#37

ロシアに行けなかった恋人たち
They couldn't go to Russia

読了時間:約10〜15分

 彼女は「ありさ」という名で働いている。
 本当の名前は村田聡美なのだが、この業界、本名を名乗るのはあらゆる点でリスクが高く、そんな人間は稀である。
 店でありさの本名を知っているのは店長ひとりだけだ。いつも顔を合わせる電話番のバイトの女の子も、送迎ドライバーの男の子も、彼女が「ありさ」であること以外、ありさについての個人情報は何も知らない。
 ありさは週に三日か四日、その店で働いている。指定された時刻、指定されたホテルの部屋で、決められた時間、客に奉仕をする。店との取り決めで、サービスをはじめる前に客から受け取る金額の半分が、ありさの取り分になる。
 
 この仕事をはじめたのは二十歳のときで、サッカー日本代表がロシアW杯への出場権を獲得したその年の秋の終わり、ありさは二十七歳になった。いつまでも若くなんていられないのだからそのうちやめよう、遅くとも二十五を過ぎたらやめよう、そう思いながら働き続け、いよいよありさはアラサーと呼ばれる時期にさしかかった。
 もうこれから別の仕事を一からはじめる気にはなれない。そして案外、ありさはこの仕事に居心地のよさを感じてもいる。(それでも、三十になる前にはやめよう、彼氏ができたらこの仕事をやめよう、そう思っている。)
 
 ◇
 
 ありさが七年間、ずっと同じ店に勤めているのは、業界の中で比較的良心的なお店だからというだけではなく、彼女にいいお客さんがついているからだ。
 ありさは性格がやさしく、どちらかというと根が真面目で人当たりもよいので(顔だちは美形と呼ばれるものからほど遠くても)、他の店や他の女の子でひどい思いをした客にとっては、それだけで掘り出し物のような存在に見えるらしい。
 ありさには常連客と呼べるお客さんが何人もいる。どこかの会社の重役らしいおじさんが三人、若いお医者さんがひとり、服は脱がず毎回甘いものを食べながら会話をするだけで三時間も使ってくれるおじいさんがひとり。お金持ちの彼らが、週に一度とか二週に一度、あるいは月に一度の頻度でサービスを受け、それがありさの生活を支えている。
 
 ◇
 
 お金持ちではないけれど、彼らミドル世代やシニア世代の常連客とは別に、毎月一回、きまって月のはじめの日曜日、昼間の早い時間に予約を入れる若い客がいる。それが田中くんだ。
 田中くんの予約の入っている日の朝、ありさの出勤の支度が少し念入りになる。下着を選ぶのにも時間がかかる。田中くんはありさの好みの顔をしている。日本代表で例えれば、乾貴士に少し似ている。背は高くないけれど、着ているものがいつも清潔で、プレイもノーマル。会話も楽しい。
 田中くんなら恋人のひとりふたりすぐにできそうなものなのに、
「俺ほら、全然モテないし」
 そう言って、月一回、彼はありさの所属する店に予約の電話をかけ、ありさのサービスを受け続けている。
「会社の給料あまりよくないから、月に一回が限度だよ」と恥ずかしがるその表情が見たくて、ありさはときどき、ねえ、もっと私のこと呼んでよ、と言ってみたりする。
 ありさは、田中くんのことが好きだ。お客さんとしてだけでなく、人として、同じ年頃の男性として。
 
 ◇
 
「組み合わせ、決まったね」
「コロンビアとセネガルと、あとどこだっけ」
「ポーランド」
「あ、そうだ。レバンドフスキがいるポーランドだ」
 客が女の子の個人情報を知らないように、ありさもまた、田中くんの本当の名前を知らない。毎回予約のときに使われる「田中」という名字が仮名なのは、わざわざ説明を受けるまでもないことだ。でも、ありさは予約のときに彼が使うスマホの番号を知っている。そして、彼もまたありさと同じようにサッカー好きだということも。
 ベッドの中で、ふたりはよく日本代表の話をする。ありさは地元・群馬のザスパクサツが好きで、田中くんはスペインのサッカーをよく見る。J2とリーガの話題になると互いの知識量に差があって会話が噛み合わないけれど、日本代表のことなら、ふたりともたくさん話ができる。ちなみにありさがこれまででいちばん好きな代表はザックジャパンで、田中くんのそれはオシムジャパンだ。
 
