#09
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街路樹がまだら模様の影を落とす石畳の通りを、ゆっくりと歩いて行く。
食べ終えたジェラートのカップをどこに捨てるべきか迷いながら、スプーンに残った最後のひとくちを味わうと、チョコレートの濃厚な甘ったるさが嫌な感じで舌に残った。ミネラルウォーターで口をすすぎたい。チョコではなく、レモンやミントのような爽やかなフレーバーにすればよかった。イタリア語の単語がよくわからないから、ショーケースの色だけで味を判断できず、見た目とスペルで確実にそれとわかるチョコを選んだのだ。そんな自分の性格に、僕はあきたりないものを感じる。
それにしても。ジェラートを食べる度にスティーブン・ジェラードの顔を思い浮かべてしまうことに苦笑いが漏れる。妻がジェラートピケのパジャマを着ていると、どうしても反射的にジェラール・ピケの髭面を想像してしまうのと同じで。
スマホで時間を確認すると、キックオフまであと一時間ほどに迫っていた。よし、そろそろ入場するか。シャツの胸ポケットからチケットを抜き、改めて日付と時間を確かめる。念願のセリエA。試合会場にも間違いはない。
足早に通りを歩き、角をふたつ曲がると、白亜のスタジアムが目の前に迫ってくる。ついにここまで、憧れの場所までやってきた。
◇
イタリア国内を十日間かけて周遊する新婚旅行に、サッカー観戦を組み込んだ。
本音を言えばサンシーロやオリンピコに行きたかったが、残念ながらミラノもローマも滞在は平日で試合がなく、週末に訪れるこの古都のスタジアムだけが、サッカーを生で見られる唯一のチャンスだった。
ネットでの下調べによると、優勝がかかるような大一番やビッグクラブとの対戦でない限りは当日券で入場できるらしい。確かに中継映像を見ているとスタンドの空席が目立つ試合ばかりだ。
しかしはじめての海外サッカー観戦で、しかも新婚旅行。万が一、ということになると残念なので、チケットはあらかじめ旅行代理店に手配してもらうことにした。注文したのはトリブナと呼ばれるメインスタンドエリア中央の高価なシート。いい席ならばトラブルに巻き込まれる可能性も低いだろうし、なにより、選手が近くてゲームが見やすければ、サッカーにまったく興味のない妻の菜々子も少しは楽しんでくれると思ったのだ。
「あのさ、ミラノで菜々ちゃんの好きなオペラ観るじゃん」
「うん観る。椿姫ね。超楽しみ」
「だからさ、土曜の午後の空いた時間、ここ、サッカー見に行かない?」
「えー、サッカー? うーん。チケットとか取れんの?」
「オペラと一緒に旅行会社に頼んじゃおうと思ってるんだよね。その日午前中に美術館行くじゃん。で、お昼はトラットリアで好きなもの食べて、それからスタジアムに行くって感じでどう? あ、そうだ、そういやオペラの劇場、座席のカテゴリーがあるみたいなんだけど、やっぱりいい席で観たいよね」
「うん絶対いい席がいい。でもそれって高いんだよね」
「大丈夫大丈夫。なんとかするから」
「まじで? じゃナオくんに任せちゃおうかな」
そんなふうに微妙な駆け引きをしつつ機嫌をうかがいながら、なんとか彼女のオーケーを取りつけた。
ところが、だ。観戦当日の今朝になって菜々子は、「ねー、私、やっぱサッカーやめて買い物したい」と、いきなりなことを言い出した。友人から頼まれたバッグだか財布だかを買わなくてはいけないという。結婚式の祝儀をはずんでくれたので、その礼もかねての土産だから買わずに帰るわけにはいかないと。
「そんなの、明日でいいじゃん」
「そのつもりだったけど、ガイドブック見たら明日定休って書いてあるんだもん」
「じゃあ今日の午前中に済ましたらよくない」
「午前は美術館って決めてるじゃん」
「だけど…。てか、今日は開いてんだったら、サッカー終わってからでもいいよね」
「夕方になって店閉まってたら困るし」
「大丈夫だよ。だって閉店時間、書いてあんでしょ」
「あのね、海外は日本みたいにきっちり定時で店閉めるとは限らないの」
僕らがこの町に滞在するのは、明日の昼までと決まっている。午後の高速列車でローマに向かう。目的の店に行くチャンスは、確かに今日しかなかった。しかしそれにしたってひどい話だ。
