#11

イスタンブールの赤い夜
The night in Istanbul

読了時間:約5〜10分

 僕らは旅をしていた。
 
 行き先をイスタンブールに決めたのは、あまり日本人のいないエキゾチックな街でふたりきりの時間を過ごしたいという理由がひとつ。
 もうひとつは単純に、どんなに頑張ってもお互いの有給を合わせられるのは六日間が限界だったから、できるだけフライト時間に無駄のない都市を選びたいという、物理的な制約だった。往復の移動日を除くと、自由に動けるのは三日しかない。
 
 旅の目的は思い出づくりだ。
 この旅行を最後に、僕らは別れることになっていた。慌ただしく観光するより、ゆっくりと街の雰囲気を味わうような、異国の景色を目に焼き付けるような、そんな旅を求めていた。
 
 ふたりきり、ということに重点が置かれるのならば、どこかもっと手軽なリゾート地でも、と思うかもしれないが、僕らは街がよかった。それもできるだけ遠い街。もう二度と足を運ぶことのないかもしれない、そんな街の雑踏に身を投じ、恥じらうことなく、視線を気にすることなく、肩を寄せ、手をつないで歩きたかった。
 
 ◇
 
 期待通り、日本人はあまり見かけなかったが、そのかわり、イスタンブールの街にはイギリス人とイタリア人が大量にあふれていた。
 モスク、広場、宮殿、どこへ足を運んでも、赤いシャツを着た西ヨーロッパの人間たちが、度を越えて陽気な、それでいて微かに殺気立った空気を身にまとい、だいたいは何人かの集団になって動いていた。イギリス人っぽい人たちは、真っ赤なシャツ。イタリア人っぽい人たちは、赤と黒の縦縞のシャツ。
 
「サッカーだ」
 
 先に気づいたのはミツルだった。どうやらサッカーの大きな大会の決勝戦が、この街のどこかのスタジアムで行われるらしい。そのサポーターたちが大挙して押しかけているのだ。僕もミツルも外国語はからきしだったが、チャンピオンズリーグ、という単語がいたるところで聞き取れた。ミラン、そしてリバプー。
 
 彼らをかいくぐるように、僕らは二日間かけて旧市街と新市街の観光地をじっくりとまわった。どこへ行っても混んでいたが、イスタンブールは観光できるエリアが思ったよりも狭く限定的で、それほど歩き疲れることはなかった。確かイスラム圏のはずだが、ミツルと手をつないでいても、奇異の目で見られることはなかった。アジア人への差別も感じない。街の人たちはにこやかで、すれ違いざまにウインクをくれる人もいた。むしろ真っ赤なシャツを着たイギリス人たちの方が、ときどきうろんな目で僕らを睨みつけていた。
 
 ◇
 
 三日目に、僕らは小さなけんかをした。夜はナイトクラブに行きたいとミツルが言い出したのがきっかけだった。帰路につく前の夜を、僕はこれまでの思い出を語り合いながら、ふたりきりで静かに過ごしたかった。
 
「そんなとこ行ってどうするの」
「飲んで騒いで、ぱーっとやろうよ最後なんだから」
「最後だから、ふたりで過ごそうよ」
「これまでさんざんふたりでいたじゃん」
「やっぱりミツルはもう僕のこと飽きたんだ」
「なんでそんふうに言うかな。そうじゃないって」
 
 性格が外に向いているのがミツルで、内側に向いているのが僕。それは付き合いはじめたときからずっと変わらない。そのバランスが、僕らの関係そのものだった。
 
「僕は行かないよ」
「楽しいよ。かわいいやつ、いるかもよ」
「だからこれはそういう旅行じゃないって。それにどこ行っても赤い人たちで激混みだよ」
「大丈夫、あいつらは今夜、全員スタジアムだから」
 
 帰国したら、ミツルは田舎に帰って、結婚というものをすることになっていた。僕には到底信じがたいことだけれど、それはもう決まっているのだ。ミツルの周囲の人たちにとってこの旅行は、学生時代の親友との独身最後の旅、という位置づけになっている。
 学生時代の親友!
 
