#46
読了時間:約15〜20分
二〇二二年十一月二十三日 ―
祝日の水曜日の夕方、私と祐太郎は町のイタリアンバルで、ささやかなウェディング・パーティを開いた。
「披露宴なんてしなくていいから、紅葉のきれいな時期に友達とか親戚とか集めて小さなパーティだけしようよ」
先月、私たちは近所の区役所で籍を入れた。私が三十二歳で、彼は四つ下の二十八歳。お互いいわゆる適齢期ではあるものの、実はふたりとも結婚はこれが二度目の、再婚同士である。
「もうさ、ホテルの大広間とか金屏風とか、ドレスとか巨大なケーキとか、そういう派手なことはやめて、気心の知れた人たちと美味しいものを食べて飲んで、和気あいあいとやれればそれでいいよね」
「うん、俺もそれがいいと思うよ。優里、どっかいい店知ってる?」
「こないだ行った駅の近くのあそこよくない? ほら、イタリアンの」
「ああ、いいかも。そこにしよう」
そう言ってふたりで決めたパーティだった。
ゲストは総勢三十二名。互いの両親、家族、親戚、それぞれの友達と仕事仲間、そしてビッグスワンで知り合った共通の友人が数人。その店は一階と二階にフロアが分かれていて、ロフトっぽい雰囲気の二階をまるごと貸し切りで使わせてもらうことになった。全員とちゃんと顔を合わせ、会話を楽しむのに、店の広さも人数もそれくらいが限度だよねとふたりで話し合った。
カジュアルなパーティなので礼服はNG、できるだけ普段着で来てください、と案内メールに書き、スピーチも、(一)祐太郎の勤める会社の社長さんに乾杯の音頭をとってもらう、(二)ふたりを引き合わせてくれた共通の友人の小島さんからふたりのなれそめを紹介してもらう、(三)最後に祐太郎が感謝の言葉を伝える、の三回だけにした。堅苦しい「新郎新婦のお披露目パーティ」ではなくて、あくまで自然な「彼と彼女の仲間内のパーティ」。そんな雰囲気を目指すことにした。
◇
一生の記憶に残る、いい思い出ができる、はずだった。
でも、そうはならなかった。
まず会場のバルに向かうタクシーの中で祐太郎がずっと不機嫌だった。
彼は前の晩に考えたスピーチ原稿をなかなかおぼえられず、スマホに入力した下書きをぶつぶつ読みながら、あー、やべー、何でいつも同じところで間違えんだよ俺、と苛立っていた。
「あのさ、無理におぼえなくてもいいんじゃない? ほら、そのときゲストに伝えたいことを、そのときの祐太郎の気持ちで、そのまましゃべったらいいんじゃないかな」
気持ちをほぐしてあげようと思って私がそう言うと、祐太郎は手のひらを私のほうに向け、
「ごめん、ちょっと黙っててくんねえ」
と眉間にしわを寄せた。
せっかくの会場入りをウキウキと楽しい気分で盛り上がりたいのに会話がまったくできなくて、なんだかな、と私は唇をとがらせた。
◇
会場入りしてゲストを迎えるときも、なんだかな、という気持ちになることがあった。
その日はパーティが終わったあと、午後十時からワールドカップの大事な日本戦があり、私たちふたりがサッカーをこよなく愛していることを知る友人たちは店にやってくるなり、
「今夜はワールドカップだね! 楽しみが続くね!」
口々に同じことを言って、忘れられない日になりそうだよね、と笑ってくれた。
「今年はアルビが昇格して、あんたたちが結婚して、しかもワールドカップまであって、ほんと、最高の秋だわ」
私と祐太郎の縁結びの恩人である、アルビのサポーター仲間の小島さんは、顔を合わせるなりそう言って私をハグしてくれた。
「みんな小島さんのお陰です、本当にありがとうございます。私も祐ちゃんも、小島さんには感謝してもしきれないです」
「何言ってんのよ。こっちこそ今日は呼んでくれてありがとう」
今年五十歳を迎える彼女はいつも明るくはつらつとしていて、世話焼きキャラなのに押しつけがましくなく、仲間のみんなから好かれている。五年前、長い婚活の努力を実らせて小島さんが結婚したときは、私も二次会に呼んでもらった。
「ちなみにうちら夫婦が結婚したのなんて降格の年だったからね。しかも披露宴の当日に降格決まったんだから。最悪だったわよ。でも、それでもまだなんとか続いてんだから、あんたらは絶対、大丈夫。しかも今夜、日本がドイツに勝ったりなんかしたら、もう最高じゃない?」
