#16
読了時間:約15〜20分
師走の冷たい風に頬をなぶられても、寒さをまったく感じない。
職場を出てかれこれ二時間も酒を飲み続けているというのに、今夜に限ってはちっとも酔いが回らない。
ただ行き場のない苛立ちと憤りだけが、胃の奥底から吐き気のようにせり上がっては、橋本に何度も大きなため息を吐かせた。
◇
所属する派遣会社から連絡があったのは、この日の昼休みのことだった。今の職場との契約が、来月末以降、更新されないと聞かされた。
「橋本さんなら、きっと別の企業さんとすぐ話がまとまりますよ」
電話口の若いコーディネーターは軽い調子でそんな励ましを口にしたが、橋本は来年、四十を迎える。次の派遣先がそう易々と見つかるとは思えなかった。
「でも部長さん、橋本さんには本当に感謝していました」
「まあ、こんな状況だから覚悟はしていたよ」
橋本にとっては、その台詞が精一杯の強がりだった。
◇
東京郊外にある電機メーカーの子会社で、パソコン周辺機器に付属する取扱説明書を作るのが今の橋本の仕事だ。その親会社が半年前、業績不振を理由に、コンピューター関連事業からの撤退を表明した。
正社員ですら、いつ肩を叩かれるかと怯えているのだ。契約満了というかたちで書面上は円満にクビを切れるのだから、会社にしてみれば派遣社員というのはなんと便利な存在だろう。
昼休みを終えてフロアに戻ると、橋本は所属部署の部長から会議室に呼び出された。
「なんとか君には残ってもらえるようにしたかったんだけど…」
「いえ、お気遣いありがとうございます。お世話になりました」
引き継ぎの予定を相談してから、橋本は席に戻り、定時まで普段通りに仕事をこなした。取り乱すのはみっともない。そう自分に言い聞かせ、いつもと同じように会社を出て、いつもと同じ電車に乗って、いつもと同じようにアパートの最寄り駅で降りた。
でも今夜ばかりは、そのままひとりで真っ暗な部屋に帰る気にはなれなかった。
◇
横文字の電飾看板に吸い寄せられるように近づき、体重を預けて重い扉を押し開ける。まだ九時前だというのに、これでもう三軒目である。
賑やかな若者の声のする店の奥に目を向けると、学生らしき集団が壁面に設置された大型スクリーンの前に陣取っていた。鮮やかな芝生のグリーンが疲れきった目に眩しい。
なんだ、サッカーか。
見渡すと、カウンターの壁面にも二箇所、テレビ画面が天井から固定されている。アイリッシュパブ風にしつらえられたその店は、どうやらスポーツバーのようであった。
橋本は野球には詳しいが、昔からサッカーはどうも好きになれない。もちろんルールは知っている。しかし、虫かごのようなゴールにただボールを蹴っぽるだけの単純さが、どうも気に入らない。
サッカーねえ、と胸の中でため息を吐くようにひとりごち、橋本はカウンターの手前側の隅に腰を落ち着けた。若い金髪のバーテンダーが近づいてきたので、とりあえず目についたマッカランの十二年物をストレートで注文した。
◇
正直なところ橋本は、まさか自分がクビを切られるとは思っていなかった。
派遣とはいえ、もう八年も勤め上げ、グループの中ではいちばんの古株である。会社への貢献という点では、そのへんの若い社員よりも自信があった。パソコン周辺機器の仕事がなくなっても、きっと家電やAV機器といった別のグループにまわしてもらえると高をくくっていた。なのに。
◇
若者たちの歓声につられてテレビを見上げると、シュートがゴールを外れる惜しい場面がリプレー映像で繰り返し流されている。
青いシャツと赤いシャツのチームの対戦で、青はほとんどが小柄な日本人なのに対し、赤のほうはみな大柄な外国人である。白人ばかりだが、なかには黒人も混じっている。
マッカランを舐めながら、なんとなしに実況に耳を傾けていると、青はどうやら関西のJリーグチームで、赤が世界的な名門チームであることが知れた。マンチェスターというから、わざわざイギリスから日本まで試合をしに来たのだろうか。
「これ、どっちが勝ってるの?」
画面の隅のスコアが見にくいので目の前のバーテンに訊ねると、1対3でマンユーっすね、と短い答えが返ってきた。
「マンユーってのは赤いほうだよね」
大事な試合なのかと聞けば、これはクラブチームの世界一を決める大会なのだという。
欧州代表の赤チームと、開催国枠で出場している日本の青チームの対戦。赤チームは優勝賞金を稼ぐために、わざわざ自国のリーグのシーズン真っ只中に日本までやってきているのだそうだ。
「逆転は厳しそうだね」
