#45
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その日、僕はカタールでまもなく開催されるW杯の日本代表メンバー発表を、勤め先の工場へ向かういつもの電車の中で知った。
夕方からの遅番シフトの日だったので、昼過ぎに起きてから出勤時間ギリギリまで布団の中で過ごし、スマホのゲームに夢中になっていたため、森保監督の記者発表の生中継があることをうっかり忘れていたのだ。
先月、長かったパートからようやく契約社員扱いに昇格した。食品工場の生産ラインの仕事の内容自体には何も変化がないが、福利厚生がつき、手取りも少しだが増えた。その増額分を見越して購入したアプリだった。何気なくゲームの続きをやろうと電車の中でスマホをポケットから取り出したとき、ホーム画面に「W杯代表メンバー発表!」の速報が通知された。
そうか、今日発表だった。
◇
僕が気になっていたのは前線のメンバーだ。前田、相馬、上田、そして浅野か ― 大迫も古橋も外れたのは意外だった。他のメンバーもざっと見渡す。ディフェンスラインは大方の予想通り。MFも遠藤や守田らが順当に入り、南野、久保、三苫ら攻撃的なタレントの名前がしっかりある ― ロストフの悲劇からのメンバーを探すと ― 原口元気の名前がなく、代わりに柴崎岳がいる。
へえ、柴崎か。端正な顔だちが頭の中に浮かんだ。
柴崎は好きな選手だった。キックの質が高くて、中盤の底から正確な長短のパスを織り交ぜてゲームメイクができる。鹿島にいたときから、いや高校時代からその技術力は抜けていた。今の所属はスペインの二部、レガネス。グループリーグの対戦相手にスペインがいることも、ずっとかの地でプレーしている本人にとって大きなモチベーションになるだろう。
そう思いながらふと顔を上げると、東京の都心部から埼玉の南部へと走る準急電車の車窓には秋の色が増えている。秋のW杯はなんだか変な感じがするな。W杯といえばいつも半袖シャツで、夏に向かう蒸し暑さの中で見ていたのに。
柴崎岳からの連想だろう。気づくと、僕はあの人のことを思い浮かべていた。
◇
レオンさんとは、四年前の春、アプリで知り合った。
彼女がいない歴がそのまま自分の年齢とイコールの僕は、その頃、三十歳を前に彼女が欲しく欲しくてたまらず、複数のマッチングアプリを活用して、誰でもいいから手当たり次第、といった感じで年齢の近い近所の女性との出会いを探していた。
アプリを使いはじめて最初に知り合った女性がレオンさんだった。プロフィールによると彼女の居住地は東村山市で、新所沢にある僕の職場と割と近かった。
コンタクトを取り合って一週間後、小平駅の近くのイタリアンレストランで待ち合わせて食事をした。事前に画像のやりとりなどはしなかったから ― お互いに見た目には自信がなかったから ― どんな人が来るか、僕は正直かなり不安だった。あまりにひどい見た目の女性だったら、気づかぬふりで帰ってしまおうか。そういう場合も想定していた。
でもレオンさんは、僕が想像していたよりも普通の顔だちの、どこにでもいる感じの人だった。僕より十センチくらい背が低く、ショートカットでちょっと顎が張っていて両目が離れていて、生き物に例えるとカメレオンみたいな雰囲気の人だった。会って早々、なるほど、それでレオンというニックネームなのか、と僕はひとり胸の内で合点した。そして、この人だったら全然ありだ、と僕は内心喜んだ。
ただ、残念なことに彼女は既婚者だった。
「ごめん、私、言ってなかったけど、主婦なんだよね」
「あ、そうなんだ」
どちらかといえば僕の目的は真剣交際だった。それでも、しょせんアプリだしまあそういうものか、と考え直して、
「別に、気にしないよ」
と僕は答えた。
「とりあえずアプリを始めてみたばっかりなんだけど、どんな人と出会えるのか知りたかったから」
正直にそう言うと、彼女は、ならよかった、と言って笑った。
◇
レオンさんは笑うと愛嬌があって、話していると唇のあいだから印象的な八重歯がちらちらのぞいた。
お互いの第一印象の話になったとき、
「私、爬虫類っぽいよね」と彼女は言った。
肯定すればいいのか否定すればいいのか分からず、
「僕は動物だと、メガネザルって言われる」
と僕が答えると、
「あはは。笑っちゃいけないけど、それめっちゃ分かる」
レオンさんは大きな口を開けて笑った。
食後のコーヒーを飲み終わったとき、僕は彼女のことをうんと気に入っていた。すでに好きになっていたかもしれない。なんだ、結婚してるのか、と少し腹立たしい気持ちが胸の奥に生まれていた。