嘘もいいところだ。でも誰も疑わない。彼の婚約者ですら、一ミリも疑問を抱いたりしないだろう。僕が女ではなく男だから。
 
「俺はいつか地元に帰って女と結婚する」
 
 最初に新宿の小さなバーで出会ったときから、ミツルはそう言っていた。承知の上で付き合った。そのときの僕にとって、未来なんてものはどこにも存在していなかった。ただただ、孤独を癒やしてくれる誰かが欲しかった。それは親でも家族でも友達でもなく、人前で恋と呼ぶことのできない歪んだ熱い慕情を身体ごと共有してくれる誰かでなければいけなかった。
 
 ◇
 
 その日は結局、グランバザールをひやかしてから、レストランで遅めの昼食をとり、旧市街地を散策して夕方のうちにホテルに戻った。僕の口数が少ないことにミツルが少し苛立っていて、そんなミツルに僕もあきたりないものを感じていた。
 
「で、ユースケは行かないの?」
 
 ホテルの部屋でジャケットを羽織りながら、俺は行くよ、とミツルが言った。
 
「なあ、最後くらい羽目を外そうぜ。せっかくここまで来たんだからさあ、街を楽しまなきゃ」
「ごめん、ちょっと疲れた」
 
 僕がベッドに横になって意地を張っているうちに、ミツルは、じゃあいいよ、とひとりで部屋を出て行ってしまった。
 
「結婚なんてしないでよ」
 
 呟いた言葉はドアの向こうまで届かない。この半年ほど、僕はずっとミツルに言い続けている。結婚なんてばかげているよ、どうせできないくせに。僕からそう責められるたび、ミツルは唇の端を持ち上げて、子どもを見つめる親みたいな表情をつくり、毎回、そうだね、と僕をなだめるみたいに答えた。そして、「俺が本当に好きなのはユースケだけだよ」と残酷なことを何度か口にした。
 
 僕は、ミツルがとても器用な人間であることを知っている。親がたいそう金持ちであることも、地元ではとても優秀な好人物と見られていることも。彼の人生は、彼だけのものではないことも。だからこそ、捨てられる惨めさというよりも、自分だけが認められずに、不器用に生き続けなければならないことが苦痛だった。
 
「ユースケ、知ってる? 夫婦って、結婚してもそのうちなにもしなくなるんだよ。だからヤキモチなんて焼かなくていいんだよ」
 
 例えそうだとしても、なにもよくない。本当にあっちの世界に行ってしまうなんて。
 
 ◇
 
 いつのまにかベッドの上でまどろんでいた。旅の三日目ともなれば、さすがに身体が少し疲れている。窓の外は陽が落ちて、いつのまにか真っ暗になっていた。
 
 空腹を感じたが、ひとりでおもてに出る気にはならなかった。身体も重たい。最後の夜にひとりきりでは、いったい何のための旅行だろう。むなしさが胸に広がり、それを紛らわせるためにテレビを点けた。トルコ語の番組をザッピングしていくと、この三日間数え切れないほど目にした赤いユニフォームが目に飛び込んでくる。Champions League Final Milan - Liverpool  
 
 コンコン。突然ドアがノックされたので驚いて振り返ると、紙袋を抱えたミツルが立っていた。
 
「お、もう試合はじまりそうじゃん」
 
 そう言って紙袋をテーブルの上に置き、がさごそと中から薄い紙に包まれたものを取り出す。食欲をそそるいい匂いが部屋に充満した。
 
「サバサンドとスィミット、あとケバブも買ってきたよ。ビールもね。せっかくだからトルコビールと、あとカールスバーグ」
「夜遊びは?」
「ユースケが行かないなら意味ないし。サッカーでも見ようぜ」
 
 ミツルが屋台で買ってきたものを食べながら、僕らはふたりでサッカーの試合を見た。どちらもスポーツ全般に詳しくないが、ルールくらいはさすがに知っている。実況が何をしゃべっているのかは分からなくても、単純なゲームの観戦に支障はなかった。全身真っ赤なユニフォームがリバプール。同じく上から下まで白いユニフォームがミラン。緑の芝生の上で、その対比は眩しいくらいにわかりやすい。
 
 前半がはじまった直後に、白いミランがいきなり先制した。追加点もミランだった。前半が終わる前にもう一点を加えて、赤いリバプールを圧倒した。
 
「なんか一方的だね。わざわざイギリスから来た人たち可哀想だね」
「だな。でもヨーロッパのサッカー選手ってモデルみたいなヤツ多いね」
「うん、僕も思ってた。あ、この人とか」
 