「それめっちゃ最高ですよー」
スピーチの原稿をおぼえてようやく機嫌を直した祐太郎も私の隣で、
「このパーティは八時半終了の予定ですから、十時のキックオフには皆さん、ちゃんとお家に帰れますから安心してくださいねー」
なんてにこにこ笑っていた。
ところがそのとき、小島さんの背後を通りかかった、今年八十五歳になる私の大伯父がぼそっと言ったのだ。
「ドイツになんか勝てるわけねえだろが」
一瞬、場がさーっと白けた。
小島さんがすぐに、
「ですよねえ、やっぱドイツは強いですもんね。結局最後はドイツが勝つ、みたいな格言もありますしねえ」
とすかさずフォローしてくれたからよかったものの、私は、小島さんのその言葉を無視してトイレを探す大伯父の背中を蹴り飛ばしたい気分だった。
◇
それでも、パーティはとりあえず予定通りに賑やかにはじまった。
祐太郎の会社の社長さんの音頭で乾杯して、テーブルには次々と料理が運ばれて、バイキングコーナーも盛況で、とてもいい感じだった。私と祐太郎はふたりでワインの瓶を持ってゲストのテーブルを回り、常に誰かとしゃべり、笑った。フロアに目を配れば、みんなが楽しそうで、初対面のゲスト同士がにこやかに挨拶を交わしたりもしていて、それは私が思い描いていた理想のパーティに近かった。
途中、小島さんがマイクの前に立って、私と祐太郎のなれそめを紹介してくれた。
ふたりが出会ったきっかけは、アルビのサポーター仲間の飲み会だった。ちょうど一年前のことだ。最近仲良くなった男の子がいるのよ、いい子なのよ、あんた会ってみない? と小島さんが言って、その飲み会に私と祐太郎を別々に誘って引き合わせてくれた。
同い年で、お互いバツイチだけど独身で、しかもふたりともけっこう長いあいだ恋人がいない。
「だったらあんたたち、せめて連絡先くらい交換しなさいよ」
そう言って、何かがはじまってもおかしくない雰囲気を作ってくれたのだ。
「祐太郎くんから優里ちゃんへのプロポーズは、『今年アルビが昇格したら結婚しよう』だったそうです。私にとっては、今年はダブルでめでたい! 最高です! でも祐太郎くん、優里ちゃん、いいですか。もし来年、アルビがJ2に降格しても、ふたりは絶対別れちゃダメですよ!」
小島さんはいつも盛り上げ役をすすんで引き受けてくれる、いい人だ。
「さて皆さん、私のつまらないスピーチはこのへんで終わりにしたいと思うのですが、ご存じの通り、今夜はワールドカップの日本戦です。私、2対1で日本が勝つような気がします! 日本がグループリーグを突破して念願のベスト8に進んだら、もうダブルでめでたいどころか、トリプルでめでたい! ドイツとスペインは強いかもしれませんが、サッカーは何が起こるかわからない! ぜひ応援しましょう!」
「イエーイ!」
みんなで盛り上がり、私も両手を頭の上に挙げて拍手をした。
そのとき、また大伯父が水を差した。
「無理無理! 勝てるわけねえよ!」
大伯父はワインを飲んで真っ赤になっていた。すっかりでき上がっている顔だった。隣に座っている祖母がジャケットの袖を引っ張ってなんとかいさめようとするのだが、それでも大伯父は、ドイツとスペインが同じ組なんだぜ、無理に決まってんだろうが、と店じゅうに聞こえる大声で言い、かっかっかと意地悪く笑った。
◇
小島さんのスピーチが終わってから、私はこみ上げてくる怒りを腹の奥にしまって、席を立ち、大伯父のいる親戚のテーブルに向かった。
「おじさん、ちょっと飲み過ぎちゃった?」
「なんも、これくらい。酔ったりなんかしませんよう」
でもその呂律がすでに怪しい。大伯父は三年前に連れあいを亡くし、今は田舎でひとり暮らしをしている。
子どもの頃、私は思ったことを何でもずばずば口にしてくれる大伯父のその豪快なキャラクターが好きだった。でも大人になると、それは頑固で意固地で見栄っ張りな、ただの空気を読めない変人にしか見えなくなった。
正直なところ、この大伯父をパーティに呼ぶのは少しためらった。でも祖母の兄弟の中でこの大伯父だけを呼ばないというわけにはいかなかった。
タイミング悪く、私を心配した祐太郎がワインの瓶を持ってやってきた。
「おう、それこっち注いでくれや。美味いな、ここのワインは。どこのだ? フランスか?」
