#15

幸福の黄色いアウェーゴール
The Yellow Away Goal

読了時間:約5〜10分

 誰が思いついたか知らないけれど、アウェーゴールという仕組みを考えた人はすごいと思う。「引き分け」とか「負け」とか、それまでは価値がないとされてきたものに、魔法のような「意味」を与えたのだから。
 
 アウェーゴールと聞いて私が真っ先に思い出すのは、スタンフォードブリッジでイニエスタが突き刺した、あの劇的な後半ロスタイムの同点弾。
 
 試合終了のホイッスルが吹かれるや、ジョン・テリーが、バラックが、チェルシーの選手たちが鬼の形相で主審を取り囲んだ  〇八−〇九シーズンの欧州チャンピオンズリーグ準決勝、チェルシー対バルセロナのセカンドレグだ。
 
 ◇
 
 十一年前  ゴールデンウィークが終わってすぐの平日の真夜中、私はリョウの部屋でせっせと荷造りをしていた。茶色いクラフト地の無印良品の紙袋に、化粧水、シャンプー、メイク落とし、パジャマがわりの長袖Tシャツ、とにかく部屋にある自分のものをすべて詰め込んでいた。
 
 そのとき私たちの恋はすでに終わりかけていた。私としてはできればもう二度とこの部屋に立ち入りたくなかったし、別にシャンプーもTシャツも捨ててもらって構わなかったのだけれど、それでもこうして「荷造り」を口実にしてムカつく男の部屋で夜を明かす理由は、ただひとつ。その部屋でしか、チャンピオンズリーグの生中継を見られなかったからだ。
 私が荷造りをしているとき、リョウは私に背を向けて、ひとりで黙々とウイニングイレブンをやっていた。
 
 ◇
 
「もうすぐはじまるよ」
 
 充血した目をこすりながら、ゲームのコントローラーをテレビのリモコンに持ちかえて、リョウが言った。テレビには見慣れたスカパーのCM。そしてあのアンセム。
 
「あ、アウェーだから今日は黄色か」
 
 いつも壁にかかっているブラウグラナのゲームシャツに袖を通しながら、リョウがひとりごつ。現地映像のメッシは、目が覚めるようなイエローのセカンドユニフォームを着ていた。
 
 ◇
 
 私とリョウが出会ったのは、冬のバルセロナ  この年の前のシーズン、私が父とふたりで参加したサッカー観戦ツアーでのことだった。
 
「二十歳の記念に、何か好きなもの買ってやるよ」という父に、私はそれをおねだりした。カンプノウでリーガのバルサ戦を一試合観て、ちょこっとバルセロナの市内観光をして帰るだけのパックツアー。サッカー雑誌の広告でよく見かけるやつだ。
 
 公務員の父は学生時代にサッカーをやっていて、私が子どもの頃は、役所の仕事が休みの週末、近くの小学校のグランドで小学生を相手にサッカー部の臨時コーチを務めていた。
 
 その影響で娘の私も、自然とサッカーが好きになった。
 小三のときに地域の女子サッカークラブに入団してから、中学で妙な女の子らしさに目覚めて一度はサッカーをやめたものの、高校ではサッカー部のマネージャーを三年間やり通しつつ、地域のクラブで子どもたちのコーチの手伝いもしたり、といった具合に、サッカーのある日常生活が当たり前だった。
 当時は父とJリーグをよく観に行ったし(特にジュビロが大好きだった)、高校時代、はじめてできた恋人はサッカー部の副キャプテンだった。その彼が海外サッカーに詳しくて、彼の影響でロナウジーニョを、そしてバルセロナを知った(彼とはすぐに別れてしまったけれど)。
 私はヴィトンのスーツケースより、エルメスの腕時計より、たった一度でいいからカンプノウを訪れることを望む、そういう女だ。
 
 リョウはそのツアーに、大学の男友達とふたりで参加していた。学生最後の、卒業旅行だと言っていた。
 
「社会人になったら、こんな旅行、もうできないだろうなって思って。俺ら頑張ってメッシ貯金したんすよ」
 
 成田空港の出発ロビーで、他の参加者と話しているのを横で聞きながら、私は思った。こういう男と付き合って結婚すれば、私はこれからもずっとサッカーを好きでいられる、と。
 
 ◇
 
「ロナウジーニョもすごいけど、これからはメッシの時代ですよ」
 
 ツアー最終日の夜、バルセロナ市内のホテルの近くのレストランで、私たち親子は彼らとたまたま同じテーブルになった。彼らは、いかに自分たちがバルセロナを愛しているか熱く語った。私もリョウも、その友達も私の父も、前の晩に生まれてはじめて体験したカンプノウの興奮からまだ醒めていなかった。
 
