#44
読了時間:約10〜15分
四年前。
ロストフの悲劇を、私は彼と一緒に見ていた。二〇一八年の初夏のことだ。
おもての看板の明かりを消してから店にやってきた彼と、二人掛けのソファ席に並んで座り、テレビ中継の映像をプロジェクターで正面の壁に映写して、そのアディショナルタイムの悲劇的な結末を見た。
公私混同甚だしい。でも試合終了のホイッスルを聞いたとき、オーナーに内緒で配線工事をした際に感じた後ろめたさはもう私の胸の中には微塵もなく、私は雇われ店長兼バーテンダーを務める、神聖なはずのその職場で彼の肩に頬をあずけていた。
試合結果については悔しかったけれど、私はちょっと、いやかなり、幸せだった。
「負けちゃったね」
「だから急いでコーナーなんか蹴らなくていいのに」
「相手の攻撃、めちゃくちゃ速かったね」
「これが世界レベルのカウンターだよ」
彼は大きなため息をついてから立ち上がって伸びをした。
「また四年後だなあ」
彼が言ったので、私は思わず口走った。
「次のワールドカップも一緒に見られる?」
「次はカタールか」
「へえ、カタールなんだ」
それがどこにあるか、地理が苦手で方向音痴の私はよく分からない。
「カタール、一緒に行こうよ」
思いつき、にしてはやけに真面目な顔で、彼は私の目を見て言った。
「四年後なら俺、会社でけっこう偉くなってるはずだし、二週間くらい休み取るから」
「本当? 約束だよ」
「うん」
彼は言った。確かに、言った。
◇
日本海側のNという地方都市の繁華街で、雇われ店長兼バーテンダーとして働く私の店に彼が現れたのは、ロシアW杯が開催された年のはじめ頃だった。
小雪が舞う寒い冬の日で、彼は温かなコアントローのカクテルを注文した。なかなか通なものをオーダーするな、と気になり、他にお客さんのいない日だったので、私はカウンターの彼に話しかけた。
彼は東京に住んでいて、出張で全国を飛び回っているという。
「そのうちまた来ますよ」
そう言ってその夜、駅前のビジネスホテルに帰っていった彼は、翌日の深夜にまた私の店にやってきた。
「大きな契約が取れたんです」
自慢げにそう言って喜び、今度は店でいちばん高価なウイスキーをストレートで舐めながら、何度も笑顔を私に向けた。やけに眩しい笑顔だった。そして何度も見ているうちに、それは私にとっての何か特別なものになっていった。
契約を取ったその仕事には、付随する打ち合わせだか手続きだかなんだかの用事がまだいくつもあるらしく、翌週も、またその翌週も、彼は東京からやってきて、私の店のドアを開けた。
「一緒に飲みましょう」
他の客がいなくなってから、私は自分の分を彼の飲んでいるものに合わせて作り、彼とカウンターを挟んで飲むようになった。
仕事のこと、まだ独身であること、恋人もいないこと、彼についての個人的なことを私はいろいろ知った。
「今回の契約はけっこう大きなイベントで、それが七月にあるんですよ。でも七月ってW杯がおもいっきり重なるんですよね」
「サッカー、好きなんですか?」
「めっちゃ好きですね」
「じゃあ、この店に来たら見られるようにしてあげちゃおうかな」
冗談で言った思いつきのつもりだったのだが、彼が東京に帰ったあと、私の中でそれは本気になっていた。私は店のオーナーに内緒で、テレビが見られるアンテナの配線工事を業者に依頼した。
◇
彼はサッカーにとても詳しい人だった。
聞けば大学までサッカー部に所属していたのだという。将来有望で、プロのチームのスカウトから声をかけられたこともあったそうだが、大学二年のときに怪我をして、サッカーをやめたのだそうだ。
それでもサッカーが好きで、大学を出てからサッカービジネスを学びに海外の特殊な学校に留学しようかと考えたほどだったという ― 今の会社に内定が決まって、それはあきらめたそうだ。
彼は店に来るたびに、若いサッカー選手の話をした。私にとってはちんぷんかんぷんだったけれど、熱心に聞いているうちにいくつか名前をおぼえた。
彼の目は確かなようで、彼が名前を挙げた若手の選手は、国内の選手も海外の選手も、だいたいその後大きな活躍をしているという。
一度、まだロシアW杯が始まる前に、彼が部下らしき女の子を連れてきたことがあった。まだ二十代前半の、背の低いショートカットのかわいい子だった。私は彼が女を連れてきたことにひどく落胆した。そして、そんな素振りを見せないようにと、いつもよりも仕事に集中した。
彼がトイレに立ったとき、カウンターでひとりになった彼女に、私は話しかけてみた。最初は仕事の話を。それから、彼の人となりについての話を。彼と彼女のあいだに上司と部下以外の関係が何もないことを確かめたかった。
「先輩ですか? あの人はめっちゃ厳しいです。なんか、要求されるハードルが高すぎてついていけないっていうか。地頭がよくて仕事ができる人って、できない人の気持ちとかわからないじゃないですか。そんな感じです。ちょっと暑苦しいし。早く私、解放されたいんですよね」
それを聞いて私はホッとした。
「あの人、できる人なんだ」
「うちの部長が言うには、彼の仕事には嘘がないんだそうです。売上の目標を決めたり、何か大事な約束をしたりすると、絶対にその数字とか約束を守る人なんですって。だから会社の上の人たちからはすごく信頼されてて、こうやって自由に全国を飛び回ることを許されているんです」
へえ、と思った。そして、彼と何か約束ができたら、とも思った。
◇
彼とはじめて性交したのは、ロシアW杯が始まった六月、フランス代表の試合の後だった。看板を片づけ、店でふたりで試合を見てから、彼のホテルに行った。
「会社の名前でシングルで予約したホテルだから悪いんだけど」
