#38

敗者の赤いマフラー、1999
Loser, 1999

読了時間:約10〜15分

 そろそろ桜のつぼみが開きはじめそうな春の週末、ようやく父の遺品の整理がはじまった。
 亡くなってから三ヶ月。
 年をまたぎ、四十九日も済ませ、やっと少しは心の整理がついたのか、それまでずっとふさぎこんでいた母が重い腰をようやく上げた。
「いつまでも泣いてばかりはいられないからね。あんたたちが春休みのうちに、手伝ってもらおうと思って。ちょっと来てくれない?」
 
 実家の母は、僕のふたつ年上の姉と一緒に住んでいる。
 僕が家に行くと、ふたりは着道楽だった父の残した大量の衣類をリビングに広げているところだった。
「うわ、こんなにあるの?」
「これだけじゃないのよ、靴とか帽子とか、まだまだクローゼットにあるの。あんたはお父さんの仕事のもの、やってくれる?」
「いいけど、いるものといらないものは、どうやって判断すればいいの?」
「書斎にあるものはみんなあんたに任せる。私に聞かれても分かんないし」
 そう言われても、まだ二十歳になったばかりの大学生で社会との接点など何もない僕に、何が仕事上の大事な書類かなんて判断できるはずがない。
「いいのよ、もう死んじゃったんだから。家にあるのは全部捨てちゃって。パソコンとか大事なものは会社の人が来て持っていったし」
 仕事のものに関して、母はまったく関心がないようだった。父はずっと報道関係の仕事をしていたから、もしかしたらスクープのネタや、世の中を動かすようなものすごく大事な書類が隠されているかもしれない。でも、今さらそんなものが出てきても、残された家族にとってはどうしようもなかった。
「じゃあ捨てるよ」
 僕は書類のすべてをシュレッダーにかけ、可燃ごみのごみ袋に押し込むことにした。
「昔の写真だけは、あったら残しておいて」
「うん、分かった」
 
 ◇
 
 書斎、と幼い頃から家族が呼んでいた父の仕事部屋は、父以外誰も立ち入ることのない、家の中でも特殊な場所だった。
 今でもまだ、書物の匂いに混じって、父の整髪料の匂いがする。少しくらいは感傷的な気持ちになるかと思いきや、まったくそんな気にならないのは、その場所も、その匂いも、僕にとってなじみ深いものとは言えないからだろう。
 僕は父のことをあまりよく知らない。
 高校生のときまでは確かに一緒に暮らしていた。でも父の帰りはいつも遅かったし、取材やら泊まり込みやらで長く家を空けることも多かった。
 ときどきリビングで顔を合わせても、会話といえばサッカーの話をするくらいで、深い話  たとえば人生を語り合うようなことは一度もなかった。大学受験のときも、進路の相談なんてしなかった。
 父がいったいどんな人生を送っていたか。どんな人間だったのか。それは家族より、きっと職場の人たちのほうがよく知っている。
 六一歳という、まだ死ぬには早すぎる若さで逝った父を思いながら、
「父親の人生なんて、誰にとってもそんなものだろう」
 僕は父と自分の関係を改めて考え、そんなふうに答えを出すしかなかった。
 
 ◇
 
 その旅行日程表が出てきたのは、デスク周辺の書類をあらかた片づけ、最後に押し入れの奥で埃をかぶっていたダンボールの中身をあらためていたときだった。
 【ポルトガル・スペイン周遊 十日間】
 大手の旅行会社のツアーのもので、日程表以外にも海外旅行の注意事項を記載した紙や、宿泊予定のホテルの情報のコピーなども一緒に出てきた。
 