 後半に入ると、しかし試合はガラッとひっくり返る。まずリバプールが一点を返す。ゴールを決めたキャプテンが、激しいアクションでチームメイトを鼓舞すると、わずか数分のうちにもう一点が入り、さらにPKで同点ゴールが決まったのだ。あっという間の同点劇。ミランの選手は明らかに混乱していた。
 
「うわすげえな、追いついたよ」
「すごいね」
 
 それからはミランが何度も決定的なチャンスをつくるものの、リバプールの執念のような守備の前になかなかゴールを奪えない。延長戦に突入した試合は、ついに一二〇分を終えて最後のPK戦に突入した。僕らは固唾をのんでそれを見守った。リバプールのゴールキーパーが左右に小刻みにくねくねと動くと、キックモーションに入ったミランの選手は動揺したのか、次々にシュートを失敗する。ミランの最後の選手のキックが止められた瞬間、真っ赤な花が咲き乱れるように、リバプールの歓喜が爆発した。スタンドはまるで燃えているようだ。
 
「うおー、大逆転劇じゃん」
「すごいね、これ」
「今夜、すごいことになるぜ、街ん中」
 
 そう言ってビールの残りを飲み干すミツルの顔を、僕はじっと見つめた。
 
「ん?」
「繰り出そう」
「え、なんだよ。ユースケ、出たくなかったんだろ」
 
 スタジアムの中にいる何万人もの人たちが、熱狂の渦を出て、これから一斉に街に散らばる。酒を浴びるように飲み、歌い、踊り狂うであろうその場所こそ、僕は、ふたりの最後にふさわしい場所のような気がした。あの赤い熱狂の中にこの身を投じることができれば、ミツルを想う気持ちのすべてをこのイスタンブールの夜に吐き出して、捨ててしまえるような気がした。彼らの咆哮で真っ赤に燃やしてしまえるような気がした。
 
 ◇
 
 地上階に下りるエレベータの中でミツルが言った。
 
「なあ、明日空港行く前にまたバザール寄らない?」
「なんで?」
「あそこにユニフォーム売ってたんだよ」
 
 ミツルは、形に残る思い出を欲しがった。赤い、リバプールのシャツを。
 
「ああ、いいね」僕は答えた。
「僕はあのキャプテンのシャツにするよ」
「俺もそうしようと思ってた」
「でもミツルがリバプール買うなら、僕はミランを買うよ。負けたのはたぶん、こっちだし」
「何言ってんだよ。勝つも負けるもないよ。それだったら、俺だって負けてる」
「…」
「一緒に真っ赤な、あのキャプテンのユニフォーム買おうぜ」
 
 ミツルはそう言って僕のことを抱きしめた。僕はいつまでそれを大切にすることができるだろう。ミツルも、きっとそうしてくれる。そんなことを思って唇を噛んだとき、チン、と音がしてエレベータのドアが開いた。目の前の広いロビーでは赤いシャツを着た男たちが集まって抱擁を交わし、今まさに夜の街に繰り出そうとしていた。彼らは歌い出す。You'll Never Walk Alone  

FOOTBALL SHORT NOVELS COLLECTION :
FOOTBALL AND LOVE SONG
Written by Masashi Fujita

memo

守備はマルディーニとネスタがいて、中盤にはピルロとカカ、前線にはシェフチェンコ…当時のミランはまさにアンチェロッティの時代の黄金期で、今でも先発メンバーをさらさらっと言えるほどです。対してリバプールは一枚も二枚も落ちる、そんなイメージのベニテスの一年目。前半が終わった時点で、もう寝ようかな…と思ってしまうような、退屈な後半が容易に想像しえる試合でした。が、終わってみれば2000年代のフットボール史に残る大逆転劇。特にPK戦でのGKデュデクの動きは鮮烈に記憶に残っています。ミランの選手はみんなものすごく蹴りにくそうでした(ちなみに今のルールではあの前後の飛び出しはNGですね)。最後のキッカー、シェフチェンコのあの一点をじっと見つめる目と思い詰めたような表情から、これは外すな…と多くの人が予想したことでしょう。そしてとにかくジェラード。リバプールのユニフォームはカールスバーグがいちばんカッコいい!