「菜々ちゃん、それちょっと勝手過ぎんじゃないの」
「えー、そうかな」
「俺がサッカー見るのずっと楽しみにしてたの知ってるだろ」
「知ってるよ。だから別行動にしようって言ってんの。その方がナオくんも落ち着いてサッカー見られるでしょ。私もゆっくりお土産選べるしさ。絶対その方がいいって」
普段なら口論がはじまるところだが、そこは新婚旅行なのでぐっとこらえた。
結局、僕が折れるかたちで午後は別行動と決まった。僕はスタジアムへ、彼女はブランドショップへ。
◇
町はずれのスタジアムまではタクシーを使った。
「ナカータ! アリガート!」
代金を支払い、おつりは要らないと手振りで伝えると、人懐っこい顔の運転手がにこやかに親指を立てた。路上の警備員も、タクシーから降りたのが日本人だと気づくと、「ナカータ! コンニチーワ!」 と笑顔を向けてくる。
どうやらこの町のスタジアム周辺では、日本人はみんなナカタらしい。本人はこの国を離れてもうずいぶん経つというのに、ナガトモでもホンダでもなく、ナカタ。僕はあらためて、日出づる国からやってきたジョカトーレの偉大さに感心した。
午前中に予定していた美術館と、トラットリアでのランチが思ったよりも早く済んだので—なぜならまったく会話が弾まなかったからだ—予定より一時間も余裕を持って僕らは別行動となった。
スタジアムに着いたはいいものの、キックオフまでだいぶ時間が余っていた。
グッズの店をひやかしたり、スタジアムの周辺を散策したりしながら、たまたま見つけたジェラテリアでジェラートをテイクアウトした。結局、食べ終えた空の容器はティッシュに包んで背中のリュックに押し込んだ。
近代的な様式で建てられた日本のスタジアムとは趣の異なる、歴史を感じさせるクラシカルなスタジアムのなかに、いま僕はいる。
乾燥した淡い色の青空。白い雲。バックスタンドの向こうには緩やかな山の稜線。視線を落とせばセリエAのピッチ。スタンドはまだがらがらだったし、芝生はところどころ剥げかけ、それほどきれいではなかったが、そんなことはどうでもよかった。
バックスタンドの一角には背の高いフェンスで囲まれたエリアがあり、そこからは早くも発煙筒の赤い煙が舞い上がっている。アウェイチームのサポーター席に違いない。これぞイタリア。これぞヨーロッパ。目に映るすべてが、僕の待ち望んでいた光景だった。
シーズン終盤の中位チーム同士による地味な対戦カードだけれど、むしろ周囲に日本人や中国人がいないという点では、本物に触れている実感がより強い。
僕はひとまず自分の座席を見つけてそこに腰を下ろした。穏やかな春の風が気持ちいい。この旅行のために買ったデジタル一眼レフカメラを取り出し、スタンドの端から端までを動画で撮影する。ついでにスマホでも何枚か写真を撮って、街の名前のハッシュタグと一緒にインスタにアップした。
でも気分はいまいち晴れなかった。菜々子が隣にいないことが、どうしても胸につかえる。せっかくのチケットを一枚無駄にしてしまった。手配料、ずいぶんかかったのに。いやお金のことはいい。サッカーに興味がないのも仕方がない。無理に好きになれとは言わない。だけど、ここまで来ておいてドタキャンはないだろう。ミラノでのオペラ鑑賞のとき、途中で居眠りしてしまったのが彼女の気に障ったのだろうか。それとも飛行機で窓際の席を譲らなかったのがいけなかったのか。
はじめての海外サッカー生観戦。その思い出を、僕は菜々子と共有したかったのに。
しばらくするとピッチの上に選手たちがぞろぞろ現れ、リラックスした表情で試合前のウォーミングアップをはじめた。代表選手こそ少ないが、そこには元イタリア代表のベテランも、アンダーチームで将来有望とされる若手もいる。ランニングやストレッチ、コーンをつかってのドリブルやパス交換、シュート練習などをぼんやりと眺めているうちに、僕はいつのまにか、学生時代に付き合った、かつての恋人のことを思い出していた。
◇
里沙という名の、サッカーが好きな女の子だった。ドイツワールドカップの年に出会って、二年後のユーロのあとで別れた。
