#05

ベルナベウにいない
The Theatre of Dreams on sixty-five inch

読了時間:約10〜15分

 大型の高精細テレビで超高画質のサッカー中継を見ること。それは小さい頃からの僕の夢だった。
 
 子どものときは、実家の三二型テレビに食い入るようにしてBSのJリーグ中継を見た。大学に進学して親に買い与えられたのは20型の格安テレビだった。社会人になり、恋人と同棲することになって買い替えたのは、それでも実家と同じ32型が精一杯だった。最近は4.7インチのスマホで目を細くしながらDAZNのネット配信を見ている。
 
 物足りないわけじゃない。画面サイズに限界はあっても、料金さえ支払えば、今では好きなときに好きなだけ世界中のサッカーを見られる。その環境に満足している。でも、やっぱりいつかは大きな画面でサッカーを見たい。そう願っていた。それはまさに、僕にとって夢の劇場だ  The Theatre of Dreams。僕はマドリディスタだから、それはオールド・トラフォードではなくサンティアゴ・ベルナベウになるわけだけれど  。そしてついに、そのささやかな夢が叶うときがきた。
 
 ◇
 
 先週、ひとり暮らしの部屋のテレビを買い替えた。正確には買い替えたというより、別れた恋人の真希が「あたしのお金で買ったやつだから、これはもらってくからね」と、それまで部屋にあったテレビをどこか別の場所に運び出してしまったため、新しく買い直す必要に迫られたというわけなのだが、理由はこの際どうでもいい。家電量販店の売り場で、僕は迷うことなく、サッカーのためのテレビを求めた。
 
 午前三時四五分。いま、僕は発泡酒の缶を片手にベッドの端に腰を下ろし、八畳のワンルームには不釣り合い過ぎるほど立派なソニーの六五型4Kテレビでリーガ・エスパニョーラの中継映像を眺めている。もはや壁がスタジアム。そう言い切っても過言ではない。
 
 ナイトゲームの臨場感を出すために所帯じみた蛍光灯のあかりを消すと、暗闇のなかにサンティアゴ・ベルナベウの鮮やかな緑の芝が浮かび上がる。一瞬、自分が本当にスタジアムのシートに座っているような気がして、僕はため息を吐いた。
 
 買ってよかった。夏のボーナスをはたき、ローンまで組んだ甲斐があった。そして、どんなにささやかでも夢をひとつ叶えられたこの純粋な喜びは、「真希と別れてよかった」という強がりに似た感情を僕の胸に連れてくる。だって、彼女が部屋のテレビを持って行ってくれたおかげで、このテレビを買うことができたのだから。夢の劇場を手に入れられたのだから。
 
 高精細の大画面で見るサッカーは、その面積の大きさに比例してピッチが広く、選手の姿が大きく映る。小さな画面ではつぶれていたファーサイドの選手の背番号がくっきりと判別できるし、足元のボールタッチもよくわかる(バルサ時代のロナウジーニョのプレーをこの画面で見たかった)。コーナーキックのときのゴール前の密集も、誰と誰がどんな小競り合いを起こしているか(例えばセルヒオ・ラモスが誰のユニフォームを引っ張っているか)鮮明だ。
 
「すげえ。やばい」
 
 思わずつぶやいた。そして無意識にベッドを振り返る。ほんとだ、やばいね。光の色に染まったシーツから、音のない声が聞こえる。
 
 ◇
 
 真希とはこの部屋で三年ほど一緒に暮らした。彼女は僕と付き合うまで、サッカーとは無縁の普通の女の子だった。
 
 テレビで見るサッカーといえば日本代表の試合に限られていたし、それも誰かと一緒なら見るけれど、ひとりだったら裏番組のドラマかバラエティを見る、そういう子だった。
 
 でも彼女は僕の趣味に理解と興味を示して、サッカーを好きになってくれた。付き合いはじめた頃は、週末がやってくるたびにベッドの端に並んで腰かけ、深夜の欧州サッカーを一緒に楽しんだものだ。リーガ、プレミア、セリエA、ブンデス、ときどき平日のチャンピオンズリーグも。
 