「まあ、当然のスコアじゃないですか。格が違い過ぎますよ」
青チームを小馬鹿にするようにふんと鼻を鳴らしたバーテンのその言いぐさに、橋本はひどく不快なものを感じた。
「格か。サッカーにも格の違いというのがあるんだな」
「もう、歴然としています」
「見て分かるものなの?」
「見て分かるというか、元々、レベルが違うんで」
「それって、正社員と非正規社員みたいなもの?」
頭に浮かんだことが、そのまま口をついて出てくる。バーテンは首を傾げ、シェーカーを振った。
◇
派遣切りが不当だとは思わない。業績の悪い企業が人件費を削減するとなれば、非正規の人間がまず追い出されるのは当然だ。それでも、理解することと納得することはまた別である。
自分はこの職場にとって必要不可欠な人材だと、これまでずっと信じてきた。「早く橋本さんを社員に登用すればいい」と、若い社員から酒の席で言われたことは一度や二度じゃない。なのに突然、何の相談もなく契約の打ち切りだなんて。
独身だから養う家族がいないのは不幸中の幸いだが、かといって貯金があるわけでもない。去年買い替えた車のローンはまだ半年以上残っている。それに契約満了まで、どんな顔をして会社に通えばいいというのか。
琥珀色のシングルモルトを勢いをつけて喉に流し込むと、胸の奥が怒るようにかっと熱くなった。
◇
「あれ、橋本さん?」
聞き覚えのある女の声に振り向くと、総務部の遠藤香苗がビールグラス片手に橋本の背後に立ってた。
「あー、やっぱ橋本さんだ」
一瞬、まぼろしでも見ているのかと思ったが、目の前にいるのは確かに香苗本人だった。臙脂色のタートルネックにチェックのスカート。黒タイツのすらりとした細い脚がブーツにささっている。
「何でこんなところに」
「橋本さんこそ、何でこんなとこいるんですか」
「俺んち、この近くなんだよ」
「えー、そうなんですか。私んちもすぐそこなんですよ。橋本さんもマンユー見に来たんですか? てか、サッカー好きなんですか?」
「いや全然。偶然この店入って、ひとりで酒飲んでるだけ」
「えー、じゃあちょっと隣いいですか」
そう言うなり、香苗は橋本の反応を待たずに隣のスツールに尻をのせた。スカートの裾がずり上がり、黒い太腿が半分ほどあらわになる。橋本はあわてて視線をテレビに移した。目をこらすと、1対3のスコアはいつのまにか1対5に広がっていた。
◇
「そっかー、橋本さんてご近所さんだったんですね。じゃあ朝とか同じ電車なのかな」
「俺、八時十五分の準急」
「あ、私、それより十分早いやつです。混むのいやなんで」
彼女と会社で顔を合わせるのもあとひと月か。そう思うと、さっきまでの悔しさとは別の口惜しさが橋本の胸にこみ上げてくる。
「そういえば来週、会社の忘年会ですね」
「俺、行かないよ」
「えー、何でですか」
橋本はバーテンにウイスキーのおかわりを注文してから、
「クビになるんだよ、俺」
と正直に言った。なんとなく、彼女の同情を誘いたくなっていた。
「えっ、まじですか」
「昼休みに派遣会社から電話きてさ、部長にも呼び出されたから、まじなんだな」
「いつまでですか」
「一月末で終了」
さびしいです、とか、辞めないでくださいよ、という言葉が続くのを期待していたが、
「あー、派遣さんがいなくなるって噂、やっぱ本当だったんですねー」
香苗はのんきな口調でグラスを持ち上げ、そして、
「それはそれは橋本さん」
と、よくわからない距離感で乾杯の真似をしてみせた。
◇
もう何年も前だが、橋本には香苗にひっそりと想いを寄せていた時期がある。彼女が入社してすぐの頃だ。同じ駅を利用していることは、実はそのときから知っていた。
「香苗ちゃんは、サッカー好きなの?」
「いや別に。うちの彼氏がサッカー好きなんで、よくこの店来るんですけど、待ち合わせしてんのに全然来なくてムカついて。そんでひとりで飲んでました」
「そっか」
彼女の口から出た、彼氏、という言葉に、橋本の胸がざわつく。
彼女が会社にやってきて半年が過ぎた頃、橋本の静かな片想いは、ある日、唐突に終わった。
総務の遠藤香苗は、うちの部長と付き合っている ― そんな噂がグループ内のあちこちから耳に入ってきた。不倫らしい。あの女は顔は可愛いが実はビッチ系らしい。
橋本は香苗のことを考えるのをやめた。まだ気持ちを伝えるどころか、事務的な用事以外では話しかけることもできない段階だったので、傷は浅く済んだ。
「彼氏ってのはさあ、うちの部長のこと?」
酔ってなければ、そして会社から追い出される身でなければ、本人を目の前にこんなことは口にできない。橋本は自棄になっている自分に気づく。