彼女と知り合ったときはジダンがまだ現役で、日本代表の監督はジーコだった。ふたりでよくセリエAの中継を見た。当時はインテルが強かった。
里沙はイタリア代表を贔屓にしていた。その理由は、イケメン揃いだからという女の子らしいものではなく、根性のある負けないチームだから。
当時はまだカンナヴァーロがチームの中心だったし、トッティもピルロも、デルピエロだっていた。里沙は僕の前で堂々と、抱かれたい男ナンバーワンはジャン・ルイジ・ブッフォンだと宣言した。ネスタもデ・ロッシもクールだと。それから、一家に一台、ザンブロッタが欲しいよね、なんて冗談を言っていた。電子レンジ並みに役に立ちそうだよね、と僕らは笑い合った。
そんな会話のできる女の子はまずいない。というか他のどこにもいない。当時の僕は、いつか里沙と結婚するものだと確信していた。
別れの理由はもうはっきりと思い出せない。いや、思い出せないのではなく思い出したくない。愛想を尽かされ、僕が一方的にフラれてしまった。一緒にテレビ観戦するはずだったユーロ2008の期間中、僕らはずっと喧嘩ばかりを繰り返していた気がする。お互い、自分の思い通りに愛情を表現してくれない相手に対して苛立っていた。
準々決勝でイタリアがスペインに敗れたとき ― セスク・ファブレガスが最後にPKを沈めたとき ― 僕はテレビの前で快哉を叫んだ。
「イタリア、ざまあ」
里沙に対して、そんな台詞を言い放ったのだったか。そのせいで数日後にスペインが優勝する場面を、僕はひとりで見ることになった。
なあ、里沙、イタリアまでサッカー見に来たよ。
隣の空席に座る昔の恋人を思い浮かべながら、僕はまっすぐピッチを見下ろして、胸の内で語りかけた。かつて一緒に眠い目をこすりながら憧れていた遠い場所にいま、僕はいる。いつか、就職したらお金を貯めて行ってみたいね、と約束していたあの場所に。僕らが夢に見ていた、カルチョの国のスタジアムに。
きみはまだサッカーが好きでいるの?
アズーリのいないワールドカップをどう思う?
◇
歓声と拍手で我に返ると、いつのまにかスタジアムは七割がた座席が埋まり、ピッチの上にスタメンの選手たちが整列していた。顔ぶれは両チームともほぼベストメンバーのようだった。
キックオフの笛。サポーターのチャント。走り出すジョカトーレ。
ここからは楽しくて仕方がない時間のはずなのに、僕の心はまだ重たいものを引きずっている。新婚旅行に来て、十年以上も前に別れた恋人の面影を求めている自分が、ひどく情けない。
未練などもうないはずだった。だけどもしかしたら僕は、自分を捨てた里沙にこの場面を見せつけたくて、サッカー観戦をわざわざ旅程に組み込んだのではないか。そんな気がしてくる。あのとき別れていなければ、僕を捨てていなければ、僕はこうしてきみの夢を叶えてあげられたのに、と。
里沙と違って、菜々子はサッカーになどまるで関心がない。旅行の前に予習をさせようとセリエAの録画を見せたら「すごーい」と言うのでその理由を訊ねると、「みんな外人でデカいから」という間の抜けた答えが返ってきたくらいだ。
「ゴールキーパーなのにあんな遠くにボール蹴れるんだね、すごい」
「うん、ゴールキックって普通こんな感じ」
菜々子のことはもちろん大切に思っている。だけど彼女とこの先ずっと一緒に生きていくなら、この隣の空席に、僕は思い出しか座らせることができないだろう。
里沙のことを考えるのはもうやめよう、と僕は思った。
こんなのただの腹いせだ。サッカーに付き合ってくれない菜々子に意地悪がしたくて、あてつけのように昔の恋人を思い出しているだけだ。イタリアくんだりまで来たのは、なにもサッカーのためじゃない。新婚旅行の貴重な時間をふたりで過ごすためじゃないか。もうイライラするのはやめよう。彼女にとって大事なのはサッカーよりも新婚旅行のお土産だ。当たり前じゃないか。しょうがないじゃないか。むしろ、ひとりきりであってもサッカー観戦の時間と自由を与えてくれたことに僕は感謝をすべきだ。試合が終わったら、ちゃんと笑顔で彼女と合流しよう。そして美味しいワインで乾杯しよう。まるで会社の部下を強引に説き伏せるように、僕は自分自身に言い聞かせた。
