」
「来年はもっといいのあげるよ」
「すごい嬉しい。ありがとう」
「大事にしてくれる?」
「もちろん、大事にするよ」
その彼女のリアクションに、サトルは希望の光を見出した。そして信じた。未来は自分の努力で変えられるに違いないと。長友がそれを成し遂げたように、自分も。
◇
「徳永さん、来月帰ってくるんだって」
ミオの口からそう聞かされたのは、八月の終わりだった。約束の一年間のレンタル期間はすでに経過していた。
東京オリンピックは予定通り、その年の夏に開催され、お互い、その期間はほとんど休みなく朝から晩まで働いた。大きな達成感のようなものは得られなかったが、ひとまず、やることはやったという満足感はあった。
オリンピックの閉会式は、新橋の酒場のテレビでふたりで見た。おつかれさま、と言い合って乾杯をした。酒類の提供時間があっというまに終わってしまったので、そのままサトルの部屋でふたりで飲み直した。ミオもそれなりに機嫌がよく、いつものようにふたりで抱き合って眠った。このまま、同じような夜がこれからも続くとサトルは思っていた。終わりの気配は感じなかった。
でも、終わりは唐突にやってきた。
彼女の短い話を聞きながら、戦力外通告を受ける選手というのはこんな気分なのだろうか、とサトルはどうでもいいことを思った。
ミオはゲームを終わらせにかかっていた。勝ちゲームをしめくくる、そんな体勢だった。
サトルは抵抗した。丸二年も会わなくていい男なんて、ミオにとって本当に必要なの? そんな男いらなくない? 二年会わなくていいなら、もう会わなくたって平気でしょ。
センターバックを二枚、前線に固定して、両サイドからひたすらクロスを供給する、そんな最後のあがきだ。
でもミオは終始、冷静だった。
「ごめんね」
サトルが何を言っても、返事はそれだけだった。
「ごめんね」
そう言って、ミオはサトルを抱きしめた。
「ルールはルールだから。守らなきゃ」
何よりも正しく、それでいて残酷な別れの言葉だった。
◇
サトルがいくらLINEのメッセージを送っても、既読はつけど返信はない。着信にはまったく応じない。ミオは完全に、サトルの前から姿を消した。
九月のある朝、サトルはまだミオの気配がかすかに残る自分の寝室で、ミオの夢を見て目を覚まし、そしてふと手にとったスマホでその記事を見た。
《長友佑都がFC東京に復帰。》
「愛するクラブだから」
という本人のコメントを読んで、サトルは泣いた。このニュースを読んで、こんな涙を流した男は、世界広しといえども、サトルひとりだっただろう。
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Written by Masashi Fujita
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