「スペインのワインです」
「かっかっ、スペインだってよ。こりゃ面白え。スペインに何点取られて負けるんだろな、日本は」
「ねえ、もうやめといた方がいいんじゃない?」
私が言い、祖母も、まわりの親戚たちもみんな同調する。祐太郎もその不穏な空気を察したようで、大伯父のグラスの上で傾けかけたワインの瓶をさっと元の角度に戻した。すると大伯父は機嫌を損ねたのか、これ見よがしな舌打ちをひとつして、言った。
「しかしお前ら、かなしい夫婦だよな」
一瞬、その場が凍りついた。誰もが聞こえなかったことにしようとした。私もそうしようとしたし、そこにいた祐太郎も祖母も私の両親も、全員が頭を働かせて別の話題を探した。でも畳みかけるように大伯父は言ったのだ。
「この新郎さんのご家族やご親戚の皆さんは知ってるんかい。おいおい優里、ちゃんとお前、謝ったんかい」
私は怒りをぐっとこらえた。でも無理だった。大伯父につかみかかろうと一歩を踏み出し、でも次の瞬間、祐太郎に背後から腰に手を回され、抑えつけられた。ワインの瓶が床に落ちてどんと鈍い音を立てる。母が慌てて私と大伯父の前に立ち塞がり、そばで父が、やめないか、と、小さな、でも鋭い声で私を叱りつけた。
祐太郎は腕に力をこめて私と身体の向きを入れ替えると、大伯父のほうを向いてひとこと、すみません、と謝り、頭を下げた。
みんなの冷たい視線にようやく気づいた大伯父は、しょんべんしてくる、と言ってふてくされた顔で立ち上がり、
「また、同じことになるんじゃねえのか」
と捨て台詞を吐いて私の視界から逃げていった。
見ると、フロアにいる全員が心配そうにこちらを向いていた。私は悔しくて悔しくて、奥歯を思いきり噛みしめ、涙をこらえて笑顔をつくるのが精一杯だった。
◇
私は二十二歳のときに最初の結婚をした。
そして二十五歳のとき、病院の検査で、自分の身体が先天的な免疫の問題で妊娠しにくいことを知らされた。
三年後に夫と離婚したのは、不妊が直接の原因だったというわけではない。でもいくつかある理由のひとつの、その発端であるのは確かだった。
祐太郎と出会い、一年付き合って彼からプロポーズを受けたとき、私はそれまで話していなかったその大事なことを、自分の返事をする前に、まず祐太郎に正確に伝えた。
祐太郎は、構わないよ、と言ってくれた。嬉しかった。
でもそれは当人同士だけで決めていい問題ではないと思ったから、私は祐太郎に頼んで、彼の両親の正直な気持ちも聞いてもらった。祐太郎には兄弟がいなかったから、彼が私と結婚するということは、家族の血脈が途絶える可能性が高いということでもあった。
私は自分の幸せのせいで、誰かにかなしい思いをしてほしくなかった。自分だけの幸せを考えることは誰のことも幸せにはしないと、最初の結婚で学んだつもりだった。
祐太郎の両親は、それでも私のことを受け入れてくれた。
「今はね、それが女性のすべてではないのよ」
祐太郎のお母さんは優しい声で、そういう時代じゃないの、と言い、ううん、時代なんて関係ないわ、と言い直してくれた。
「祐太郎を選んでくれてありがとう」とも言ってくれた。
でも、どんなに理解を示してくれても、やっぱり本音を言えば祐太郎の両親は孫の顔を見たいだろう。この人じゃない人を選んでくれたらと思ってしまうときだってあるだろう。この結婚パーティで、そういう視線を感じることもあるかもしれないと、私は覚悟していた。そして、それはそれとして私自身真っ直ぐに受け入れる心構えもできていた。
でもまさか、自分の身内からそんなひどい言葉を投げつけられるとは思っていなかった。
太平洋戦争がはじまる前に新潟の山奥の村で生まれ、家父長制しか存在しないような田舎で育った大伯父には、私と祐太郎のような夫婦は、頭では理解はできても、感情的に受け入れることなどできないのかもしれない。どうしてもひとこと言いたくなってしまうのかもしれない。きっと私と祐太郎の結婚なんて、子どもがちゃらちゃら遊んでいるようにしか見えないのだろう。
わかろうと思う。怒ってもしょうがないことを。大伯父の気持ちを。どうにもならないことで言い争ったりしても何も意味がないことを。
でも、私はやっぱり悔しかった。なにより私自身が、ずっとそれを引きずってきたのだから。
◇