既婚者である彼女がアプリで男と会う、その目的が、僕はよく分からなかった。身体の関係を求めているのだろうか。そう思って、
「このあとどうする?」
反応を探るように訊ねると、彼女は急にひるんだ感じになって、うーん、と首を捻った。少なくとも、今すぐホテルに行きたい、という雰囲気ではなかった。だから無理には誘わなかった。
「また、ご飯でも行こうよ」
店を出てから駅までふたりで歩いて、改札の手前で僕がそう言うと、
「私、既婚者だけど、いいの?」
彼女は言った。うん、と僕は頷いた。
「じゃあ次会うときは、もうちょっと長くいられる日にするね」
その言い方に、次に会うときはちゃんとホテルに行こうね、というニュアンスを感じた。彼女いない歴二十九年だった僕は、その上目遣いだけで、ちょっと興奮してしまった。
「ときどき、LINEしていい?」
「いいよ」
「じゃあLINEで話そう」
「うん」
◇
その日の夜遅くから、僕とレオンさんのLINEのやりとりが始まった。
彼女はLINE魔だった。
昼夜を問わず、一日に二十件近くメッセージが入った。返信すると、彼女は常にスマホを目の前に置いてスタンバっているのではないかと思うほど、すぐに既読がつく。
《私さあ、主婦じゃん。ヒマじゃん。それくらいしかやることないんだよね》
今思い返せば、もしかしたら僕だけでなく、彼女はアプリで知り合った他の男ともこうやってLINEでやりとりするだけの関係を複数築いていたのかもしれない。
春から夏に季節が変わろうとしても、ふたりのLINEは止まらなかった。
六月、ロシアW杯の日本対コロンビアを見ていると、
《もしかしてサッカー見てる?》
と彼女からメッセージが入ってきた。
《見てるよ。サッカー好きだから》
《私も見てる。旦那の横で》
《旦那さんサッカー好きなの?》
《大学までサッカーしていたらしい。テレビ見ながら解説してくるからうざい。でも柴崎くんはカッコいい》
《柴崎好きなんだ。いい選手だよね。巧いし。俺も好き》
《プレーとかは興味ない。サッカーなんて選手の顔以外に見るとこないし。あ、なんか騒いでるよ。赤いカードだ》
《ハンドでPKだよ》
《柴崎くん蹴るかな?》
《たぶん香川でしょ》
◇
それから、日本戦の中継のある夜は彼女とのLINEの応酬になった。
《負けてるのにずっとパス回してるけどこれどういうこと?》
《このスコアで負けても決勝トーナメントに行けるからオッケーってこと》
《そんな作戦あるんだ》
《旦那さん、解説してくれないの?》
《旦那の話、頭に入ってこないんだよね》
僕はスマホの画面を見ながら指を動かしてばかりで、肝心の試合をちゃんと見られなくて困った。
《日本代表って監督も実はちょっとカッコよくない?》
《西野さんはモテると思うよ》
《うん、こういうオジさんなら全然私いける》
彼女は基本的に面食いだった。ブラジルW杯の注目は玉田圭司だったらしい。南アフリカ大会は内田篤人。その前は再び玉田圭司で、彼女が小学生だった日韓大会は松田直樹と中田浩二。
《へえ。じゃあ旦那さんも柴崎に似てたりするの?》
僕がそう質問すると、カメレオンのキャラクターが腹を抱えて大爆笑するスタンプが送られてきた。
《うちの旦那なんて、毛むくじゃらの熊だよ。熊のくせにカッコつけてなぜか茶髪のロン毛だから。正直、私には男っていうより、旦那、まず人間にすら見えない》
ロン毛の茶髪の熊。僕は職場の工場にいるひとつ年上の社員の上司を思い浮かべた。
《うちの職場にもいるよ、ロン毛の熊。すげームカつく上司》
《見た目が熊の人って、腕とか毛むくじゃらじゃない?》
《めっちゃ毛むくじゃら》
《殺していいよ》
《猟銃買わなきゃ》
人を見た目で罵って笑うなんて、もし僕が有名人でこれがオープンなSNSだったらすぐに炎上してしまうだろう。でもマッチングアプリで知り合った男女のこそこそとした会話だからこそ、これはこれで陰湿で楽しかった。
《今度、一緒にサッカー見たいな》
そう送ると、
《無理》
と秒で返ってきた。
小平ではじめて会ってから二ヶ月近く経っていたが、二回目のデートはまだだった。僕が何度か誘って、そのすべてを《その日は旦那が家にいるから無理》と断られていた。
◇
決勝トーナメントのあのベルギー戦も、僕らはLINEでやりとりをしながら見ていた。僕は部屋でひとりで、彼女は自宅(一軒家かマンションかは分からない)で旦那さんと。
《やばい、ベルギーに勝っちゃうかも》
《私は勝ち負けはどうでもいいけど、また柴崎くんを見られるのが幸せ》
《うわー、同点!》