「ねえ母さん、父さんがスペインに行った話って聞いてる?」
「スペイン?」
「一九九九年の五月」
「九九年っていうと、結婚したばっかりで、まだお姉ちゃんがお腹にいたときだね。どうかなあ、お父さんスペインなんて行ったかな。あの頃は取材で家を空けることが多かったけど、海外なら私が知らないはずないし、スペインは聞いてないわ。どうして?」
「いや、なんでもない。仕事のメモに、一九九九年スペイン取材予定って書いてあったからさ。行ったのかなと思って」
 書類をごみ袋に押し込む手を止め、わざわざ母に訊ねたのは、そして「メモがあっただけ」と咄嗟に嘘をついたのは、その日程表の同行者の記載欄に、僕の知らない女性の名前と連絡先が印字されていたからだ。
「ああ、そういえば二週間くらい、何か大事な事件の調査があるって言って、北海道だったかな、出張してたことはあったわ。お土産に札幌ラーメン買ってきてくれたからおぼえてる。そう、五月の終わり頃だったと思うわ。北海道よ。スペインじゃなかったわ」
「そっか、なら別にいいんだけど」
 
 ◇
 
 リスボンから、セビージャ、グラナダ、マドリード。そして最後はバルセロナ。どこもサッカーファンにとっては耳馴染みのある地名だ。
 父は北海道に出張すると母に嘘をついて、イベリア半島を旅行した。
 僕がそう確信したのは、その日程表に、たくさんの書き込みが残されていたからだ。美術館の開館時間にレストランの予約、タクシーに支払った金額  どれも空想の旅で書き込めるようなものではない。紙を裏返せばその隅に、「土産、札幌ラーメン、成田」と走り書きがあった。もちろん、すべて父の筆跡だった。
 僕がまず考えたことは、これがはたして仕事の出張だったのか、ということだ。それならば、この女性は、同僚の記者やカメラマンだったかもしれない。一九九九年、スペインで何かがあった。だから取材した。それなら何も問題はない。しかしいくらスマホで検索をかけても、父の仕事と関連のありそうな出来事は見つからなかった。
 では仕事の旅行ではないとすると  。
 
 ◇
 
「そろそろお昼にしましょう」
 母に呼ばれて作業の手を止め、書斎を出ると、ダイニングで姉がそばを啜っていた。衣類の埃でやられたのか、それとも父の思い出にこみあげるものがあったのか、目が赤い。
「そっちはどう?」
「まあ、書類だけは今日中に終わりそう。でも本棚の本が大変だね」
「お金かかるけど、業者頼んだほうがいい気がしない? こっちも最初は自分たちで売れるものは分けて売ろうと思ってたけど、大量過ぎて。お母さんが残しておきたいもの以外は、みんなまとめて業者に持っていってもらおうって話になった」
「それがいいと思う」
「何か欲しいものある? スーツとか靴とか」
「いや、俺と父さん、サイズ違うから」
「小物とかもいっぱいあるよ」
 そう言って姉が持ってきたダンボールの中には、革小物やベルト、ネクタイなどが無雑作に押し込まれていた。その中に、ふと目に留まるものがあった。真っ赤な分厚いマフラー  FC BAYERN MUNCHEN  ビジネス小物やブランド品ばかりのその箱の中で、サッカーのクラブチームのマフラーは明らかに異質だった。
「母さん、これ何?」
 姉が母に訊ねる。
「わかんない。何だろうね。バイ……」
「バイエルン・ミュンヘン。ドイツのサッカーチームのマフラーだよ」
「ああ、お父さんサッカー好きだったから」
「でもこんなの巻いているの、私見たことないけどね」
 そう言いながら姉がそれを広げ、まじまじと見てからまたダンボールに戻したとき  あっ!  僕は気づいた。
 バイエルン  一九九九年  バルセロナ  驚くほど見事に、すべてが一本の線でつながっていく  カンプノウの奇跡。
 
 僕はそばの残りを口の中に押しこみ、急いで父の仕事部屋に戻った。スマホで、
「99 CL 決勝 バイエルン」
 と検索し、旅行日程表の日付と照らし合わせる。
 一九九九年五月二六日。
 チャンピオンズリーグの決勝がカンプノウで行われていたそのとき、父は現地、バルセロナにいた。
 
