#39

パスと銃口
Pass and muzzle

読了時間:約10〜15分

 四年前の彼は、中古車を運ぶ仕事をしていると言っていた。
 日本ではもう買い手のつかないような古い車であっても、トヨタや日産のエンブレムがついていれば、ロシアではまだまだ売れる。そういった車を、日本の各地から、ロシアと姉妹都市を結んでいるこの町の港まで運ぶ仕事をしている、と。
「けっこういいお金になるの?」
「ギャラは安い。でも俺のお父さんの知り合いにもらった仕事だし、俺も車は好きだから、やってる。日本の車、めっちゃ乗りやすい」
 見た目には白い肌と青い瞳で、少し冷たい表情をした、いかにもロシア人らしいロシア人だったけれど、背は低く華奢で、寡黙で、日本の大学のキャンパスに普通にいる感じの文系の雰囲気の男の子だった。年齢は私よりもひとつ下だったから、そのとき彼は二十二歳。今は二十六歳になっているはずだ。
 
 ◇
 
 彼と出会ったのは、洋服の撮影モデルのアルバイトをしたときだ。
 地元の織物工場が自社ブランドの商品のイメージ撮影をするのに、その工場の担当者の知り合いの知り合いが私の友達で、
「男の人と女の子をひとりずつ探している、誰かモデルをしてくれる子はいないか」
 めぐりめぐって私に声がかかった。ブランドの担当の人が私のSNSのプロフ写真を見て気に入ってくれたらしく、半日で一万円の報酬をもらえるというので引き受けた。
 そのときのもうひとりの「モデルの男の子」というのが、彼だった。
「ミーシャです」
 最初の顔合わせの自己紹介のとき、長い本名を告げてから、彼は言った。アクセントは少し不自然だったけれど、日本語は普通にしゃべっていた。父親がロシア人で、母親がウクライナ人。学生のときに貿易に関係する父親の仕事で日本に来て、父親はロシアに帰ったけれど、自分だけ日本に残って、今はその中古車関係の仕事をしている、ということだった。
 
 撮影は真夏で、私たちが着るのは秋冬用のニットだった。
 スタジオで何カットか撮影をしたあと、屋外でイメージ撮影をしたいとカメラマンが言い出して、みんなでぞろぞろと近くの公園に移動した。
 ひどく暑い午後だった。支給されたペットボトルのスポーツドリンクがあっというまにぬるくなった。暑さのあまり、撮影の雰囲気もだんだんとだらけてきた。長袖のニットの下ではずっと肌が汗ばんでいた。「モデルさん、汗かかないで」と言われても、無理な注文だった。カメラマンやブランドのスタッフの指示は思いつきで口にすることばかりで、スタイリストの女の人がひどく困っていた。
 
 ひととおり撮影を終えてから、夕焼けをバックに最後のカットを撮るということになり、私たちはニットを脱いでしばらく日没まで待たされることになった。
 カメラマンやスタイリストは日陰の喫煙所を探してどこかに行ってしまい、知り合いのいない私とミーシャのふたりが、公園のだだっ広い芝生の上に取り残された。
 モデルといっても、しょせんはバイトで雇われた素人だ。プロのモデルのような丁寧な扱いを受けることはない。炎天下、私たちは途方に暮れた。
「モデルとか、よくするの?」
 沈黙に耐えきれなくなって、ぎこちなくミーシャが声をかけてきた。
「ううん、はじめて。そっちは?」
「俺もはじめて」
「へえ」
 会話はそこで途切れた。私はあまり世間話が上手な方ではないし、彼もそんな感じだった。共通の話題もなさそうだった。ロシアの人と何を話せばよいのか、私はさっぱり分からなかった。
「ロシアって、寒い?」
 気まずい雰囲気になる前に、結局そんなつまらないことを聞くしかなかった。
「寒い。俺が前に暮らしていたところは  」
 聞いた地名は、興味がなくて聞いたそばから忘れた。
「へえ、やっぱ寒いんだ」
 