「エトーのハットトリックが見られるなんてね」
「いや、でも一番すごかったのはやっぱメッシ」
「あの個人技は反則だよね」
 
 私は、前線のエトー、ロナウジーニョらもすごかったけど、それよりも中盤のシャビとイニエスタの動きに見とれていたことを夢中で話した。父はワインを飲み過ぎて半分眠ったような目をしながら、若者のサッカー談義を満足そうに聞いていた。
 
「こんなにサッカーの話ができる女の子って、この世にいるんですね。俺のまわりひとりもいないからなー。お父さん、最高っすね」
 
 帰り際、リョウがそう言って、父が照れくさそうに、でも誇らしそうに頷いとき、私は胸がいっぱいになった。
 
 ◇
 
 私とリョウは、帰りの空港のロビーで連絡先を交換した。帰国してから、リーガやチャンピオンズリーグの試合がある度にメールのやりとりをするようになったのは、だからとても自然な流れだった。スポーツバーで何度かデートもした。そして季節は春になり、バルサがマンチェスター・ユナイテッドに敗れたチャンピオンズリーグの準決勝を、私はリョウの部屋で見た。「うち、スカパー見れるから、よかったら来る?」と誘われて。
 
 あのバルセロナでの出会いから、ちょうど一年。振り返ると、私はずっと幸せだった。
 
「またカンプノウに行きたいね」
「うん、ボーナス出たら冬に有給使ってまた行こっか」
「じゃあ私もバイト増やそうかな。単位落とさないようにちゃんと授業出とく」
 
 ふたりでそんな話を何度もした。
 
 新しいシーズン、フランク・ライカールトに代わって監督に就任したペップ・グアルディオラは、革新的なポゼッション・サッカーを展開していた。その中心は、私の好きなメッシとシャビとイニエスタ。私は、「もう一度、今度はリョウとふたりきりでカンプノウに行きたい」その夢にとりつかれた。もしそれが新婚旅行まで待たなくてはいけないのなら、今すぐ、学生のうちに結婚を決めてもいいとさえ思った。
 
「でも俺たちふたりだけで行ったら、お父さん、さびしいんじゃないの?」
「え、大丈夫でしょ。そんなの気にしなくていいよ。私はリョウとふたりで行きたい」
「だけどいちおう、誘ってみたほうがいいと思うな」
 
 リョウはサッカーが好きな上に、優しい男でもあった。私にとっては理想的な恋人だった。だった。だった。なのに  。
 
 ◇
 
 リョウは浮気をした。
 相手はリョウの昔の恋人だった。友達つながりで久しぶりに再会して、昔の話で盛り上がっているうちにやけぼっくいに火がいたという、よくある話だ。
 
 何度も謝られた。ほんの出来心だったことは、よく分かった。もう絶対にその子とは会わないとリョウは誓い、私の目の前で携帯の彼女のデータを全部削除した。でも私は許せなかった。
 
「ごめん、私もう無理」
 
 先週、私は電話でリョウに言った。電話を切ってから、フィーゴに罵詈雑言を浴びせたカンプノウのサポーターの気持ちが、なんだか少しだけ分かったような気がした。どんな事情があろうと、私は裏切られたのだ。裏切られた女の気持ちを、男はきっと一生、理解できない。
 
 ◇
 
 なのに、こうしてチャンピオンズリーグの準決勝を見るためにリョウの部屋にいる私はいったいなんなんだろう。荷造りを口実に部屋に上がり込み、そしてキックオフの時間になればちゃっかりとテレビの前に座っている。
 
 人とボールを動かし続け、常に相手陣内でのパス交換を繰り返すペップのサッカーに対して、ヒディングがとった策は、スコアレスドローに持ち込んだファーストレグ同様、ひたすら自陣のスペースを消してカウンターのチャンスを狙うサッカーだった。
 
 リョウと私のようなバルセロニスタからすれば、「卑怯者!ちゃんと戦え!」と言いたくなるようなスタイルだけれど、それがバルサ相手に一二〇分戦ってトーナメントを勝ち上がるために最も確実で効果的な方法であるということは明かだった。そして前半早々のチェルシーの先制点が、いきなりそれを証明した。
 ドライブのきいたエッシェンのボレーシュート。ホームで二試合トータルの先制点を奪ったチェルシーが、勝ち抜けのアドバンテージを得たのだ。
 
 攻めるバルセロナと、ハードワークで守るチェルシー。試合の構図はそれ以降、よりはっきりとした。後半のなかばを過ぎても、バルセロナはボールを持たされるばかりで、攻め続けているのに決定的なチャンスを生み出すことができない。
 焦りの見えはじめたバルサは、いよいよ窮地に追い込まれた。チェルシーの鋭いカウンターを防ぐためにファウルを犯したアビダルが、そのプレーで一発退場。ひとり少なくなってさらに決め手を失ってしまった。
 