 ◇
 
「ロシアかあ、行きたいなあ」
 十二月、翌年の夏に控えたロシアW杯の組み合わせ抽選会の直後は、所定のプレイ時間が終わるまでふたりでずっとその話をしていた。
「俺、一度でいいからW杯の日本戦、生で見たい」
「私も。ロシアなら広いけど隣の国だし、行けそうな感じもするよね」
「わかる。でもチケット取らなきゃだし、貯金も頑張らなきゃだし、それよりまずは俺の場合、一緒に行ってくれる人を探さないとなんだよな」
「え、じゃあ私と一緒に行く?」
 ありさは冗談で、でもほんの少しだけ本気で、田中くんに提案してみた。
 田中くんには恋人も、奥さんもいない。これまでの話だと、一緒にサッカーを見に行く友達もいないみたいだった。
「ありさちゃんが俺と一緒にサッカー見に行ってくれんの? ロシアに? それめっちゃ楽しそうじゃん」
「絶対楽しいよね」
 でもどんなに盛り上がっても、そういう話は実現しない。実現しないから、夢を語るみたいにいくらでも盛り上がれるのだ。
「ロシア寒そうだから、ノースフェイスのダウンのいちばんいいやつとか買っちゃおうかな」
「いやいや、夏だから、W杯」
「あ、そうか」
 
 その日、ありさは二十七歳の誕生日を迎えたばかりだった。ホテルの部屋を出る間際、これよかったら使ってと言って、田中くんはささやかなプレゼントをくれた。
「こないだ誕生日だったでしょ」
「え、おぼえててくれたの?」
「うん。たいしたものじゃないけどね」
 リボンをほどくと、中身はどこにでも売っていそうな入浴剤とバスミルクのセットだった。でもそれはありさをとても幸せな気持ちにさせた。前に星座占いかなにかの話をしてぽろっと口にした自分の誕生日を田中くんが記憶してくれていたこと、お風呂が好きだと話したのをおぼえていてくれたことが、ありさはすこぶる嬉しかった。
「ありがとう。大事に使うね」
「いや、普通に使ってよ」
 
 ◇
 
 年末年始を、ありさは群馬の実家でゆっくり過ごした。
「今年はいよいよW杯だなあ」
 元旦は父親と一緒に天皇杯決勝を見た。父親もサッカーが好きで、ザスパクサツのサポーターだ。ありさがサッカー好きなのはその影響である。
「いつか、ザスパから代表選手が選ばれるといいよなあ。そしたら俺、W杯でも何でも見に行っちゃうよ」
「じゃあ私も連れてってよ」
「自分の飛行機代くらいは自分で出せよ」
「ケチ。無理に決まってんじゃん」
 両親の前では、ありさは居酒屋でアルバイトをしていることになっている。この七年間ずっと、時給千円ちょっとで働いているふりをし続けている。
 
 三が日が明け、東京に戻る新幹線の中でありさは考えた。
 ロシアに行くには、いったい、いくらくらいあればいいんだろう。
 チケットと、航空券、ホテル代、あとは食事とか空港までの移動、いろいろな細かな費用を足して、二十万円あれば行けるだろうか。いや、その倍くらい必要か。ふたり分ならさらにその倍。ツアーに申し込むのと個人で行くのとではどっちが安いだろう。
 