 こういうときに会話が続かないと、空気がどんどん微妙になっていく。
 他の大人たちと一緒に煙草を吸いにいけばよかったのかもしれないが、私はそもそも煙草が嫌いだし、煙草臭い大人たちも嫌いだった。
 誰かが忘れていったサッカーボールが近くにあったので、私はそれを足の裏で手前に転がし、ひょいと足の甲にのせて蹴り上げ、手に持った。4号のペレーダは、小学生のときに私が親に最初に買ってもらったボールと同じものだった。
「サッカー、上手いね」
 ミーシャが言った。
「中学まで、私、女子サッカーやってたから」
「へえ、見えない」
「これでもね、夏になると真っ黒に日焼けして男の子みたいだったんだよ」
「全然見えないよ。だって、スタイルいいし、脚も細いし」
「女子サッカーやってる子はみんな脚が太くてスタイル悪いって思ってる? それ、ネットとかに書き込んだら一気に炎上するよ」
「だね」
「スニーカー、汚したら怒られるかな」
 そう言いながら、私はリフティングをして、ミーシャに向けて軽くボールを蹴った。
 手で拾うかと思いきや、ミーシャはそれを左足の甲でトラップすると、「俺の履いてる革靴の方が怒られそう」と言って、右足のインサイドで蹴り返してきた。
「ま、撮影に使うったって、私物だから別にいいよね」
「うん、別にいいよ。たぶんニット着る上半身しか写さないよ」
 ミーシャのボールの蹴り方は、サッカーをやっていた人のそれだった。
「サッカーやってたの?」
「俺、腹違いのお兄さんいるんだけど、お兄さん、子どものときサッカーやってて。俺も一緒に、ちょっとだけ」
「ふうん」
 これは時間つぶしにちょうどいい、とそのときお互いの考えが一致した。
 5メートルくらいの距離をとって、ボールを蹴り、戻ってきたボールをトラップし、また蹴り返す、その繰り返し。そのうち、蹴りながらだんだんと会話も自然にできるようになってきた。
 
「ミーシャは、日本にはずっといるの?」
「もう四年、かな」
「ロシアに帰ることもあるの?」
「わかんない。家族が帰ってこいって言えば、帰るかもしれないし。でもお父さん、新しい女の人と住んでるから、俺あんま帰りたくない」
「へえ。お母さんは?」
「お母さんウクライナに帰った。俺、帰るならお母さんとこに帰ろうかな。でもロシアに俺、彼女いるのね。日本語でなんて言うんだっけ、えーっと、あ、イイナヅケ」
「許嫁!」
「あれ? 違う? 結婚する人のこと」
「言葉は知ってるけど、その言葉使う人、日本人にはもういないよ」
「友達にも言われる」
「お父さんは何やってるの?」
「貿易の仕事」
「お兄さんは?」
「お兄さんは今、軍人」
「軍人?」
「うん、もう長いこと会ってない。元々、お母さん違うから、そんなに仲良くないし」
「サッカー一緒にやったのに」
「それはほんと、子どものときだから。お兄さん軍人になってから一度会ったけど、そのとき、冗談でモデルガンの銃口をね、俺の方にこう、向けられて。ちょうどこのくらいの距離で。玩具だと分かってるけど、めっちゃ怖かった。それが最後のお兄さんの思い出。だからお兄さん、ちょっと怖い。俺と違ってマッチョだし」
 革靴はやはり蹴りにくいようで、ミーシャの蹴るボールはときどき走らないと追いつかないといけない方向に転がった。
「W杯、見た?」
 2018年のその年は、ロシアが開催国で、つい一ヶ月前にフランスが優勝して閉幕したばかりだった。私は日本代表の試合は全部見たし、ロシアがスペインに勝った試合も見た。
「ロシア、惜しかったね」
「ほんとそう。せっかくPKでスペインに勝ったのに、PKでクロアチアに負けちゃった。でもまあ、どうせフランスには勝てないよ。そもそも強いチームじゃないし。スター選手もいないし。それより日本だよ。俺、まじで叫んだよ。やめろーって」
 ベルギーに許した、試合終了間際の劇的なカウンターでの逆転ゴールのことだ。
「ミーシャは日本とロシアのどっちを応援してたの?」
「どっちも。あと、お母さんがウクライナ人だからウクライナも応援してるけど、今回は予選で負けちゃった」
「じゃあ次のW杯で日本とロシアとウクライナが同じ組だったらどうする?」
「どうしよう。俺、泣いちゃうね」
 笑うと、ミーシャは愛嬌のあるかわいい顔になる。
「そういえばミーシャって監督、日本にいたよね」
「ペトロヴィッチでしょ。浦和で監督やってた。今、確かコンサドーレにいるよ。彼はセルビア人だけどね」
「ごめん、ウクライナとかセルビアとか、そのへんの地理が私、全然わかんない」
「日本の人で詳しい人の方が珍しいよ。でも俺、いつか日本に彼女も、お母さんも、お兄さんも連れてきたいんだよね」
「日本好きなんだ?」
「俺、日本好き。ガイジンだから変な目で見る人もいるけど、いい人の方が断然多いし、安全で暮らしやすいし、ご飯も美味しいし。女の子もかわいいし。だから家族連れてきてみんなで暮らせたらいいのになって思うけど、まあ、無理ね。日本の人って、親とかおじいちゃんおばあちゃんとか、けっこう近くにいるじゃない。あれ、うらやましいね」
 ミーシャがキックミスして遠くに転がったボールを私が追いかけ、ヒールリフトをして振り返ったら、「ブラボー!」と本場の発音でミーシャが手を叩いた。
「はは、本物のブラボー、はじめて聞いた」
 そんなふうにふたりでボールを蹴っていたのは、ほんの三十分ほどの短い時間だったと思う。でも蹴ったあとの撮影は、ふたりの距離感がうんと縮まっていて、そのことに私は驚いた。カメラのレンズを向けられても、リラックスして肩の力を抜いて撮影されている自分がいた。ミーシャと視線を合わせて笑い合うようなカットも、自然な笑顔を作れた。
 