今のうちに菜々子にメールでもしておこう。《試合が始まったよ、そっちは無事に買い物できた?》それだけでいい。わだかまりなどないことが伝われば、それでいい。そう思ってポケットからスマホを抜き出し、ホーム画面を見て、どきっとした。そこには着信履歴の通知がずらりと並んでいたのだ。
不在着信が四件に未読メールが三件。どれも菜々子からだった。まさか何かトラブルに巻き込まれたのではないか ― スリに遭ったとか、誘拐されたとか。そうでなくてもパスポートを落としたとか、迷子になったとか ― 悪いことばかりが頭に浮かんで、すっと血の気が引いた。イタリア語どころか英語だってろくに話せない彼女を、ひとりで買い物に行かせるんじゃなかった。サッカー観戦なんてあきらめて彼女についていてあげるべきだった。
電話を折り返すのが先がメールを読むのが先か迷って、慌ててメールを開こうとした、そのときだった。
「あー、いたいたー」
少し険のある、のんびりとした菜々子の声。振り向くと、ブランドショップの紙袋を提げた彼女がスタンドの階段を上がってくるところだった。
「ちょっとごめん、通してください。すいません、プリーズ、グラッチェ」
適当な単語を並べ、紙袋をがさごそ揺らしながら、イタリア人たちの大きな膝をまたいで、僕のそばまでやってくる。
「もー、やっと着いた。ナオくん、なんで電話出ないの? ホテルに忘れてきた? てかいま手に持ってんじゃん!」
僕は呆気にとられて、彼女を見上げたまま、あ、うん、ごめん気づかなかった、と返すのが精一杯だ。
「電話出てよー。もう、心配したじゃん。ナオくんに何かあったかと思ったよ」
「ごめん。買い物は? どうしたの?」
「したよ。してきましたよ。この紙袋見ればわかんでしょ」
ヘイ、ナカータ! と背後で野太い声がしたので振り返ると、三段ほど後ろの中年の男が、邪魔だから座れ、というようなジュスチャーで両手をひらひらさせている。
「あーごめんなさい。スクーズィ!」
菜々子はおぼえたての単語で応じ、紙袋を抱えて座席に腰を下ろした。
「まさか来ると思わなかったよ」
「だってさー、なんか、ナオくんをひとりにするの可哀想だなって思っちゃって。ていうかね、お店で会計するとき財布からユーロ出したらさ、うっかりお札のあいだにチケットが挟まっててね。お店の人がこれ観に行くの? みたいなこと言うから、面倒くさくてスィ!って答えたの。そしたら、もうすぐはじまるじゃない、とかよくわかんないけどそんな感じのこと言われてさ。その人、外に出てわざわざタクシー拾ってくれちゃって。だからもうなんか流れで来ちゃった」
「連絡くれればよかったのに」
「だから何度もしたっつーの」
「あ、そうか」
「でもなんか、スタジアムって広くて気持ちいいね。あ、見て見て、すごーい」
菜々子が気を取り直してピッチを指差す。
「何が?」
「だって外人ばっかりだよ」
あはは。
僕は声を上げて笑ってから、あそこにいるのが元イタリア代表で、今ボールを蹴ったのはウルグアイ代表で、と、知っている範囲で選手の国籍を教えた。珍しく素直に、うんうん、と頷きながらに耳を傾けてくれる彼女もまた、もしかしたらブランドショップでバッグや財布を選びながら、僕と同じようなことを考えていたのかもしれない。
「ところでさ、イタリア人って失礼じゃない?」
「なんで?」
「だって私にナカタって言うんだよ。全然似てないでしょ。そもそも私、女だし」
「日本人はみんなナカタなんだよ」
「私、山田です、ってちゃんと言い返したいよ」
そのとき、ホームチームのゴールが決まった。周りの観客たちが歓声をあげ、その場に立ち上がる。つられて僕も、そして何が起こったのかわけがわからないまま菜々子も立ち上がった。
隣の席の若い男が嬉しそうに何やらまくしたて、「ナカータ!」と僕らにハイタッチを求めてきた。僕の妻は、それに両手で応えながら「ヤマーダ! だっつの!」と激しく言い返している。
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Written by Masashi Fujita
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