 ◇
 
「ねえねえ、本当にW杯、見に行かない?」
 一月、ありさはいつものホテルのいつもの部屋で、誕生日プレゼントのお礼と使ってみた感想  すごい肌すべすべになったよ、ほらほら触ってみて  を言ってから、田中くんにそう持ちかけてみた。
「もちろん、私なんかと一緒じゃいやだったら普通に断ってくれていいんだけど、私、田中くんとW杯見れたら最高だなって思っちゃって」
「俺もこないだありさちゃんに言われて、本当にそうなったらなって考えてた」
「ほんと?」
「うん」
「会社、休みとか取れる?」
「有給たまってるし、一ヶ月前までに会社に言えば、土日もあわせれば一週間は休めるよ。でも俺、ごめん、貯金ほとんどなくて。会社、ボーナスも出ないし。だから誘ってくれるのは嬉しいけど、現実的にはちょっと……」
 ありさがこの仕事をしていてよかったと思うのは、会社員と違って頑張れば頑張ったぶんだけ、お金を貯めることができることだ。もし旅費が百万円必要だったとしても、これから半年フルに頑張れば、そのくらい余裕で貯められる。なんならもっと割のいい店に移ってもいい。
「お金があれば行けるの?」
「うん、まあ……。でも実際のところないし。それに貯金頑張ったら、こうやって毎月ありさちゃんに会い来るとかできなくなっちゃう。だからテレビで一緒に見ようよ。日本戦の三試合、俺その時間にありさちゃん予約するから」
「じゃあさ、一週間有給とってよ。私も仕事休むから、ふたりでW杯たっぷり見ない? お店の女の子とお客さんっていう感じじゃなくて、普通に、プライベートの友達みたいに」
「それいいね。楽しそう。でもいいの?」
「うん、そうしようよ」
 
 その日からありさはまず、ネットで情報を集め、FIFAのチケット販売サイトでチケットの申込をして、仕事のない日に都内の旅行代理店をいくつかまわった。店長に言ってお客さんも増やしてもらった。
 二月にチケットが当選し、三月にツアーの仮予約を完了した。本気で行きたいと願えば、そしてお金と時間さえあれば、W杯というのは意外とあっけなくかんたんに見に行けるものらしい。
 ありさは言おうか言うまいか迷って、田中くんにはそのことをしばらく秘密にしておくことにした。ありさがお金を出すと言うと、彼を困らせることになってしまうかもしれない。男のプライドに傷をつけてはまずいし、考える時間も与えたくない。「そんなことまでしてもらう理由はないよ」と断られてしまったらたまらない。
 田中くんに言うのはぎりぎりまで待って、サプライズにしようとありさは考えた。五月に会ったときはハリルホジッチ監督解任の話でもちきりだったけれど、我慢した。ロシアにふたりで行く計画が着々と進行していることは喉元にぐっと押しとどめた。
 
 ◇
 
 五月の終わり、いよいよチケットがありさの手元に届いた。
 第二戦のセネガル戦、カテゴリー3が二枚。DHLの分厚い黄色い封筒からそれを取り出し、まじまじと見つめて、ありさはこのチケットで自分の人生が変わるような気がした。
 ロシアで、ありさは田中くんに自分の気持ちをきちんと伝えるつもりだ。お客さんと風俗嬢という関係ではなく、普通に恋人同士になりたい。それが叶ったら、ありさはこの仕事をやめる。そして本当に居酒屋のアルバイトでいいから一生懸命働いて、田中くんを支えながらふたりで生きていきたい。新しい人生をはじめたい。田中くんなら、それを受け入れてくれるような気がした。きっと彼も私のことが好きだと、ありさは確信していた。
 
 ◇
 
 六月の最初の日曜日は、ロシアW杯の開幕まですでに二週間を切っていた。日本代表メンバーも発表され、ありさの好きな乾貴士もちゃんと選ばれていた。
 その日もいつものように、いつもの時間、田中くんがありさを予約していた。
「有給、言われたとおりに取れたよ」
 シャワーを浴びる前に、田中くんはそう言って嬉しそうな顔を見せた。
「私も、今月は後半ほとんど仕事入れないことにしたんだ」
「テレビどこで見る? 俺の部屋、狭いからあんまオススメできないけど。ちょっといいホテルの部屋とか取ろうか? そのくらいならお金、出せるし」
「田中くんの部屋も行きたいけど、でも今回はちょっと特別なところで見ようよ」
「え、どこ?」
「エカテリンブルクアリーナ」
「何それ、どこのホテル?」
 ありさはバッグの中から用意してきたチケットを二枚、取り出してベッドの上に置いた。田中くんはきょとんとした顔をしてから、えええええっ、と口を大きく開け、まじかっ、と言ったきり言葉を失った。
「二十二日に成田発で、二十四日にセネガル戦を見て、二十七日に帰ってくる予定。一試合だけだけど、これ、私からのお得意様へのプレゼントだから、受け取って」
「まじか……」
「何も言わないで受け取ってね。旅行の手配とかもみんなできてるから」
「でも俺、パスポート持ってない」
「大丈夫、今から申請しても間に合うから。そのくらいは下調べしてあるよ」
「え、いいの? このチケット本物?」
「本物だよ、すごいでしょ」
「すげえ。俺、今、人生でいちばん驚いてる。ありがとう」
「それでね、ツアーは私の名前で予約しているんだけど、同行者の情報も必要なのね。だから名前とか生年月日とか住所とか、パスポート取れたら旅券番号も、あとで送って欲しいの。私のプライベートのスマホの番号とLINE、教えるから」
「うん、わかった。でも……すげえ。俺、生でW杯見られるんだ……」
 