 ◇
 
 父の仕事部屋からこっそり持ち出したその旅行日程表を見ながら、春休みのあいだ、僕は何度も考えた。
 これは捨ててしまうべきだろうか。何も見なかったことにして、見つけなかったことにして。僕の知らない父の人生の一部を、僕はやっぱり知らないままでいいのかもしれない。
 
 でも僕は知りたいと思った。
 何も語り合わぬまま、二度と会えなくなってしまった自分の父親のことを知りたい。
 ただ、そうはいっても、手がかりになるのはその日程表に記された女性の名前と電話番号だけだった。
 つながらなければ、それはそれで構わない。あきらめよう。そう思ってその番号に電話をかけると、案外あっさり、それはつながった。
 落ち着いた声の女性だった。
 僕はかまをかけるようなつもりで、名を名乗り、父の死を知らせた。
「父の遺品で、お渡ししたいものがあるのですが、伺ってもよろしいでしょうか」
 ためらうように言葉を選びながら、その人は、ええ、わかりました、と答えた。
 
 ◇
 
 実家から電車で三十分ほどの、静かな住宅街の一角に、その人の住む家はあった。
 還暦を少し過ぎたくらいだろうか、母よりも少し年上のその女性は、品のよい笑顔で僕を家の中に迎え入れてくれた。
「突然お邪魔して申し訳ありません」
「いいえ。来てくださってありがとう。私もお線香をあげにお宅にお邪魔したいところだけれど、さすがにそういうわけにはいかないわね」
 彼女の口から出たその言葉で、父とその人の関係が察せられた。
「私とあなたのお父さんのことを、あなたはどのくらい知っているの?」
「実は何も知らないんです」
「そう」
「教えてもらえませんか」
「もう、あまりおぼえてないから」
 でも、僕がかついできたリュックの中からバイエルンの赤いマフラーを出して広げると、彼女は驚いたように丸く目を見開き、そして観念したような表情で僕を見てひとつため息を吐いてから、懐かしそうに語り出した。
 
 ◇
 
 あれはね、私たちの最後の旅行だったの。
 スペインを選んだことに理由なんてなかった。とにかく遠くて、誰も私たちのことを知らない場所。美しい場所。
 もうこれで終わりにする、って決めて、あなたのお父さんにたくさんお金を出させてね。
 ポルトガルから入って、スペインの小さな町をめぐって、マドリッドでたくさん観光して、最後がバルセロナだった。
 でも旅行が終わりに近づいて、さびしくなって、私が駄々をこねたの。やっぱり別れたくない。奥さんがいるのは構わないから、私ともこのまま付き合いを続けて欲しいって。でも「それはできない」って言われて、私は怒って、じゃあ奥さんにばらすとか、会社の人に言ってやるとか言って彼のことを脅したりした。
 だって、あなたは好きで結婚するわけじゃないんでしょう、子どもができちゃったから結婚するしかないだなんて、だから私とは別れたいだなんて、あまりにも勝手すぎる、って。
 日本に帰る前の日の夜、私はひとりでホテルを出て、バーみたいなところでお酒を飲んでいたの。治安が悪いから、本当なら怖くてそんなところひとりで行けないのにね。もう何があってもいいやって、そういう気分だったのね。
 そしたら、彼もやって来たの。私のこと探して。そのお店、すっごい混んでてね、男の人たちがみんなテレビでサッカーを見てた。私たちも、もう話すことなんて何もなかったから、見るつもりなんかなかったけどその人たちと一緒にずっとサッカーを見てた。六年よ。私たちは知り合ってもう六年も経ってたの。くっついたり別れたりを繰り返して。本当にもう話すことなんて何もなかった。
 赤いチームと、グレーのチームの試合でね。芝生の緑がきれいだったな。
 グレーのチームが一点取って、そのまま試合が終わりそうだったの。バイエルンっていうのよね。そう、バイエルン・ミュンヘン。ドイツのチーム。相手が確かイギリスのマンチェスター。そう、それ、マンチャスター・ユナイテッド。金髪でサラサラのカッコいい男の子がいるなって思ったら、それがあのベッカムなのよね。あとからわかったわ。
 このままバイエルンが勝つって、誰もがそう思った。そういう雰囲気だった。なのに、奇跡が起こったの。ロスタイムに逆転したの。マンチェスターの真っ赤なシャツがね、本当に燃えるように真っ赤に見えた。
 コーナーキックから。ベッカムよ、蹴ったのは。まず同点に追いついて、それからまたそのすぐあと。今度もベッカムのコーナーキックだった。ゴールの前にいた選手が目の前に来たボールを蹴り込んだの。大逆転。すごかった。バーにいた男の人たちの盛り上がりようったらもう。私、とんでもないところに来ちゃった、って思った。こんなところにひとりで飲みに来たのかって。ふふふ。
 試合が終わったとき、私、彼のことをあきらめることに決めた。だってひと晩で二度も奇跡が起きることなんてないでしょう。
 私はあなたのことをあきらめるから、そのかわり、思い出だけは大切にして、って言って、彼と約束した。ふたりで過ごした六年間のことを、死ぬまで忘れないで、って。私も、いい人を見つけて結婚するけど、なくさないから、って。
 成田空港で、私たちはさよならをしたの。
 それからは一度も会ってない。
 本当よ。
 