せっかくおぼえたスピーチが、私と大伯父のいざこざのせいですべて頭からふっ飛んでしまったらしい。
パーティの最後にマイクの前に立った祐太郎は、青ざめた顔で三十秒近く無言で通してから、しどろもどろの声で、来場のお礼と感謝の言葉だけをなんとか口にして宴を締めくくった。
帰りのタクシーの中も行きと同じようにまったく会話がなかった。今度はしゃべりたくないのは私のほうだった。彼もまた、スピーチで恥をかいたことに落ちこんでほとんど話しかけてこなかった。
「気にすんなよ、あんなこと」
無言に耐えかねたのか、マンションに着く間際、祐太郎はひとことそう言った。でも私は気にせずになんていられなかった。
それに私は彼に対しても少し腹を立てていた。あのとき、すみませんと謝るのではなく、彼には一緒になって大伯父に怒ってほしかった。
「優里が謝る必要なんて、何ひとつありません」
そう、あの大馬鹿者の老害に向かってきっぱり言ってほしかった。私が彼に求めていたのは、スピーチを上手にやることなんかじゃなくて、そういうことなのに。
◇
ゲストをもてなすことに精一杯でたいして料理を口に入れていなかったので、マンションに着いてから私たちはまず近所のコンビニに寄って、それから部屋に帰った。
あー、疲れた、と言って彼は自分の部屋にこもり、私も食卓でおにぎりをつまんでから、着替えもせずにしばらく椅子に座ってぼんやりしていた。
祖母と母から、大伯父のことについての謝罪のメールが立て続けに入っていたが、返信を打ちこむ気にはなれなかった。
いい思い出を作るはずだったのに、どうして今、私はこんな思いをしているんだろう。試合に負けたボクサーみたいな気分なんだろう。
翌日はまた普段と同じように朝から仕事だった。早くメイクを落として、お風呂に入って、髪を乾かしてさっさと寝なくちゃ。頭の中ではやらなきゃいけないことを段取っているのに、身体がまったく動かない。
「前田、鎌田、久保だってよ」
そのとき、手に持ったスマホを見ながら、いつもの寝間着のスウェットに着替えた祐太郎がリビングに戻ってきた。ソファに腰をおろして、リモコンでテレビを点ける。
「あ、ワールドカップ」
「え、忘れてたの?」
◇
ワールドカップのグループリーグ初戦。
日本は前半、優勝候補の一角であるドイツの圧倒的な力にさらされ、ほとんど何もできなかった。ドイツは大きく、強く、速く、どの局面でも常に優位を保っていた。ピッチを映すカメラに近いサイドの攻防は、期待の久保建英が対峙する相手のサイドバックからまったく相手にされず、何もさせてもらえなかった。そもそものフィジカル差に私は愕然とした。
PKで一点を奪われたとき、これは時間の問題だったな、と思った。
「ドイツ、やっぱ強いね」
「強いよ。前半、一点取られただけなら上出来と思わないと」
彼のその言い方はとてもかなしそうだった。
「後半、何点取られるんだろうね」
「どうだろう。ポイチさんの選手交代もちょっと期待できないし」
「だよね」
私はでも、そう言いながら少しホッとしていた。ようやく今日はじめて、祐太郎と同じ気持ちを共有できたような気がして、変な言い方だけれど、そのかなしさに、いい意味で力が抜けた。
「お茶でもいれよっか。祐ちゃんも飲む?」
「あ、うん、ありがと」
「煎茶がいい? 番茶がいい?」
「夜だから、番茶でお願い」
「オッケー」
ようやく私はダイニングの椅子から立ち上がることができた。
◇
私はゆっくりお茶をいれ、リビングに運んで祐太郎の隣に座った。
もうすでに後半ははじまっていた。正直、見てもしょうがない、という気もした。でもどんな負け試合でも、最後まで見届けるのがサポーターだ。
「途中で席を立つなんてだめよ。最後まで信じてあげなくちゃ」
それはその昔、小島さんから言われた台詞だ。まだアルビがJ1で戦っていた、最後の頃だ。もうだめだ、もう今年で最後だ。そう思い続けて、案外、アルビは毎年、降格圏の土俵際ぎりぎりで踏みとどまるのだった。
「お、スリーバックじゃない?」
「変えてきたんだ」
「動いたね」
後半開始早々、日本代表の森保監督は久保建英に代えてコンディションに不安を抱えている富安建洋を投入し、両サイドの長友佑都と酒井宏樹のポジションを一列前のウイングバックの位置に上げた。