と彼は申し訳なさそうに言い、私は客人のふりをして彼とは別のエレベーターで彼の部屋の階に上がった。
空調の効いた部屋で、夜景と呼べない地方都市の真っ暗な窓の外を見下ろしながら、その日おぼえた選手の名前を口にした。エムバペ。
「メッシは知ってる?」
「知ってる」
「ロナウドは?」
「知ってる」
「ネイマールも知ってる?」
「ブラジルの、やんちゃそうな人だよね?」
「そう。エムバペは次のスターだよ。もしかしたら、この大会でメッシを越えるかも。それだけのポテンシャルはあると思うな」
彼がそう言っていたエムバペが試合で活躍した。
「サッカー、見る目あるんだね」
「いや、エムバペは世界中のサッカーファンがみんな注目してるから。今さらエムバペいいよ、って言ってももう遅いから」
彼はそう言って笑ってから、実はW杯に出てないんだけどノルウェーに面白い選手がいてね、そのうちビッグクラブに行くことになるよ、とひとりの選手を教えてくれた。
「ハーラン」
「ハーランね。おぼえておく」
「うん。サッカー通のお客さんが来たら、名前出してみて」
「ねえ、もっと私にサッカー教えてよ」
彼が選手の名前をいくつか並べる途中で、私はたまらなくなって自分から彼の唇をふさいだ。
◇
ハーラン ― アーリング・ハーランド、アーリン・ホーラン。
彼が教えてくれたその選手は、母国のノルウェーからオーストリアのチームを経由して、二〇二〇年、ドルトムントというドイツの名門クラブに移籍した。
「ほらね、こっからブレイクするよ彼は」
最後に彼と会ったのは、黄色いユニフォームに身を包んだ大柄なその選手を一緒に見た、あの春のことだ。
あの春、新型コロナウィルスの蔓延 ― パンデミックで、世界のサッカーが、いや世界中のなにもかもが足を止め、そして彼の全国出張もその足を止めた。
LINEでは連絡を取り合い、サッカーの話をした。私はコロナ禍で客足の遠のいた店で仕事中もサッカーを流すようになり、サッカー好きの女性バーテンダーとして地元の雑誌で紹介されるほどになった ― そのせいでオーナーに怒られるかと思ったが、オーナーは店が雑誌に載ったことで気をよくして店がスポーツバー化することに目をつむってくれた。地元チームの選手がプライベートでやってきて、海外のクラブチームの話で盛り上がり、驚かせたこともある。
◇
今夜はマンチェスター・ダービーだ。
この店がスポーツバー化してから客になったプレミア好きの数人の男たちが、わざわざ試合を見にやってきた。意外と人が集まったのは、キックオフが日本時間の二二時なので、試合が終わってもまだ最終のバスに間に合うからだろう。
今年から水色のシャツを着るハーランドが初めてのダービーで存在感を見せつけた。フィジカルを存分に生かした打点の高いヘディングでゴールを決め、さらにデブライネからの信じられないタイミングとコースのラストパスを、伸ばした長い脚で再び決めた。
後半にも一点を奪ったハーランドは、なんとプレミアデビューからわずか十試合で三度目のハットトリックを達成したのだ。
「もうすぐW杯だけど、ハーランドは見られないんだよなあ」
常連客のひとりが呟く。
「アジア枠をひとつ削ってさ、W杯予選敗退組のオールスターチームを作って出場させたら面白いよね」
「ハーランドとか、オーバメヤンとか」
「サラーもそうだよ。面白いね」
「中盤から後ろはイタリアで固めたりしてね」
「アラバとかも入れたいなあ」
私もその会話に自然に加わる。すっかりサッカー通になっている。
「ところで、この店しばらく休業するってほんと?」
「そうなんです、ごめんなさい」
「この店でW杯見ようと思ってたのに」
「私もそのつもりだったんですけどね。ちょっと建物があまりにボロいんで、工事しないといけなくて」
「なにもW杯期間中にやらなくても」
「ほんとごめんなさい」
試合が終わった途端に、さあっと潮が引くように帰っていった家庭持ちの男たちを見送ってから、私は、彼があの大きな契約を取れた四年前の冬にオーダーして、それから一度も開けていないウイスキーのボトルを開けた。
ストレートで、しつこく香りを舐めるように味わう。あのときの彼がそうしたように。彼が、私にもそうしたように。
もうすぐW杯がはじまる。
十一月の後半から、私はカタールに行くはずなのだ。だからこの店はしばらく休むとオーナーに伝えてある。バーテンの個人的な事情で、というのはちょっと理由としてよくないので、ビルの配管工事、ということにして。
《ハーランド、今夜もやばいね。》
彼にLINEした。でも返ってこない。既読にもならない。
《ハーランド、シティに加入だね。本当にビッグクラブに来たね!》
《リバプールとの試合、見たよ》
《なんかスケールがひとりだけ違うw》
《プレミア、見てる?》
《もし見てたら、ときどき感想とか送ってくれると嬉しいな》
《十一月、休みをとったよ。カタール行けるかなあ。まだコロナ収束しきってないし、海外旅行は難しいかなあ》
《もし行けるならパスポートの準備とか必要だから、連絡ください》
スクロールする。既読のつかないままの、画面の右側からの一方的なメッセージが、彼を責め立てるように並んでいる。
四年前。
あのとき、ハーランドはまだ世界の注目選手ではなかった。四年という歳月は、何かが変わるのにじゅうぶんな時間なのだろう。
■
FOOTBALL SHORT NOVELS COLLECTION :
FOOTBALL AND LOVE SONG
Written by Masashi Fujita
© 2019. MASASHI FUJITA All Rights Reserved.