《なにあのアフロ。まじうざい》
延長戦突入目前のアイディショナルタイム、日本のコーナーキックから始まったベルギーのカウンターは、まさに電光石火、ワールドクラスの速攻だった。
ナセル・シャドリのゴールが決まった瞬間からしばらく、僕はテレビの前で放心していた。鳴りっぱなしだったスマホのLINEの通知音も、その間はまったく鳴らなかった。
《ショック》
現地映像が終了してから、短いメッセージが届いた。
《なんか言葉にならないよ》
《やばい、私、泣いてた》
《気持ちわかる》
《選手、頑張ってたよね》
《うん、頑張ってたと思うよ》
《なのに旦那がめっちゃ選手の悪口言っててまじでキモい。ほんと別れたい》
その日、僕は昼番のシフトの日だったので、試合が終わってからすぐに出勤の準備をして家を出た。労働意欲はまったくわかなかった。日本代表の負け方は、彼女と同じで僕にとってもとてつもなくショックだった。
工場のロッカー室も、その話題でいつもよりざわついていた。みんな寝不足の顔をしていた。
「仕事、集中してくっさいよー」
その社員の上司は、ロッカーに入ってくるなり、着替えているパートの従業員を見回しながらかったるそうに言った。僕よりもうんと背が高く、肩幅が合ってガタイもかなり屈強だ。そういえば以前サッカー経験者だと言っていた。
「野崎さんも今朝の試合見ました?」
僕がそう言って水を向けると、彼は、
「見た見た。なんだあれ。あの時間帯は時間稼ぎだろ普通。まじ無能。センターサークルで棒立ちの奴とかもいたし」
そう言ってなぜか得意げに選手批判を始めた。品質管理の責任者であるこの熊男はいつもこうだ。高圧的で、他人の小さなミスをいつまでもしつこく責める。「何かあったら俺のせいになるんすから、勘弁してくださいよ、ちゃんとやってくださいよ」が彼の口癖だ。手が空くと、重箱の隅をつつくように他人の失敗を見つけては、あげつらい、もう還暦に近いおじちゃんやおばちゃんにも平気で説教を始める。彼はパート全員に嫌われていた。
そういえばこの人、工場では衛生帽かぶっているからわからないけど、本当は肩までのロン毛なんだよな。僕はふと思った。あれ。この人ってもしかして。
「何、お前、ショック受けてんの?」
「いやまあ、あんな負け方だったんで」
「うわ、なんか涙目じゃん」
「泣いてはいないっす」
「いや泣いてる泣いてる。なんなんお前、ちゃんと仕事しろよ」
「だから泣いてないです」
「うちの嫁も泣いてたよ。サッカー全然興味ないくせに」
◇
その日、仕事が終わってから、僕は帰りの電車の中でレオンさんにLINEを送った。
《レオンさんって、昔清水とかヴェルディとかで監督していたレオンさんと関係ある?》
《誰よそれ》
《ですよね》
《レオンといえば、リュック・ベッソンでしょう》
《あ、その映画まだ見たことないっす》
《私も実は見たことない。笑。私はカメレオンみたいって言われるから、それでレオンだけど。でもレオンって、名前だけならなんかちょっとかわいくない?》
《かわいいです》
《もっと言って》
《レオンさん、かわいいです。好きです》
《照》
《もしかして旦那さん、新所沢の工場で品質管理の仕事してません?》
既読がついたあと、やりとりが途絶えた。彼女が凍りつく音が聞こえた気がした。
それから二度と、彼女からLINEが来ることはなかった。
◇
いつものようにネームカードを守衛に見せて会社の敷地に入り、工場のロッカー室で全身真っ白な作業着に着替える。
今日も僕はあのロン毛の熊の下で働いている。仕事は四年前と何ひとつ変わらない。
一度、コロナ前の会社の忘年会のとき、仲のいい女子社員にぜひ聞いてみてくれと頼み込んで、酒に酔って上機嫌の熊に質問してもらった。
「野崎さんってどんな女の人がタイプなんですか? 奥さん、生き物に例えると何に似てます?」
えー、有名人じゃなくて生き物かよー、と言ってから、
「爬虫類系かな」
熊は答えた。写真は見せてくれなかった。
僕は工場のいつもの配置につく前に、ロッカー室の物陰でスマホを手に取り、彼女にLINEを送ってみた。すでにブロックされているかもしれない。でもまあ、別にそれでもいい。
《今年も柴崎くん推しですか? メンバー、入ったね》
すぐに、既読がついた。
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Written by Masashi Fujita
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