 ロシアに許嫁がいると話していたくせに、撮影が終わると、ミーシャは私を誘ってきた。
「ねえ、このあと飲みに行かない?」
「え、ふたりで?」
「帰り、俺の車で送るから」
「ごめん、私、彼氏が迎えに来ることになってんだ」
 実際はそんな恋人なんていなかったけれど、しつこく言い寄られそうだったので、私はそう言ってミーシャの誘いを断った。断りながら、少しもったいないことをしたような気もした。
「また会えるかな」
「来年、春物も撮影するって言ってたから、もしかしたら声がかかるかもね」
 連絡先を教えてよ、と言われたので、私はあまり使っていないSNSのアカウントだけを教えた。やっぱりまだロシア人との、というか外国の男の人との距離は測りかねる。悪い人ではないとは分かっている。でも恋愛みたいなことをはじめたり、身体を許したりするのは、怖い。
 そのあと何度か誘いのメッセージが届いたけれど、のらりくらりとはぐらかしてるうちにミーシャからの連絡は来なくなった。
 翌年の冬、また同じ撮影の依頼があった。「春物を撮りたいので、また前回のおふたりに参加していただきたい」というメッセージが届いた。誘いを断り続けたことでミーシャが不機嫌になっていなければいいな、と思って参加したら、でもその日やってきた男の子のモデルは、ミーシャではない、日本人の大学生だった。
 
 ◇
 
 テレビの映像やネットのニュース記事を見ながら、私はここのところ、毎日のようにミーシャのことを思い出す。
 半日、洋服の撮影モデルを一緒にやって、わずかな時間、ボールを蹴り合っただけなのに、まるで昔付き合った恋人のように思い出してしまうときもある。私にとって、唯一のロシア人の知り合いで、唯一、ウクライナとのつながりのある人だ。
 ミーシャのお兄さんは戦っているのだろうか。お母さんは無事だろうか。許嫁の彼女とお父さんはロシアのどこにいて、どんなことを思っているのだろうか。そしてミーシャは? もう彼女と結婚しただろうか。あるいは今も日本に住んでいるだろうか。家族みんなで、安全でご飯の美味しい日本のどこかに住んでいたらいいのに。
 あの日、私はミーシャの身体には一度も触れていない。なのに、足の裏に、甲に、内側に、ミーシャの蹴ったボールの感触がまだしっかりと残っている。それは、思い出すたびに、男の人の手で触れられたような妙なリアリティを持ちはじめている。
 昨日の夜、寝る前に布団をかぶって枕元のあかりを消したら、ふたりでパスをし合ったあの距離で、ミーシャがサッカーボールはなく、銃口をこちらに向ける、そんなイメージが浮かんできた。ざわざわと、どうしても嫌な予感がしてしまう。
 SNSのミーシャのアカウントを覗いてみたけれど、投稿は二年前から更新されていない。最後の投稿は、トヨタの古いランドクルーザーの写真だ。ランクル最高! と絵文字付きで書かれている。過去にさかのぼると、夕焼けの公園を背景にニット姿で笑っている、あの日の写真もあった。
 
 戦争反対を訴えるとか、デモを起こすとか、そういうことは、私にとってのリアルではない。でも、ミーシャとボールを蹴ったあの時間を思い出すことは、それに等しいことのような気がする。今日も、ミーシャが誰かとサッカーボールを蹴っていたらいい。そしてそこに、あの夏と同じような、暑くて、だらだらとした平和があればいい。
 
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FOOTBALL SHORT NOVELS COLLECTION :
FOOTBALL AND LOVE SONG
Written by Masashi Fujita

memo

僕の住んでいる町はロシアの都市と姉妹都市を結んでいて、普段顔を合わせることはあまりないけれど、けっこうロシアの人たちも住んでいるみたいです。中には、きっといたたまれない気持ちの人もいるだろうな、と思うと、胸が痛みます。スポーツが何かを解決するとは思わないし、その役割を期待するつもりも毛頭ありませんが、人と人をつなげるもののひとつが、スポーツである、ということは、確かにあるだろうと思っています。ひとつのボールを蹴り合うふたり、向こう側とこちら側、そのつながりは、そこが紛争のない平和な場所であることを証明するものだと、世界が新しい局面を迎えることになって、改めて実感します。みんなが純粋にサッカーを楽しめる、ピッチの上の出来事だけで一喜一憂できる、そんな時間が取り戻せますように。今だからこそ書けるものを書こう、という気持ちで、今回の話を作りました。