 とはいえ、彼女にとってのサッカー観戦というのはお酒を飲みながら好みのイケメン選手を探すことと、酒の肴を用意するためにキッチンで料理の腕を振るうことがメインで、ゲームそのものにはやはり無関心だった。
 
 お目当ての選手がゴールを決めたときに「いぇーい!」と声を上げて喜ぶ、ただそれだけのこと。オフサイドは最後までよく理解できていなかったように思う。
 
 でもだいたい女の子というのはそういうものだし、彼女が一緒にサッカーを楽しんでくれるだけで、僕はじゅうぶん満足だった。
 
 テーブルに並んだ手製のアヒージョやカプレーゼ  ひとり暮らしでは絶対に口にすることのないお洒落なおつまみを楽しみながら、彼女が選んでくれたワインや焼酎で試合がはじまるのを待つ。そして試合が終わればひとつのベッドで抱き合って眠る。それは間違いなく、僕にとっては至福の夜だった。
 
 ちなみに彼女の好きな選手はマッツ・フンメルスやアーロン・ラムジー、イヴァン・ラキティッチ。特にお気に入りなのがガレス・ベイルとクリスティアーノ・ロナウドで、もちろんみんな、僕とは似ても似つかない。
 
 ◇
 
 真希との関係がうまくいっていたのは、しかし、はじめの一年だけだった。三年付き合ったうちの残りの二年は、お互いにとって、まるでゴールへの意欲を感じられないまま惰性でパスを回し続ける、消化試合の終盤のような空しい日々だった。
 
 選手名鑑をめくっては、この選手が好き、次はこの選手を見たい、と言って僕を喜ばせてくれた彼女はいつしか、僕からも、サッカーからも、興味を失っていた。
 
「うおー、ロナウドすげえ!なんだこのバイシクル。やばすぎる」
 
 深夜、僕がひとりで興奮していると、ベッドの上の真希はいかにもうざったそうに布団を頭のてっぺんまで引き上げ、その度に僕はテレビのボリュームをひとつかふたつ小さくしなければならなかった。クリスティアーノ・ロナウドはたしか、彼女のお気に入りだったはずなのに。
 
「他に好きな人ができちゃったんだよね。だから、ごめん」
 
 真希から唐突にそう告げられたのは、今年の夏、プレシーズンのユヴェントスのゲームをモバイルノートでチェックしていたときだった。ロナウドは長年過ごしたマドリードを離れ、トリノの町で新しいキャリアを築こうとしていた。
 
「え?」
「だから別れたいの」
「好きな人って誰?」
「うーん、そういうの別に誰でもよくない?」
「いやよくないよ」
「取引先の営業さんで、会社でよく会う人なんだけど、こないだね、ごはんに誘われて。歳は四コ上なんだけど、けっこう話も合うんだよね。ダイビングとかやっててよく沖縄とか行くんだって。それで」
 
 知りたいのに知りたくもない男の話を、僕は見慣れぬビアンコ・ネロのシャツを着たロナウドを追いかけてやりすごした。目の前のテーブルには、激安店で買った氷結とチップスターの赤い筒があった。彼を放出したマドリーはこれからガレス・ベイルのチームになるのだろうか。それともイスコやマルコ・アセンシオのチームになるのだろうか。あるいは、噂になっているようにエデン・アザールやキリアン・エンバペを新戦力として加え、チームの中心に据えるのだろうか。彼女の話が耳に届かないよう、意地になってマドリーの今後のことを考えながら。
 
「ねえ、こういう話してるときくらいサッカーやめれば」
 
 真希が言い、僕が素直にパソコンを閉じると、今度は彼女が、「やっぱ見てればいいよ」と壁に向いた。
 
「やめろっていうからやめたんだけど」
「いいよ、見て」
「なんだよ」
「だからさ、もう別れようって、それを言いたかっただけだから」
 
 ◇
 
 真希がこの部屋を去ってからというもの、僕は深夜のサッカー中継を素直に楽しむことができない。しばらくサッカーを見るのをやめようと何度か決心したのだが、長年の習性で、眠れない週末の夜はついテレビのリモコンやスマホに手が伸びてしまう。
 