 その日は、ありさにとって最高の一日になった。断られたらどうしようかと内心とても不安だったから、田中くんの手放しの喜びようはありさを感動させた。ベッドの中で、ふたりはもうすでに本当の恋人同士のようだった。ありさは仕事中だということを完全に忘れるほど、田中くんに夢中になった。
「初戦、コロンビアに勝って、勢いをつけてのセネガル戦だといいね」
「でもコロンビア、強いらしいよね。初戦引き分けで、このセネガル戦に勝たないといけない、みたいなシチュエーションだといちばんよくない?」
「それ最高だね。応援し甲斐があるね。いやあ、俺、正直、西野ジャパンどうかなって思って、ちょっとテンション下がってたんだけど、一気に上がった」
「最高の旅にしようね」
「絶対なるよ。俺、今日帰りに渋谷寄ってサムライブルーのユニフォーム買っちゃうよ」
「旅行会社に送る情報の件も忘れないでね」
「うん、ちゃんとあとで送るから」
 
 ◇
 
 ところが、その連絡は待てども待てども来なかった。
 ありさは何度も田中くんに電話をかけた。でも応答はなかった。LINEも、SMSも送った。でも既読はついても、返信はなかった。
 ありさは焦った。ぎりぎりまで待った。旅行会社に頭を下げて、可能な限り返答期限を引き延ばしてもらった。でもやっぱりいくら待っても、田中くんからの連絡は来なかった。
 日本代表が初戦のコロンビア戦で勝利を飾ったその夜、ありさはロシアに行くことをあきらめた。もうこの際、チケットもあることだしひとりで行ってしまおうかと思ったけれど、でもやっぱり、こんな苦い思いを思い出になんてしたくはなかった。
 
 《W杯の件はあきらめました。だから、返信だけはください。行けない理由を教えてください。これでおしまいなんて悲しすぎます》
 
 ありさは最後にそうメッセージを送った。でもやっぱり返信はなかった。
 
 ふたりでロシアに行こう。
 そう言い出さなかったら、田中くんとの関係はどうなっていただろう、とありさは考えてみる。田中くんは毎月、同じようにありさをホテルに呼んで、ふたりであらかじめ決められた時間を過ごして、ありさはその対価としてお金をもらって、その関係が永遠に続いただろうか。そんなわけはない。いつかは終わる。いつかは呼ばれなくなる。
 結局、W杯に誘っても誘わなくても、きっと何も変わらない。
 
 コロンビア戦の翌日、ありさは店に連絡をして、休みの予定にしていたその先の一週間をすべて客の予約で埋めてもらうことにした。そして旅行会社の指定した口座にキャンセル料を振り込んだ。
 
 六月二十四日の深夜、日本代表がセネガルに二度リードを許しながら二度追いつき、勝ち点1を獲得したその時間、ありさはベッドの上で見ず知らずの男と肌を合わせていた。この夜を境に、ありさは人生からサッカーを見る楽しみを失った。
 
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FOOTBALL SHORT NOVELS COLLECTION :
FOOTBALL AND LOVE SONG
Written by Masashi Fujita

memo

出会いと別れはいつもワンセットです。人との関係がそうであるように、サッカーと出会えば、サッカーと別れることもある。今回はそういう、日常生活からのサッカーの喪失の物語を書いてみました。次のW杯こそ現地で見たい、と毎回思い続けて、2002年の日韓共催以降はまだ一度も見に行けていません。2022年の次は……2026年。北米か。行きたいな。