「えー、またその話ですかー。もう、会社の人から散々噂されて困ってるんですよね」
「じゃあ違うんだ」
「違うっていうか、まあそりゃ今の彼氏とは違いますよ」
「ん、それはどういうこと? 前は部長と付き合ってたの?」
「いや付き合ってはいなかったですよ」
「付き合っては、の『は』は何?」
「まあいろいろ。いいじゃないですかそんな話。あ、ちょっと待ってくださいね」
そう言って香苗は携帯電話をいじりはじめた。彼氏から連絡がきたのだろう、ものすごい速さで指を動かし、返信を送ってはまた数秒後に戻ってきた返事にメッセージを打ち返している。
橋本はそのディスプレイを覗きたい衝動に駆られ、気を取り直すために再びテレビの画面に視線を移した。
ちょうど青チームがPKでゴールを挙げ、焼け石に水のような1点を返したところだった。スコアは2対5。残り時間は5分。得点差を考えれば青の逆転は不可能である。サッカーには一発逆転の満塁ホームランも、スリーポイントシュートもない。
◇
「あー、もういいや。今日来れないとか今頃んなって言ってるし」
香苗が携帯電話のケースを不機嫌そうにぱたんと閉じて、ドリンクメニューを手に取った。
「彼氏、どこに住んでんの?」
「会社の近くですよ」
「え、会社の人?」
「社員寮、もういい加減出ろよって思うんですけどね。ケチなんで」
「そうなんだ」
「橋本さんの飲んでるのってウイスキー? ひとくち、いいですか」
香苗はそう言うなり、橋本のグラスに唇をつけた。
「あ、おいしい」
濡れた唇のあいだで、小さな蕾のような舌先がちろちろ動く。
「すいませーん、これと同じの、ロックでください」
「お酒強いんだね」
「えー、やけ酒っすよ。橋本さんもやけ酒でしょ?」
香苗は、三日月のような目で、にたりといやらしく笑った。会社では見たことのない表情だった。
「橋本さん、仕事、これからどうすんですか?」
「未定だよ。無職だよ」
「やばいっすね」
「やばいよ。あのさ、ちょっと聞いていい?」
「何ですか?」
「社内恋愛って、やっぱ相手は社員限定なの?」
香苗はきょとんとした顔で数秒間橋本を見つめ、それから橋本の言っている意味をようやく理解して、「そんなことないですよお」と大袈裟に首を振った。
「でも、うちの会社の子が派遣さんと社内恋愛で結婚したって話、私は聞いたことないですけど。男女が逆ならありますけどね」
「だよね」
そうなのだ。結局、そうなのだ。
「えーでも、せっかくご近所さんだったら、これから橋本さんちで飲み直しません?」
彼女の口から唐突な台詞が飛び出して、橋本は耳を疑った。
「え?」
「だって家近いんですよね? まだ時間早いし」
橋本はどう反応していいか分からず、「いや、うち狭いし汚いよ」と、とりあえず言ってみる。「それに冷蔵庫ん中、何もないし」
「あ、全然平気。そこの角のセブンでお酒とおつまみ買って飲み直しましょうよ」
「いや、うん」
「いいじゃないですか、やけ酒付き合ってくださいよー」
香苗が甘えるように橋本の肩に両手でもたれかかる。
「いいけどさ」
「じゃ、この試合終わったら出ましょっか」
「十五分くらい歩くけど…」
「全然余裕ですよ。じゃあ私、ちょっとお手洗い行ってきます」
遠藤はひょいと席を立ち、スカートの裾を直して奥に消えた。
◇
いったい何だろう、この急な展開は。
部屋に来るってのは、そういうことだよな、と念を押すように橋本は酔った頭で考える。俺が誘ったんじゃなくて、彼女から誘ってきたんだよな。てことはやっぱり、そういうことだよな。
橋本は目の前にあるグラスの、ついさっき香苗が唇をつけたところに口をつけ、残りをぐっと喉に流し込んだ。
◇
「長く勤めてもらえれば、正社員の話が必ず出てきますから」
最初に今の会社の面接を受けに行ったとき、派遣会社のコーディネーターは帰りの電車でそう言った。「橋本さんにこの職場はぴったりだと思うんですよ。橋本さん機械系強いじゃないですか。たぶん三年くらいしたら、社員の話、出ると思いますよ」と。
しかし八年待っても、社員採用の話なんて一度も出なかった。職場の連中にも派遣会社にも、裏切られた、と感じてしまうのは、仕方のないことだ。
だからこそ、こんな夜にもし、香苗を抱くことができたら、 ― 昼休みの部長の顔が目の前をよぎる ― さぞかし胸のすくことだろう。たった一夜の夢でいい。愛でも恋でもなく、やけ酒の末のなりゆき、ただの腹いせで構わない。今夜は、そういう夜だ。下腹部が熱を帯びてくる。