 前半十六分、バックラインからのロングボールをカルバハルが中央に折り返し、ガレス・ベイルがボレーでゴールに叩き込んだ。おおっ、と思わず身を乗り出す。ベイルの自信満々の笑顔が六五型の大画面にアップになる。お決まりのハートマーク。
 
 ドラキュラみたいでカッコいい、丁髷がかわいい、と真希はよく騒いでいたっけ。付き合いはじめた頃の彼女が隣にいたら、きっと飛び上がって喜んだだろうに。「やばい、ベイルまじカッコいんだけど!」とか言って手足をじたばたさせながら。
 
 真希と別れてから、淋しさをまぎらわすために一度だけ、たいして好きでもない友達の女の子を部屋に連れ込んだことがあった。学生時代の同級生だった。ふたりで飲んだ後、まんざらでもなさそうだったので部屋に誘った。
 
 たいして盛り上がることもなく淡々とひととおりの行為を済ませ、シャワーを浴びてから、土曜の深夜だったので当たり前のようにテレビをプレミアリーグに切り替えたら、「えー、まじで?」と露骨に嫌な顔をされた。
 
「サッカー、長いじゃん。なかなか点入らないからつまんないし。そもそも私、外人に興味ないし」
 
 その子は言った。その台詞を聞いて、僕は背中に寒いものを感じた。
 
 真希も内心ではずっとそう思っていたのではないか。本当はどの選手にも興味なんてなかったのではないか。ベイルにも、ロナウドにも。彼女の好きな選手なんて本当はひとりもいなくて、ゴールも勝敗もマドリーもどうでもよくて、いえーいとか声を出していたのは、ただ付き合いはじめの僕の歓心を買うためだった。きっとそうだ。
 
 なのに僕は得意になって、彼女の横でサッカー解説の真似事なんかしていた。エルクラシコの歴史について講釈なんか垂れていた。彼女の誕生日にはロナウドのレプリカユニフォームなんかプレゼントしていた。ただのバカだ。
 
 ◇
 
 試合はそのままレアル・マドリーの勝利で終了した。
 
 ゲームのスタッツを確認し、SNSで他のマドリディスタたちの反応を探ってからテレビの電源を切ると、部屋はとたんに静かになる。
 
 カーテンの向こうはもう明るんでいる。発泡酒の缶をキッチンのゴミ袋に放り、かんたんに歯磨きだけして、セミダブルのベッドに横たわると、彼女の体温を失ってもうずいぶんと経つシーツは、やはり今朝もひどく冷たい。
 
 僕は小さな電子部品会社に勤める、ありふれた、しがない会社員だ。深夜のサッカー中継を観戦するのが好きなこと以外に、これといって何の楽しみもない。
 
 でも、僕にはちゃんと幸福のイメージがある。いつか誰かと結婚するときがきたら、新婚旅行は欧州周遊  オールド・トラフォード、アンフィールド、スタンフォード・ブリッジ、エティハド、サン・シーロ、アリアンツ・アレーナ、カンプ・ノウ、そしてどこよりも優先すべき、サンティアゴ・ベルナベウ。
 
 そのときのために、このテレビを買う以外は、入社以来ボーナスをすべて貯蓄にまわしている。まぶたを閉じるとスタジアムの光景が浮かんでくる。
 
 真希と同棲をはじめたとき、いつかプロポーズのかわりにしようと考え、胸であたためていた言葉をふと思い出した。
 
「クリスティアーノ・ロナウドを見に、ベルナベウへ行こう」
 
 胸の内で小さくつぶやいて、僕はいつかの彼女のように、布団を頭まで引き上げ壁際で丸くなった。ロナウドはもう、ベルナベウにいない。

FOOTBALL SHORT NOVELS COLLECTION :
FOOTBALL AND LOVE SONG
Written by Masashi Fujita

memo

恋人にフラれた男がひとり暮らしの部屋で、未練タラタラの気持ちを抱えながら深夜、欧州サッカーを見る。ただそれだけの話ですが、共感してくれるサッカー好きの男はたくさんいるんじゃないかと思っています。深夜の時間帯に毛布にくるまって退屈なハーフタイムをやりすごすあの空虚さ。うっかり「元気?」「最近どお?」なんてメッセージを送りたくなったり。後半を見る前にそのまま寝落ちしたり。