 後半がはじまってからずっと、私の横では、リョウがしきりに爪を噛み、膝を揺らしてイライラしていた。それを見て私は思った。私たちの信奉するバルサの攻撃サッカーが、今まさに攻略され、崩れ落ちようとしている。今夜の試合は、きっと私とリョウの恋の終わりにふさわしい、と。
 このまま負けてしまえばいい。愛するバルセロナが、このまま敗退してしまえばいい。枠内シュート、ゼロのままで。徹底的に、愛を裏切るかたちで。
 
 ◇
 
 後半三六分、一点を追いかけるバルサのペナルティエリア内で、アネルカのコントロールしたボールがピケの手に触れた。PKだ。隣でリョウの肩がぴくりと動いた。私も反射的に後ろにのけぞった。万事休す。これでバルサは終わった  でもホイッスルは鳴らない。チェルシーの選手が主審にアピールする。でも判定は変わらない。バルサはなんとか首の皮一枚、絶望の淵から生き延びた。
 
 すると後半のロスタイムが三分を経過しようとしていたときだった。アウベスのクロスが逆サイドに流れ、メッシの足元におさまった。次の瞬間、ペナルティーアークの中にいたイニエスタにパスが通る。イニエスタがダイレクトで右足を振り抜く。アウトにかかったスライス回転。「あっ!」と私が声をあげた瞬間、ボールはチェフの指先をかすめるようにしてゴールネットに突き刺さった。
 
 歓声。イニエスタが駆け出し、黄色のユニフォームを脱いで珍しく感情を爆発させる。バルサの選手たちがひとかたまりになる。スタンフォードブリッジが揺れる。アシュリー・コールが膝に手をつく。ベンチで飛び跳ねるペップにシウビーニョが駆け寄る。そしてVTRで何度もゴールシーンが繰り返される。それは二点の価値を持つ、逆転のアウェーゴールだった。
 
 負けてしまえばいい。そう思っていたのに、私は気づくと両手を高く挙げ、ベッドの上で飛び跳ねていた。リョウは真夜中だというのに目の前のテーブルをバシバシ叩いて、足元のプレイステーションを蹴り倒した。そして私たちは抱き合った。
 
「うおー、すげえ!やった!」
「すごいすごい!うわー!」
「まじかー!」
「まじまじ!まじだよ!」
 
 本気で喜ぶリョウの顔を見られることが、私はやっぱり、嬉しかった。幸せだった。もう嫌いなはずなのに。大嫌いなのに。
 
 試合が終了したとき、私は、サッカーには魔法があるのだと知った。
 
 ◇
 
 あの逆転のアウェーゴールを決めたイニエスタを、真夜中にテレビの画面の中でしか出会うことのできなかった私たちのレジェンドを、今、日本で見られる。それは不思議な感覚だ。
 
 あのスタンフォードブリッジの試合から二年後、私とリョウは結婚した。
 翌年に子どもが生まれ、息子は今年で五歳になった。もう少し季節がよくなって、新型コロナウイルスの問題が一段落したら、そろそろこの子をJリーグの試合に連れて行ってみようか。リョウと私は最近、そんな話をしている。いちばん近くのスタジアムで、神戸戦が開催されるのはいつだろう。あとでネットで調べよう。
 
 よく晴れた春の日曜の朝、洗濯物をマンションのベランダに運んで、息子の黄色いトレーナーをハンガーに引っかけ、干しながら、私はふと、あのアウェーゴールを思い出したのだった。

FOOTBALL SHORT NOVELS COLLECTION :
FOOTBALL AND LOVE SONG
Written by Masashi Fujita

memo

録画放送ではなく生中継を観る醍醐味、みたいなのは、こういう試合のことをいうのだろうと思います。チェルシーサイドからしたら、当時最も輝いていたペップのバルセロナを、戦術的に完全にはめこんで倒す、その快感に到達するまさに寸前で、一方のバルセロナサイドからしたら、これだけ攻撃しているのに枠内シュートゼロという、まったくうまくいかない有様。じりじりとした焦燥感と恥辱の前に膝を折る寸前でした。普段は温厚で物静かなイニエスタが鬼の形相でシャツを脱ぎ、振り回し、興奮する姿からも、その「抑圧と解放」の度合いがわかるというものです。もしもVARがあの時代に導入されていたら、おそらくあのイニエスタのアウェーゴールの興奮は生まれなかったでしょう。主審をつとめたエブレベに詰め寄るバラックやドログバは、本当に勝利を盗まれたようなやりきれない気分だったはずです。だってピケのあれは明かにハンドだもの(そのあとも、もうひとつ微妙なノーホイッスル判定があった)。それでも、これがサッカー。VARそのものを否定する気はまったくありませんが、今は、「それでも、これがサッカー」と言える肝要な時代ではなくなってしまった。そのことが少し寂しいです。「正確なこと」と「楽しいこと」がお互いに共存できるように、VARとそれをめぐるサッカーのシステムに改善が重ねられることを願います。