◇
ところが。
「ごめーん、橋本さん。彼氏やっぱ来るって」
トイレから戻ってきた香苗は、さっきまでとは別人のような晴れやかな表情で、スツールに腰を下ろす間もなく財布を開き、「これで足りると思うんで」と千円札を三枚カウンターに残すと、橋本があっけにとられている間にさっさと店から出て行った。
からからと鳴るカウベルの音に揺さぶられ、橋本の胸の中でがらがらと何かが崩れていく。
最低の夜だ。最悪の夜だ。
ふと顔を上げると、香苗との会話の一部始終が耳に入っていただろうに、バーテンは顔色ひとつ変えず、カウンターの中で黙々とグラスを磨いている。そしてテレビでは、まだサッカーの試合が続いていた。
ロスタイム。ゲームの勝敗はすでに決している。赤チーム、マンユーの勝ちだ。この試合が終わったらもういい加減、部屋に帰ろう。死んだように眠ろう。橋本が今、落ち着いて考えられるのは、もうそれだけだ。
結局、そういうもんだよな。そんなもんだよな。派遣のおっさんなんてさ。サッカーも人生と同じだ。ジャイアントキリングなど滅多に起こらない。
それでも画面の中で、青チームは相手のゴールを目指して果敢に攻め込んでいた。体格の違う屈強な長身選手にはじき返されても、またボールを拾い、前へ前へと走り込む。これから1点を返しても、2点を返しても、結局、負けは負けだというのに。
「これはさあ、トーナメントの試合なんだろ?」
バーテンに尋ねる。
「はい、負ければおしまいです」
「これだけボロ負けってのは、やっぱり予想通りなわけ?」
「しょうがないっすよ。格が違いますから」
また格、か。
「何でこいつら、負け試合でこんなに走るんだ?」
「嬉しいんじゃないですか」
「嬉しい?」
「世界のトップと戦うのが」
「そういうもんなのか」
「知りませんけど、そうなんじゃないですか」
その発想は、橋本の頭にはなかった。敵わない相手と戦うことが嬉しいだなんて、考えたこともなかった。
言われてみれば確かに、負けている青チームの方が、勝っている赤チームよりも楽しそうにサッカーをやっている。ピッチの上をがむしゃらに走り、格の違い、レベルの違い、体格の違いに抗おうと食らいついていく姿に、いつの間にか橋本の目は釘付けになっていた。
◇
後半のロスタイム、青チームの強烈なミドルシュートが再び名門のゴールネットを揺らしたとき、橋本は無意識のうちに拳を握っていた。
「おおっ」
声も漏れていた。
よし、もう1点返せ。もう1点、2点…。追いつけ。何が格の違いだ。何が、しょうがない、だ。ちくしょう。
◇
結局、試合は青チームの健闘むなしく、赤チームが5対3で逃げ切った。
やはり、がむしゃらに頑張ることと成果を得ることは、まったく別の問題だった。
肩の力を抜くと、大きなため息が漏れる。どんなに一生懸命に会社に尽くしたところで、社員でなければ評価などされない。女からも相手にされない。
それが、自分が今夜受け入れなければならない現実なのだ。
「いいよな、サッカーは。いくら負けても、また来年になれば次のシーズンがはじまるんだろう」
悔しさが口からこぼれた。
するとバーテンは橋本の胸の内を見透かすように、
「でもこの中にだって、来年クビになる選手がいるんじゃないですか」と言った。
「そうなのか」
「毎年、新しい選手が入ってきますから」
「勝っても負けてもか?」
「誰も退団しないチームなんてありませんよ」
「厳しい世界だな」
「どこもそうでしょう」
「どこもそう、か」
勘定を済ませて橋本が店を出かけたとき、日本人選手のインタビューが耳に入った。
振り向くと、橋本よりうんと年下であろう、青いシャツを着た幼さの残る顔立ちのその青年は、向けられたマイクに語った。
「自分たちが次にどうつなげていくかですから」
惨敗したというのに、なぜか表情は自信に満ちていた。
それはしっかりと自分の仕事をこなし、責任を果たした男の顔だった。声は清々しいほど真っ直ぐだった。橋本は店のドアの前で突っ立ったまま、その敗者らしからぬ敗者の弁に最後まで聞き入った。
おもてに出ると、足元がふらつく。風が身を切るように冷たい。
「次にどうつなげていくか、ですから、か」
橋本はため息のかわりに、今度はその台詞をつぶやいた。
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Written by Masashi Fujita
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