すると、前半は常に起点を作られていたドイツの左サイドのラウムのところでドイツがボールを自由にできなくなった。前半と同じように攻めることができず戸惑いはじめている。試合の内容を見ればやはりまだドイツが圧倒的に優勢だったが、それでも前半ほど、日本は踏みにじられる感じではなくなった。
浅野拓磨と三笘薫が投入されたとき、
「おお、ポイチさん、今日は攻めるね」
祐太郎が隣で言った。でも浅野かあ。そう言って頭をかく。私も頷いた。浅野がドイツからゴールを奪うシーンは想像できなかった。
交代カードはさらに積極的に切られた。堂安律と南野拓実が一気に投入され、日本代表のフォーメーションはなんと両ウイングバックが三苫と伊東という、超攻撃的な布陣になった。ドイツ相手に、だ。
「もう五人の枠使っちゃうの? まだ十五分以上あるよ」
「え、これなんかいつもと全然違うよね」
「下手したらボコボコにやられるかもよ」
「うん、わかる」
一か八かだと思った。それでも攻撃の選手がピッチに増えて、前半とは違い、日本代表は前に人数をかけられるようになった。攻撃面でも守備面でも。
後半三十分、日本代表が左サイドの三苫のところからゴール前に攻めこむと、南野のシュート性のボールをノイアーが弾いた。ボールはゴール前に転がる。
そこに、交代で入ったばかりの堂安が待ち構えていた。
「おおっ、打てっ!」
祐太郎が腰を浮かす。私の身体も自然と前のめりになった。
堂安が吠えたとき、祐太郎も吠えていた。私もソファの上に飛び乗っていた。
「うおー、同点!」
「やばい、同点だよ!」
「ドイツと引き分けなら上々じゃん!」
「よし! あとは守り切れ!」
ところが展開はさらに思わぬ方へと転がる。なんと、その七分後、日本はドイツのゴールに決勝点を突き刺したのだ。
「えっ、まじ!?」
「しかも浅野じゃん!」
「これオフサイ大丈夫? ない? ない?」
「ないよ! うわーっ!」
まじか。まじか。身体がぶるっと震えた。鳥肌が立った。日本がドイツを逆転するなんて。
それから試合終了まで、私と祐太郎は祈るような気持ちで手をつなぎ、テレビの前でずっと固まっていた。このまま。お願い。このまま。
◇
試合終了の笛が吹かれたとき、私たちはふたりで顔を見合わせた。そして、何も言わずに自然な仕草で抱き合った。彼が私の背中に腕を回し、ぐっと力をこめる。私もそれと同じ強さでぎゅっと力をこめた。
私はそうやってしがみついたまま、しばらく彼から離れることができなかった。彼の匂いの染みついたスウェットに頬を埋めながら、目をつむって、テレビの実況の声を、カタールのスタジアムの歓声を、選手たちの声を、森保監督のインタビューを、そのあたたかな暗闇の中で聞いた。
「ポイチさん、ごめん。浅野も、ごめん」
祐太郎は私の頭のてっぺんを頬ですりすりしながら、きっと今テレビに映っているのであろうふたりに謝った。
「まじで見直しました。ありがとう」
ふふと、私は笑う。そして思う。
私たちはけしてかなしい夫婦なんかじゃない。私たちにはサッカーがある。何かが足りなかったとしても、それがあれば、もう十分じゃないか。
それを確かめるために顔を上げると、私の夫は泣いていた。
私は今日のこの日を一生忘れないだろう。
一緒にサッカーを見て、一緒に感動して、一緒に涙を流してくれる人と出会えたのだ。それがどれだけ幸せなことか。
また春が来たらふたりでいつものようにビッグスワンにアルビの試合を見に行って、ときどきこうやってテレビで日本代表の試合を見て、四年に一回、夜遅くまでワールドカップで盛り上がって。
それだけできっと、私たちはずっとつながっていられる。きっと、大丈夫。
私はそれを信じて、もう一度、目の前の幸せに抱きついた。
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※二〇二三年一月掲載分と二月掲載分はお休みします。次回更新は三月十日(金)です。
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Written by Masashi Fujita
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