 ◇
 
「このマフラー、本当に私がいただいてもいいの?」
「そのつもりで、持ってきました」
「ありがとう」
 彼女はそう言って、敗者の名を両手で広げた。
「試合の翌日にね、街で売ってたの。マンチェスターじゃなくてバイエルンを買ったのはね、負けた方だから。私も彼も、勝った方じゃなくて、負けたバイエルンに同情したの。迷わずこっちのマフラーを彼が手にとったのを見て、私、彼のことを好きでいてよかったと思った。わかる? この気持ち。ふふふ、わかんないわよね」
 彼女は父と別れてから、二年後に結婚をした。それはちょうど僕が生まれた年だ。子どもはできなかった。でも今も夫婦ふたりで仲良く暮らしているという。バイエルンのマフラーは、旦那さんに見つからないところに隠しておくと言って、彼女は笑った。
「今の時代、いろんな価値観があって、いろんな正義があるわよね。でも心の中だけはいつだって自由なの。本当に。幸せになりたいなら、それだけは忘れちゃいけないわ」
 そういえば、子どものとき、僕にサッカーを見る楽しみを教えてくれたのは父だった。地元のクラブチームの試合にときどき連れて行ってくれた。海外にも興味があると言ったら、普段はケチなのに、パラボラアンテナを買ってきて気前よくCS放送に加入してくれた。
 そう、思い出した。ドイツW杯で父が応援していたのは、オリバー・カーンだった。カーンは、カンプノウで大逆転劇を許したバイエルンのゴールキーパーだ。
「このマフラーはずっと大切にします、って、お仏壇のお父さんにお伝えください」
 そう言ってほほ笑む彼女に、ほんの一瞬、父の顔がだぶって見えた。
「母さんと姉さんには内緒にな」
 やっと父が、僕に本当の姿を見せてくれたような気がした。
 
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FOOTBALL SHORT NOVELS COLLECTION :
FOOTBALL AND LOVE SONG
Written by Masashi Fujita

memo

98-99シーズンのCL決勝「カンプノウの奇跡」を、僕はリアルタイムで見ていません。見ていたら、きっと忘れられない試合のひとつになっていたことでしょう。「忘れられない思い出」「忘れられない人」そういうものをテーマに、サッカーとだぶらせて今回の話を書いてみました。逆転のロスタイム、YouTubeで何度も見返しましたが、本当にユナイテッドの赤いユニフォームが、燃えるように赤い。歴史に名を刻むのは勝者だけかもしれませんが、敗者だって、人の胸の中にちゃんと残ります。